幕間話その4 賑やかなテスト前の放課後
カリカリと、紙の上に文字を刻んでいく。こうして先の尖ったシャーペンで、数学の解答を作っていくのは楽しい。……もちろん、すんなりわかれば、という条件が付くが。
『よって題意は示された』っと。数2の最初の部分は整式と睨めっこすることが多い。関数や図形が好きな俺としては、正直少し物足りない。順調にワークは進み、気が付けば提出範囲は間近に迫っている。
「なあ、根津。ちょっといいか?」
「ああ」
押元に話しかけられて手を止めた。放課後の勉強会五日目。明日には土日がやってきて、それが終わればテスト初日だ。一日目は古典と日本史とかいう素敵な組み合わせ。まったく暗記を多く必要とするものを一緒にしないでもらいたい。
メンバーはいつもの三人。そして一昨日あたりから、俺たちが勉強をしていることを訊きつけたクラスの男子が二名ほど加わった。
遠くの方には、若瀬のグループとまた違う女子の集団。もう一つ、深町を中心としたトリオもいるが、彼女たちは比較的近い位置に陣取っている。
「これなんだけど、どうして違うんだ?」
「ん、ちょっと待ってな」
差し出されたのは英語のワーク。その上にすぐに解答が被さった。試験範囲は比較、関係詞、仮定法。どうやら俺に訊きたいのは、やっぱり関係詞らしい。……これで三度目だ。
ぐるぐるマークの付いた問題が質問したい部分らしい。押元が記した解答と、正答をさっと見比べる。すぐに彼の犯した致命的間違いには気が付いた。そしてこれは――
「だ~か~ら、なんでもかんでも『which』を使うんじゃねえ!」
もうだめだ。俺の怒りは今、頂点に達した。所謂、堪忍袋の緒が切れたというやつ。反射的に叫んで、軽く机をたたいていた。そして、目の前でキョトンとしている友人の顔を強く睨む。
「なんでだよ? 人だったら『who』それ以外は『which』そう言ったのはお前だぜ? ……まさかこの『The house』ってのは人なのか?」
「なわけあるか!」
瞬間的に悟る。この男に英語を教えることはできない、と。少なくとも俺には。問題の要は、名詞と副詞の違い。それはさっきも説明したにもかかわらず、彼は少しもわかってくれなかったらしい。……おかしいなぁ、二回は同じ話をした。なんなら、さっきも同じようなとこ訊かれた。
「ちょっとあんたたち、うっさいんだけど!」
すっ飛んできたのは若瀬だった。
「騒ぐんなら、ヨソでやんなさい、ヨソで!」
烈火の如く怒り出すつり目のクラスメイト。普段からややキツめの顔立ちだが、やはりこう顔を険しくすると、その怖さはぐっと増す。まあ俺としては、今さら感しかないのだが。
それでも視界の端で、他の男子連中がこそこそと避難するのが見えた。奴ら、他人のふりをして少し離れた席に座りだす。当事者である俺と押元は、完全に乗り遅れた格好だ。
「……確かに、少しうるさかったのは謝る。けどな、こう何度も何度も同じことを訊かれると」
「おい、俺のせいって言いたいのかよ!」
「そうよ、あんたの教え方が悪いんでしょ」
「すっげー、理不尽!」
「だから大声出すな! リアクション芸人でも目指してるの? サムいわねぇ」
嫌みったらしく鼻を鳴らして、肩を竦める腐れ縁の少女。
そんな超塩対応になんとも言えないでいると、押元が少し身を寄せてきた。ちょっと気の毒そうな顔をしている。
「若瀬、お前に対して厳しすぎだよな。同情するぜ」
「……おお、アリガトー」
もとはといえばお前にも原因はあるんだけどな、という言葉はしまっておいた。
「にしても、お前はなんだ? 学級委員か、何かか。いちいち注意しに来やがって、全く見上げた根性だな!」
「なんで逆ギレしてんのよ! そうよ、そうよ、学級委員です! 悪い!?」
「……マジで?」
彼女は腕組みをしたまま、怒ったように頷いた。
……今明かされる衝撃の真実、みたいな。まあこいつは、昔から委員長っぽいところはあった。だからそこまで意外な話ではない。
「呆れた。あんた、そんなことも知らないのね。どんだけ周りに興味ないのよ」
「一昨日あたりも、女子の名前間違ってたな」
「うわっ、サイテー」
返す言葉は無かった。やってはいけないことをやってしまった自覚はある。その相手、深町翠さんは笑って許してくれたが。もう二度と忘れない、絶対。
その彼女はここ最近、よく話している。といっても、放課後のこの勉強時間に限定してだが。彼女がよく俺に質問事項を持ってくるのだ。頼られて悪い気はしないので、ちゃんと相手をしている。というか、この男子連中よりも、よっぽど疑問の質がいいのだ。俺もまた、勉強になることが多い。
そういう流れで、つい口を滑らせた。どうしても彼女に呼びかける必要があって、ぼんやりと覚えていたせいで間違った。何を言ったところで、言い訳である、はい。
「とにかく、もう少し静かにしてよね」
まったく、とぶつぶつ文句を言いながら若瀬は去っていく。肩を怒らせて歩いていく後ろ姿を、俺はぼんやりと見送った。その奥に、一心不乱に机に向かう五十鈴美桜の姿を見つけた。
「ほんとあいつはめんどくさい性格してんな、あんなのと付き合ってるやつの気が知れねーわ」
「それって、六組の柏浦友成のことか?」
「へー、押本知ってんの?」
「というか、あんな美男美女カップル知らない方が――って逆にお前の方がよく知ってんな」
「中学が同じなのさ」
「なるほどねぇ、これで一つ謎が解けた。どうしてあんなに、若瀬はお前に食ってかかるのかって」
押元はとても納得のいった表情で頷いている。
「じゃあ深町は?」
「はあ?」
「お前、あいつとも仲いいみたいじゃん」
「……部活が同じだったから」
だと思う。というか、それ以外に心当たりはない。そもそも、仲がいいなんていうこと自体が微妙。ここ最近よく話すだけなんだが。
とにかく。気を取り直して、机に向きなおす。果たして、この問題をいったいどう処理したものか。正直もう、相手をしたくないというのが本音のところだ。
そして、一ついいことを思いついた。
「せっかくだから、五十鈴に訊いてみるってのはどうだ?」
「……はっ! 目から衣だな、それ!」
興奮した様子で俺の手から問題集をひったくると、押元は揚々と若瀬グループの方に向かっていく。衣ってなんだ、衣って……。三文字だ、ということしか合ってない。まあ本人が満足そうなので良しとすることにしておいた。
うるさい奴がいなくなったために、俺は自分の勉強に戻る。周りの席は空っぽ。避難していった連中は、疎開先で楽しくやっているようだった。
いい加減、こっち来たらいいのにな、ちょっと寂しさを感じながらも、俺は次の問題に取り掛かることにした。
「根津君。今日もその、いいですか?」
そこへ上から少し弱々しい女性の声が降ってきた。
つられて顔を上げると、噂をすればなんとやら。深町翠がそこにいた。申し訳なさそうに、少し目を伏せている。
「ああ。ご覧の通り、俺はすっかり嫌われ者だからな」
「……そうなんですか?」
真に受けたのか、彼女はゆっくりと首を傾げた。
「いや、冗談だけど。――悪かったな、さっきは騒がしくして」
「いえ、そんなことは。二人も気にしてませんでしたし」
深町は軽く後ろを振り向いた。そこには、彼女の友達と思しき二人の女子が座って黙々と手を動かしている。交流は全くないが、ここ数日ずっとその姿を視認してはいた。
彼女は顔を戻すと、ゆっくりと斜め前の空いている席に腰を下ろす。控えめで柔らかい仕草。この女子は同い年にもかかわらず、物腰が丁寧なのが印象的だった。
「いつも思うんだが、俺でいいのか? 五十鈴のが、勉強できると思うぞ」
「え、ええと、それはその……。あんまり話したこともないですし」
それは俺も一緒だと思うんだが。同じ部活だったとはいえ、彼女と言葉を交わしたのはこの間が初めて……だと思う。少なくとも、俺の方に思い当たるところはない。それは彼女だけに限った話ではなく、そもそも女子と接すること自体ほとんどなかった。
まあ、それはいいとして。今、五十鈴は絶賛押元の相手をしている最中。どちらにせよ、深町の質問を受ける余裕はなさそうだ。
「迷惑、ですか?」
「そんなことない。あの馬鹿より、よほど建設的だ」
「……そんなに、押元君って、その――」
「俺からは何も言わない。それが、せめてもの優しさってやつだろ?」
憐れみを込めた俺の言葉に、深町はくすりと笑みをこぼした。こうしてまともな反応が返ってくるのは嬉しい。どうも周りの連中は、俺を軽んじている傾向にある。
五十鈴なんか、未だに俺の軽口に表情を変えることは一切ない。いつも冷たい眼差しで射抜いてくる。クールを気取るのもいい加減にして欲しいところだ。
そんな感じに、俺のテスト勉強はそれなりに充実している。今までみたく、家でせこせこと一人でやるのとは違ってまた新鮮だ。
……一番の喜びは、あのお節介な姉の口出しがないことだが。あの女、心底物を教えるのが好きらしい。それはいいとして、必要のない時まで構われると正直鬱陶しい。
そんなことを思いながら、深町の生物のワークを俺は開いた。
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