幕間話その7 それぞれの特訓
聞き心地のよい、透明感のある女性の声が部屋の中に響く。癖のないその声音は、物語を紡ぎ出すのにぴったりだ。ストーリが頭の中で、ゆっくりと組み上がる。
別に俺が、何度もその本を読んだからそう思うわけじゃない。確かに内容はほぼ完全に把握している。でも、受ける印象は少し違った。それはたぶん、読み手の技術のおかげなのだろう。……素人の自分にはよくわからないことではあるが。
金曜日の部会。その内容は最近、こんな風に読み聞かせの会に向けた練習にすり替わっている。今は我が部きってのクールな副部長のターン。その美しい声が奏でる物語に心打たれよ……これは美紅先輩の受け売り。
いつものローテーブルは廊下に追放した。そしてソファを再配置し直して、読み聞かせゾーンを作ってあった。壁際にパイプ椅子――そこが読み手の席。観客である俺たちは向かい合うようにして座っている。
しかしこの女、読み聞かせになると普段と雰囲気が変わりすぎだろ。まず、表情が明るい。常に口角が上がってる。さらに、声がいくらか高いし、丸みがあるというのか、どことなく優しい感じがした。
いつもの姿を知らない人間からすれば、今の彼女の姿はきっと魅力的に映るだろう。容姿、声、所作の柔らかさ、どこをとっても完璧――清楚系お姉さんのテンプレ……周五郎ならそう言いそう。
だが、それも今だけのこと。読むのが終われば、すぐに元の姿に戻る。これはあくまでも読み聞かせモード。だからこそ、こんなにも作り物めいているわけだ。
でもそれは決して悪いことではないと思う。実際に子供に相対した時、例の無愛想な感じの方が恐ろしい。それを、五十鈴自身もわかっている……かは不明だ。
「――二匹は末永く暮らしました。おしまい、おしまい」
パタッと本を閉じると同時に、五十鈴の顔からすっと笑みが消える。口を一文字に結び、瞳の色が少し暗くなる。この無表情っぷりに、俺はちょっとほっとする。
「いやぁ、相変わらずうまいね、みおっち!」
拍手と共に、部長の黄色い声が飛んだ。
「いえ、私なんてまだまだで。先輩たちの方が上手です」
「えーそんなー、言い過ぎだよ、みおっち。十分いい線行ってるよ」
「なに上から目線で言ってんの。今のは美桜ちゃんのお世辞でしょうに」
ペシっと、キレのあるツッコミが会計さんから入った。そんないつも通りのやり取りに、俺と一年生たちは笑い声をあげる。さっきまでの、神秘的なムードは跡形もなく消え去っていた。
その後、今の五十鈴の発表に対して意見を述べ合う。もっとも、彼女について何か反省点が出てくるわけではなかった。俺たち初心者組が色々とアドバイスを求める時間。それは、先輩方の時も変わりがない。
そして――
「じゃ、次はこーすけ君ね」
「へーい」
部長の使命を受け、俺は本を片手に立ち上がった。五十鈴と入れ替わる形で、パイプ椅子に座る。視線を上げると、視界いっぱいに部員たちの顔が。
初めての時は、かなり緊張した。まあ、もう何度も練習を重ねたから、そんな恥ずかしさは消えているが。俺はゆっくりと本を開いた。
そして最初の行を読み上げていく。
「むかし、むかし――」
「途中、ちょっと早口になってた」
読み聞かせ後の意見交換会。真っ先に手を挙げたのは、我がクラスメイト。朗読してた時の様子はどこへやら。すっかり、いつものクールさを取り戻している。
「ああ、中盤のあの辺か。自分でもまずいとは思ってたんだけど」
「ちょっと読むのに必死になりすぎてたかな。でも自覚があったのなら、次気を付ければいいと思う。後は、そうね。声の感じは前の時よりもよくなってたわ」
「ホントか? その辺は自分では少しわかりにくい部分だからさ」
「あ、でも――」
その後も五十鈴が気になったところを述べていってくれる。自分では気づかなかった意外な指摘もあったりして、とても参考になる。
「またみおっちの個人レッスンになってんね」
「別にいいんじゃない? よく気がつくなぁ、って思うよ」
「それよりも、あたし的には浩介先輩がこんなに真面目にやっている方が気にな――」
「聞こえてんぞ、のぞ!」
耳に入ってきた雑音に思わず眉を顰める。そちらの方を睨むと、ばらばらと顔を背けられた。しかしただ一人、会話に参加していなかった後輩とは目が合った。
「三田村、なんか言いたそうだな」
「えっ、いえ、わたしは別に……」
「根津君。後輩をいじめない。ほら、ちゃんと集中して」
「いや、いじめてるわけでは。ってか、まだやんの」
もちろん、という風に静かに彼女は頷いた。彼女のアドバイスは始まると長い、そして細かい。普段はあんまり話す方じゃないくせに。
そんなスパルタな五十鈴美桜先生によって、俺たちの読み聞かせはどんどん改善してくのだった――
*
「はい、腰が高ーい!」
転がっていったボールは、五十鈴のグラブの下を通過した。ちょっと間があってから、彼女がそれを追っていく。
とある水曜日の放課後。球技大会を控えた俺たちは、絶賛ソフトボールの練習中だった。いや、俺たちではなく、五十鈴の特訓といった方が適切か。
メンバーは他に、文芸部の一年生。先輩方は塾があるからとさっき帰っていった。人数が少なくなったため、守備練習に切り替えた。
「ねえ、もう一度お手本を見せて欲しいんだけれど」
ようやく、向こうからボールが返ってきた。ノーコンはだいぶましになっている。いい感じにワンバウンドして、俺の補佐をしているのぞのグラブの中にボールは収まった。
「……へいへい。――のぞ、ノックできるか?」
「あれだよね。浩介先輩がやってたみたくすればいいんでしょ? たぶんできると思います!」
そんな簡単じゃないと思うけれど。しかし、運動神経抜群な後輩は謎に自信満々だ。やや不安を覚えながらも、彼女にバットを手渡した。そして、五十鈴の方に向かって走っていく。
「よし、いいぞ」
「はーい。――よっと」
合図を送ると、のぞがボールを打ちこんできた。しかしその方向は――
「って、おーい!」
ボールは強い勢いでまず一つ大きく跳ねる。明らかに進行方向は俺の正面からちょっと右にずれている。油断してたから回り込むのは厳しい。
瞬時に判断して、俺はボールが到達する地点に向けて走り出した。そしてそのまま横っ飛び。
身体にダメージを感じながらも、グラブの中にボールが収まった感触がある。そして膝立ちのまま、のぞにボールを投げ返した。
「わー、浩介先輩すごーい!」
ノッカーの称賛の声。そして拍手の音が二重になって聞こえてくる。見ると、離れたところにいる三田村も手を叩いていた。彼女はなんちゃってファースト役である。
「さすが少年野球をやってだけのことはあるのね」
特訓相手の声がしたので、視線を元に戻す。
「……あれ? 五十鈴に話したこと、あったっけか?」
軽く思い返してみるが、その話はそもそも――
「ああ。高松との話聞いてたのか」
「…………うん」
やや長い間があった気がするが、なんだろう。気になったものの、彼女の表情に特に変化はないわけで。
にしても、地獄耳だな。滅多なことは言うべきではない……と思ったけど、もう手遅れか。
「で、のぞ。お前、わざとやってんのか?」
「いえいえ、まさか。つい、強くなったというか」
「そうか。……次は頼むぞ?」
「フリですか?」
それには反応せずに、俺は再び構えを取り直した。ぱんぱんと強くグローブの土手部分を叩く。
カーン――今度はまっすぐにこちらに向かってボールがやってきた。さっきのは何だったのかと思うほど、文句のつけようのない出来。
五十鈴に説明しながら、俺は捕球姿勢をとった。しっかりと身体を低くして、ボールを迎え入れる。キャッチしたらすぐ右手で蓋を。すぐに投げられるようにそのまま右肩あたりまで手を上げる。
「ファーストっ!」
「は、はいっ!」
三田村に向かって、俺は優しくボールを放った。彼女はしっかりとキャッチする。そして流れるように、同学年の女子へとボールを戻した。
……ザ・文学少女という雰囲気なのに、意外とあいつは運動神経がいい。今の動きを見て、ぼんやりとそんなことを思った。そして複雑な思いで、同級生のことを見る。
「こんなんでいいか?」
「うん」
「じゃあ頑張ってな」
そして俺はのぞと交代した。五十鈴の準備ができるのを待ってから、そこへ向かってボールを打ちだす。二度三度バウンドを繰り返すが――
「きゃあ」
五十鈴の手前で大きくボールが跳ねた。軌道が変わり、彼女の身体の方へ。
驚いたのか、五十鈴はちょっと身体を捻った。そのままにしりもちをつく。またしても、ボールは彼女の後方に転がっていった。
とりあえず、俺は後輩たちと一緒に副部長のもとに駆け寄った。幸いけがはないらしく、彼女はすました顔で土を払い始める。
「美桜先輩、けがはないですか?」
「ええ。大丈夫よ、詩音さん。ありがとう」
後輩の問いに、五十鈴は少し表情を緩めながら答えた。
「でもさっきの、美桜先輩すっごくかわいかったです!」
「そうか? 俺はちょっとぞっとしたが……」
「根津君、それはどういう意味かしら」
珍しくきつい表情で睨まれたので、俺はそのまま口を閉じた。
「だいたい、キミのせいだよね。なにするの」
「いや、あれはイレギュラーバウンド……狙ってやったわけじゃない」
「……ホント?」
「ああ。たまにあることだ。だからゴロを取るのって結構難しいのさ」
ということで、再びの練習再開。何度かノックを繰り返す。トンネルの数は少なくなっていった。それでもグラブに当たったり、足で弾いたりと、中々完全捕球には至らないが――
「どう?」
ようやく、五十鈴がボールを捕ることに成功した。ここからでも、得意げな表情をしているのがよくわかる。まあ、その嬉しさはなんとなくわかる。
「ああ。大したもんだ、すごい、すごい」
「うわー、浩介先輩、白々しい……。――みおせんぱーいっ、すごかったでーす!」
お前も小学生並みの感想じゃねえか。
「ナイスキャッチです、先輩!」
三田村のは少しだけましだった。
「ほれ、次はファーストに送球」
「うん。――えいっ」
ボールはあらぬ方向へ。ゴロを捕れたということに完全に気が緩んでいたらしい。
「ごめんなさい、三田村さん……」
「いえ、大丈夫です。取ってきますね」
そんな健気な後輩の姿に、俺は少しだけ心を動かされた。この後も何度か同じようなことが続くだろう、俺はそう予感していた。
捕球して送球――それは決して簡単なことじゃない。案の定、五十鈴はゴロを捕れるようになったものの、なかなかボールは手につかず。
彼女の守備練習のはずが、いつの間にか三田村の走る練習にすり替わってしまった。挙句の果てに、のぞとその役割が変わる。
でも、五十鈴が一生懸命上手くなろうとしているのはわかる。だから、俺たちも陽が落ちるまで彼女の猛特訓に付き合うのだ。
果たして何が、この本大好きなインドア系少女をここまで突き動かすのか。その答えをのちに俺は知ることになる。五十鈴美桜は負けず嫌いで凝り性……それがあの、朗読のうまさにも繋がっているのだ、と。
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