第三章 近づく二人の距離

第66話  夏の始まりは緩やかに

 七月第三金曜日。時刻は朝の七時を少し過ぎたところ。

 昨日は終業式だった。別名夏休みの開幕を宣言する日。つまり今日からが、大抵の学生たちが心待ちにする長期休暇なわけである。

 なんだけど――


 食卓にはいつも通り三人分の朝食を並べた。これまた席は空。我が姉妹すみるりは未だ夢の中。

 

 夏休みになったからとはいえ、劇的に何かが変わるわけではなく。日常――この場合朝の一幕――は昨日からの引き続きもの……と文芸部っぽい思考に浸ってみたり。内容が意味不明なのは、触れないでおこう。


 ――はぁ。テレビの音が虚しく響くリビングに、俺のため息が吸い込まれていく。寝起きからずっと感じているげんなりした気分により拍車がかかった。


「おい、起きろ。遅刻するぞ」


 待っていても仕方がない。そもそも、こいつらが自分から目を覚ましてくることを期待する方が愚かだ。三人で暮らし始めておよそ四ヶ月。そんなこと、指で数えられるくらいにしかなかった。

 ということで、二人の部屋の前に立ち扉を強く叩いているわけである。中から物音ひとつしないことに軽い苛立ちを覚えながら、ひとまず俺は腕を組んだ。


 俺と瑠璃は確かに今日から夏休みだ。しかし、姉貴すみれはそうじゃない。むしろ、テストが近いとかいう理由で今が一番忙しいらしい。昨晩、おれるりに対してひたすら恨み辛みをぶちまけてきた。

 だが、それは全くの理不尽。実際のところ、俺と瑠璃だって――


「…………入りますよっと」


 くたびれた気持ちでドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。ノブを下げたまま軽く押すと、あとは自然にドアは開いていく。


 もう十分に猶予は与えた。こうして無断侵入したところで文句は言わせない。そもそも起きてこない二人が悪い。まあ向こうもそれがわかっているからか、批判してきたことはないが。


 躊躇いなく踏み込んでいく。ふわっと芳香剤の香りが漂ってきた。分厚いカーテンがしっかり機能しているため薄暗い。

 構わず俺は窓辺へと歩み寄ると、ばっとカーテンを開け放った。待ってましたと言わんばかりに、朝日が勢いよく差し込んでくる。光が行き渡ると、よく整頓された部屋の風景が目に入ってきた。


 それでもなお、二人に変化はない。変わらずベッドの上に横たわったまま。身じろぎひとつしないその様は、さながら死んでいるんじゃないかと思えてくるほど――耳をすませば、ちゃんと規則正しい寝息が聞こえてくる。

 まずは姉の方から片付けることに。奴は二段ベットの下段、容易に取り掛かることができる……ただし起こすのまで簡単だとは言ってないみたいな。


「しかし、ムカつくほど気持ち良さそうな寝顔だな」

 割と大声を出してみたが、虚無感を得ただけ。


 ちょっと恥ずかしくなりながら、俺は姉の方に手をかけた。そのまま強く揺さぶってみる。もちろん、耳元で罵詈雑言を浴びせながら。

 ……此度の眠りはよほど深いようで。こうなればあとはひたすらにを上げていく。終着点はカラシ塗り込み。チューブはポケットに忍ばせてありますとも。


 俺は姉の頰にそっと手を伸ばした――柔らかい。このまま世界が終わるまで、永遠にプニプニし続けたいとすら思える極上の感触。それを俺は、思いっきりつねった。


「ったーいっ!?」

 予想以上の声量に思わず耳を塞ぎたくなる。


 凄い勢いで、飛び起きてくる根津菫。一瞬身を引くのが遅かったら頭がぶつかっていた。

 上半身を起こしたまま、姉貴は俺の方を睨んでくる。ちょっと赤みを帯びたほっぺたをさすりながら。目の端にはキラリと光るものが浮かんでいた。


「なにするの、浩介君っ! いたいなぁ……」

「せっかく起こしてやったのに、その言い草はないんじゃないか?」

「うっ……うぅ、それはありがとう、だけど……」


 寝起きなためか、姉はすんなりと引き下がった。それでもまだ不服そうではあるけど。これがもし、パーフェクトスミレ状態ならば、烈火の如く怒り出すことだろう。手段に間違いがあったことは、俺も認めるところだ。


「あのさ、さっさと瑠璃アホ起こして飯食ってくれないかな。片付かないから」

「……はい、ゴメンナサイ」しゅんとした様子を見せた姉貴だったが、すぐにキョトンとした。「瑠璃ちゃん、夏休みだからもう少し寝かせてあげても――」

「忘れているようだから言っとくが、俺も瑠璃も学校には行かなくちゃならないんでね」


 苦々しく吐き捨ててから、俺は力づよい足取りで部屋を出た。しっかりと姿勢を正し、制服姿を見せつけるようにして。





        *





「さて、晴樹君。なぜ僕たちは学校にいるんだろうか?」

「夏期講習があるからでしょ」

 さも当然というように、真ん前に座る友人は答えてくれた。


 数学教室A――このAはいったい何のAなのだろう――には、薫風高校の二年生がぎゅうぎゅうに押し込まれていた。正しくいえば、文系クラスの面々だけだが。より付け加えると、全員ではない。

 一時間目が数学、二時間目国語、三時間目に英語……これが夏期講習の時間割。今は数学の時間。この授業だけが、クラスを分けて行われる。


 ――いやそういうことではなく!


「ねえ、おかしくない? 夏休みって、学校に行かなくてもいい期間じゃない!」

 昨日までと変わらぬ風景を眺めながら、友に怒りをぶつける。

「仕方ないよ。講習、強制だし。――それと、おかしいのは君の話し方の方だと思うよ」

「……誰かさんを思わせる辛辣さだな」


 首を左右に振ってから、俺は改めて教室の中を見渡した。ちらほらとクラスメイトの顔――四カ月という時間は、さすがにそれを識別できるようになるのに十分だった。割合的には、見知らぬ顔の方が多い。

 その誰かさんもそうだが、押元もいない。あとは、あの口喧しい幼馴染くされえんと深町の姿も見当たらなかった。普段の教室と広さは変わらないので、見落としたということはないはず。


 クラス分けは普段の数学の授業(数学B)と同じ。この間の定期テストの結果に応じて、成績順に教室が分けられている。

 でも、クラス分けすることに何の意味があるのだろうか。数学2とBその両方だったらまだわかるけど。いや、Bはそれほどまでに高度ということかもしれない。思わずして辿り着いた真実に、少しだけ魂が震えた。


「どいつもこいつも楽しそうだな」

「……そんなことないと思うけど」

「誰かいないのかよ、この現状を打破してくれる英雄は」

「そんなに不満があるなら浩介君がやればいいんじゃ……」

「俺はそんな過激派じゃない。サボりもできない小心者だぞ」

「威張ることじゃないよ、それ……」


 ニコニコしている晴樹しかり、教室の中には普段と変わらない風景が広がっている。昨日の終業式が嘘だったように。

 でもみんな内心では思っているはずだ。こんなものはおかしいと。学校という巨大権力による欺瞞行為。俺たちの憤りはやがて大きな渦になり――


「そのうねりは薫風高校をぶち壊す、みたいな」

「いやだよ、そんなバイオレンスな高校」

「そうか、晴樹のお気には召さなかったか」

「……だいたいさ、去年もそうだったわけだし、みんな諦めがついてるんでしょ」

「まあそれもそうか」

 ついでにいえば、冬期講習も同じ形式である。


 たちまちやるせない気分になって、俺は顔を背けた。ここから始まる六日間。サッカーもびっくりのアディショナルタイムだ。気が重たくなって仕方がない。


 そのまま、始業のベルが鳴るまでの間、晴樹と適当な話で盛り上がる。席替えをしてから、こうして朝の時間に晴樹と話すのもずいぶん久しぶりだ。だからなんだ、と言われればそれまでだけど。

 やがて、一人の女子生徒が入ってくるのが目についた。俺の席が廊下側に近かったのと、前を向いていたから、あくまでも自然な成り行き。


 女子生徒は背筋をピンと伸ばしながら、長い髪を揺らして歩いていく。これまたで、その姿はちょっとだけ新鮮だった。

 教室の喧騒など、全く気にしてないのだろう。凛とした足取りで、彼女は教室前方にある席に着いた。そのまま、柔らかな所作で鞄の中身を整理し始める。

 教室が同じなのは、もうずっと前に知っている。テスト後のクラス替えの時に気が付いた。それまではいなかったから、たぶんテストの結果がすこぶるよかったのだろうと思う。……数学はちょっと苦手にしていた記憶があるのだが。


「押元君、大丈夫だったかな」

「押元……? あいつがどうかしたのか」


 気づけば晴樹もまた五十鈴の方を見ていた。俺がちょっと目を奪われてたからか。

 ばつの悪さを感じながら、やや大袈裟に、ここにはいない友人の名を繰り返した。まあなんとなく、話の方向性には察しがつく。


「花火大会に誘うんだってさ」

「ハナビ、タイカイ?」

「なにその、今初めて聞きました的な反応は」

 

 朝のテレビでそんなことを言っていた気がする。気がするだけ。具体的な内容は何一つ覚えてないそれとは別に、この時期に大きな花火大会があるのは知っている。


「それだよ、それ。秋早川のやつ。それ、今日だよ」

「はぁ。なるほどねぇ」

「心底興味ないみたいだね」

「そりゃまあな。――おやおやもしかして、晴樹殿はどなたかと行くご予て――すみません、失言でした」


 晴樹の目が細まったのを見て、慌てて言葉をしまい込む。普段温厚な奴ほどキレると怖い。それは、古今東西あらゆる書物に記してあることなわけで。

 考えてみれば、我が姉もその部類と言えるだろう……あの後、すっかり平静を取り戻した彼女に、俺はこってり絞られた。ついでに妹には軽蔑の眼差しをぶつけられた。


 にしても、花火大会、ねぇ。それは数あるリア充イベントの一つ。もちろん、俺には縁遠いイベントだ。

 別にそこまで気にすることでもないんだろうけど。実際、昔家族で観に行ったこともある。それなりにはしゃいでた記憶がある。高校生となった今では、全く心が躍らないのはある種恐ろしい。


 俺も大人になったということか……ちらりと五十鈴の方を見る。他者を寄せ付けないしっかり伸びた背中――そこに俺は、押元の企みが絶対に失敗に終わることを確信するのだった。

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