第67話 ウキウキ夏気分
「あー、もうっ! 浩介先輩、さっきからうーうー、うーうー、うっさいんですけど!」
ばしんという打撃音が狭い部屋の中によく響く。衝撃で、机上の物が少し跳ねる。特に消しゴム兄貴は可哀想。
「仕方ねえだろ、何書いたらいいか、全然浮かばないんだから」
「そこのどこに仕方ない要素があるんですか」
なおも後輩は喧しく、そして辛辣である。
俺は腕組みをしながら、身体を後ろに傾けた。軽い不安を感じながら、すぐに背中が柔らかい感触に包まれる。ため息をつきながら、今度は足を交差させた。
ここは二階の一角にある、日当たりの悪い小部屋――またの名を文芸部室。金曜日だから部会があるわけだ。
本当なら一時前には家に帰れたはずなのに。おかげで弁当を用意することになった。まあこれについては、どうせ瑠璃の分は作ってやる必要はあったので、大した手間でもないんだが。
昼飯の時間も終わり、午後はというと、ひたすら沈黙の時間を過ごしていた。三年生は夕方近くまで講習がある。つまりは、やることがない。
……だったら、いい時間に集合でもよかったのでは。しかしもう一度学校に来るのも面倒なわけで。ついでに、家にいたからといってやりたいこともない。冬休み以降、つくづく自分が無趣味人間だと思い知らされる日々なわけであった。
そんな俺の目の前には両面真っ白なコピー用紙。小説を書くためのネタだし、というものをしてみんとてすなり……このフレーズは何だったか。
今この部屋にいる文芸部一番の古株に相談したら「じゃあこれ」と差し出された。考えを纏めるのに使ってとのこと……その考えがまず浮かんでないんですけど?
「うるせーな、いきなり大声出す方がどうかと思うぞ。ほら、三田村を見てみろ。怯えてるじゃないか」
「えっ、いや、わたしはその……」
「先輩がうるさいからでしょ。おびえてるんじゃなくて、迷惑がってるんです!」
「あの望海ちゃん、それも……」
のぞは隣に座る三田村の身体をぎゅっと引き寄せた。現在、四人しか部員がいないというのに、二人は同じソファに腰かけている。
俺や五十鈴みたく、贅沢に使えばいいのに。俺はこれでもかと言わんばかりに、ダイナミックにソファに寄りかかっていた。
俺とのぞの間に、ばちばちと火花が走る。この女、意外と目力が強い。一向に退く気配がないので、俺の方が折れることにした。
顔を一人蚊帳の外にいる、すまし顔の同級生に向ける。
「ってか、お前はよくもまあ黙々と一人でスマホ弄ってられるな」
「賑やかなのはいつものことでしょう」
五十鈴さんはスマホの画面に目を落としたまま答えてくれた。
彼女の集中力を問題にしたわけじゃないんだが。まあ確かに、そっちの方も凄いとは思う。今はいない、あの名ばかり文芸部部長は本当に騒がしくって仕方がない。まあ、それがあの人のいいところだけど。
ということで、俺は改めて切り出すことにした。
「ずっと気になってたんだが、お前いつも何書いてんだ」
「教えない」
やはりこちらは見ない。
「……一年生ズは知らないのか?」
素っ気ない返しに心が折れて、再びノゾアンドシオンに視線を戻す。
答えはノー。二人は、双子のようにシンクロした動きを見せた。
「でも静香先輩のなら知ってますよ。濃厚なラブロマンス……!」
「はい、とっても素敵なお話でした!」
うっとりとした様子を見せ始める後輩M。あの人、意外とそういう趣味を持っていたな。一昨年の部誌はそういう内容だった。
去年はどうなのだろう。気になって、俺は棚を漁り始めた。ずっと失われていた去年の部誌。流石にもう戻ってきているはず。そう思ったのだが――
「ねぇ、五十鈴さん。去年の部誌はどこかな?」
粗方探し終えて、またソファに戻る。
「知らないわ」
「あー、それあたしも気になってたんですよ!」ぐっとのぞが身を乗り出した。「ねぇ、詩音はどう?」
「私も読んでないですね」
俺たちはいっせいに五十鈴の方を見た。こうなってくると、何かしらの意図が隠されている。それは、文芸部の先輩連中の仕業に違いない。
さすがに、副部長の手が止まった。一瞬固まってから、ゆっくりと顔を上げる。そこにある表情は、氷のように冷たい。
「……知らない」
「あーあ、五十鈴の読んでみたいのになぁ」
ちらちらと、視線を何度も送ってみる。
「別にいいでしょう。私のなんて」
「でも美桜先輩、あたしも読んでみたいです!」
のぞの言葉に、三田村も激しく首を縦に振った。
唐突に訪れる沈黙。いつも以上に、五十鈴はポーカーフェイスな気がする。最近になり少しはその感情の機微がわかってきたと思っていたが、今回ばかりはさっぱり不明。
「……五十鈴よ、果たしてそれでいいいのだろうか?」
「なにが?」
「小説とは誰かに読まれるために存在するんじゃないのか? そんなひた隠しにして、小説自体が可哀想だと思わないのか!」
弁護士がやるように、強めに机を叩く。すまない、消しゴム兄貴……。彼はとうとう、地面にダイビングしてしまった。
「誰に見せて、誰に見せないか、というのは私の自由ではないかしら、根津君」
だが、そこは氷の女王。少しも動揺を漏らさない。
「ぐ、ぐぬぬ……」
叩きつけた掌を、俺は悔しさのあまり握りしめた。
「詩音、あれを完全論破って言うの?」
「うん、たぶんそう」
「……聞こえてるぞ、後輩たちよ」
小さな声が漏れてきて、俺はそちらの方を強く睨んでやった。すると、わざとらしく「きゃっ」と言って、のぞが三田村と一緒に縮こまる。
「まあこいつのことはひとまずいいや。お前らはどうなんだよ。何書くか決まったか?」
おずおずと頷く三田村。そして、首を左右に振るのぞ。対照的な反応。どちらかと言えば、俺は後者に強い共感を覚える。
いきなり……でもないか。けれど、部誌に向けてなんか文章用意しろって言われても、そう簡単には思いつかないわけで。静香先輩は好きなことについて掘り下げれば、とか言ってたけど。好きなもの、ねぇ……。
思い悩んでソファに寝そべった。ぼんやりと天井と睨み合いが始まる。無数にある、点々とした模様。そのすべてを数えることができた時、俺は――
「へい、お前たちっ! 花火大会の時間だあっ!」
そんなくだらない思考はすぐにかき消された。とても楽しげな様子の三年生が、部室の中に乱入してきた。
彼女の言葉に俺は、ただひたすらに嫌な予感しか覚えないのであった――
*
なぜ俺は街の中心部へと向かう地下鉄に揺られているのだろう。どうしてこんなにも人がぎゅうぎゅうに詰まっているのだろう。浴衣姿の男女がキャッキャウフフしている理由は何なのだ。人類はいったいどこに向かっていく――
哲学的な問いを繰り返した挙句、目的の駅に着いた。扉が開くと同時に、いっぱいに開いた蛇口の水みたく、凄い勢いで人が流れ出していく。
俺もまた、それに巻き込まれた。窮屈さを最大限に感じながら、改札口を抜けて、一人その本流から外れていく。
開放感のあるコンコース、きょろきょろとしながら進んでいく。柱の陰に立つ人は意外と多い。忍者の末裔とかじゃなければ、待ち合わせだろう。ここにも浴衣姿がたくさん。後は、気合の入ったおしゃれ姿。
みんな、夏気分真っ盛りといったところか。ただの花火大会なのに、すごい盛り上がりよう。……なんでかな、少しお腹が痛くなってきた。
その中に――
「……こーすけ君って、変に真面目なとこあるよね」
その三人組はいた。周りに溶け込むためか、彼女たちもまた浴衣姿――夏気分仕様。三者三様、そのデザインは違う。だがしかし、俺にはよくわからない。大まかにいえば、美紅先輩は赤、静香先輩は青の下地に、鮮やかな模様が散りばめられている。
そもそも、それを言うなら先輩たちの方こそ、しっかりしてると思う。まだ待ち合わせの時間まで、十分近くある。にもかかわらず、きっかり揃っているとは……。
「誉め言葉として受け取っておきますね。ありがとうございます」
「いいって、いいって。後輩を立てるのも先輩の役目だからね」
「はぁ。なんなの、このやり取り……」
文芸部の先輩方だ。一人多いのはこの呆れている人物、つまり――
「あやや先輩! どうしてここに……?」
「私がどうしても、ってお願いしたの。ほら、多い方が楽しいかなって」
「そういうことよ。それで、仕方なく来たの」
仕方なく、ねぇ。にしては、気合が入ってると思うが。繰り返しになるが、三人とも浴衣姿。あやや先輩の物が基調にしているのは薄ピンク色。
堪えかねて目を逸らすと、何か言いたそうにうずうずしてる美紅先輩と目が合った。おそらく、気持ちは一緒だろう。
「……そこの二人。何考えているのかしら?」
「いやぁ、別に……ねえ、美紅先輩?」
「そーそー。あややの考え過ぎだってば」
「とてもそうは思えないんだけれど……」
「まあまあ綾香ちゃん。気にしない、気にしない!」
あやや先輩は全く納得いってないようだったが、そのまま口を閉じた。たださっきから強くこちらを睨んでくる……ちょっと怖い。
なんとも言えない気分になっていると、ぐいっと袖を引っ張られた。
「それで?」
「……なんすか?」
わけのわからないまま答えると、美紅先輩がその場でくるりとターンした。袖が優雅に宙に舞う。再びその顔がこちらに向くと、彼女はちょっと不機嫌そうな顔をしていた。
「わかってないなぁ。こういう時はよく似合ってますねー、とか。かわいいよーでしょ」
「すみませんね、気が利かなくて。――静香先輩、素敵です」
「まあありがとう」
「あやや先輩も……決まってますね!」
「なんだか別の意味が籠ってる気がするけど……ひとまず、ありがとうとは言っておく。それと、いい加減その呼び方はやめなさい」
俺はそれを黙殺することにした。初対面に感じた威厳を、俺はもう微塵にも感じていない。むしろ、オモシロ先輩として親しみを持っている。
そのまま会話は終わった。謎の空白の時間がじんわりと広がっていく。
「おいおい、ちょっと待て。あたしは?」
「じょ、冗談ですってば」
「最近、こーすけ君。アタシのこと侮っていないかな」
それは最近ではなく、そもそも初めからなんだがわざわざ訂正する必要はないだろう。とりあえず、ニコニコとして誤魔化すことに。
「というかさ、君はまたジャージなんだね」
「ええ、まあ。勝負服ですから!」
見せつけるように胸を張る。前とは違い、少しだけいいやつを引っ張り出してきたのだ。美紅先輩は、なぜだかとても残念そうな表情をしている。なかなか失礼な人だな。
「ところで、静香。またっていうのは……」
怪訝そうにしていた、あやや先輩が躊躇いがちに口を開いた。
「ああ、それはね――」
買い出しのことを、静香先輩は元文芸部員に説明する。
あれももうずいぶんと前のことか。確か、あの時も始まりは唐突だった気がする。美紅先輩は、何か企みを持っている時、大げさになるというのを俺はよくわかっていた。
話を聞き終えた元文芸部員は、とても苦い顔をしていた。目元がぴくぴくと引き攣っている。
「……私服、持ってないの?」
「これ、
「初めて聞いたわ、その単語……頭痛くなってきた」
「大丈夫、綾香ちゃん?」
心優しき我が部の会計さんは、同級生の顔を覗き込んだ。
「しっかし、浴衣を着てこい、とまでは言わないけど。もうちょっと夏っぽいかっこしてもいいんじゃないかい?」
「夏っぽいって…………」考えてみたが全く浮かばない。「例えば?」
「アロハだよ、アロハ!」
突拍子もない言葉に俺は目を丸くした。同時に、その場所が属する国に暮らしている両親の顔をちょっと思い浮かべてしまった。
だがしかし。言われてみれば、確かにそうか。アロハシャツ……父さんに言えば、送ってもらえるかもしれない。
「静香、あたし、そろそろ帰りたくなってきたんだけど」
「そ、そんなに具合悪いの!?」
その原因が自分にもあるとわかりながら、俺はあやや先輩のことがとても気の毒になってしまった。彼女が文芸部にいた時の苦労が、少しだけ偲ばれる。
そんな毒にも薬にもならない会話を繰り返している内に、待ち合わせの時間が近づいていく。何度か駅構内に、人がどっと沸いては、散っていく。そうそれは、波打ち際に押し寄せる波みたいに――
「ダメね。ありきたり」
「厳しいなぁ、あやや先輩」
そんな思い付きを口にしたら、図書委員長に鋭く叱られた。
と、そんなところに――
「お、いたいた!」
背後から女子の声がした。聞き覚えがあるそれは、待ち人の誰かのものだろう。だが、その主は関係ない人物のものだった。
聞き間違いではないと思う。だって、俺が一番聞いている女性の声の一つだから。
「おっ、こっち、こっちー!」
美紅先輩が応じたのに従って、俺もまたそちらの方へと身体を向ける。そこにいたのは――
「…………ドユコト?」
女子が五人いた。おかしい、後来ることになっているのは二人――三田村とのぞだけのはずなのに。
行かないと断った五十鈴、そして部外者の弓道部女子が二名。片やクラスメイト、そして……
そして誰もが、夏気分仕様に仕上がっていた――
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