第65話 さあ夏へ

 夏の体育館というのは、往々にして地獄。直情的な表現をすれば酷く蒸している。思わずワイシャツの第二ボタンに手をかけたくなるほどに暑い。それは外の気温の問題もあるが、この空間の構造上の問題でもある。いくつかある出入り口を開けているというのに、一向に暑さは和らがない。そもそも外、無風だしネ!

 さらにいえば、今日は終業式。つまり、全校生徒が一堂にこの灼熱フィールドに会している。人口密集地帯……ムシムシ、ムンムン、アチアチ。ああ、知能指数が溶けていく――


 壇上では、校長がうだうだとわけのわからないことを述べていた。いや、しっかり意識を傾ければ、それはきっとさぞ素晴らしい話なのだろう。しかし、この環境下で集中しろ、というのが無理な話。熱にうだりながら、俺はただひたすらにこの無意味な儀式が早く終わることを祈っていた。


「では続いて球技大会の表彰に移る」


 突然、白髭――校長の声のトーンがやや変わった。それに合わせて、体育館内の雰囲気が少し緩む。そして、壁際に控えていた謎の生徒の一団がステージ目掛けて歩き出す。

 圧倒的なエリートオーラ。揃った足取り、ピンと伸びた背筋……あれはタダモノではない。俺は軽く居ずまいを正すことにした。内容自体に、やはり興味はある。


 校長が少し引いて、台の前に六人ほどの生徒がずらっと並んだ。女子の方がやや多い。どの顔にも、残念ながら見覚えは無い。


「体育委員長の真柴です!」


 はきはきした感じの女子が、一歩前に進み出た。おおよそ強化版文本望海といったところか。ぱっと浮かんだ活発系女子の知り合いがあいつだけだったという話だが。


 そしてつらつらと競技結果が述べられていく。ソフト、サッカー、バレー、テニス。あと、全体協議の大縄跳び。一位となったクラスの代表者が次々に登壇して行く。全てが生徒後方の集団から……つまりは全競技、三年生の独壇場となったわけだ。


 賞状と共に、優勝賞品が贈られる。購買の限定スイーツの引換券。全く利用しないから俺はその正体を知らないが、うちの購買には伝説のスイーツがあるとか、ないとか。朝の購買には生徒、いや教職員を含めて大行列が起こるらしい。俺は一度も見たことがない。この噂は、卓君から聞きました。


 締めと言わんばかりに、体育館中に盛大な拍手が起こった。それはすなわち、この儀式全体の終わりが近づいていることも意味している。

 再び、白髪爺――校長がスピーチ台(正式名称は知らん)のところに戻ってきた。……だが、期待を込めて伸ばした背中を、俺はすぐ丸めることになるのだった。



「しかし惜しかったよなー。あと少しで、ソフト優勝だったのに」


 終業式が終わった後の空白の時間。担任である矢島先生がまだ来ないので、非常に教室の中は騒がしかった。この隅っこの席にいても、遠くで男連中が騒いでいる声が聞こえてくる。


「ほんとよ、ほんと。普通、あそこで逆転満塁サヨナラホームラン打たれる奴いる?」

「劇的な幕引きだったろ。名演出家、と言って欲しいな」

「根津君、あれわざとだったの?」


 俺と若瀬のやり取りを近くで訊いていた青葉の目が、キュッと細まった。いつも朗らか、お気楽能天気娘なこいつにしては珍しい。その意外な迫力に、俺は自然と笑みをしまう。もはや、殺気すら感じる。


「美菜、怖い顔しない。今のはこの馬鹿の強がりよ」

 どうどうと、すかさず若瀬が友人を宥めにかかった。

「だよねー。それ、本当だったら、根津君、生きて帰れないよ?」

「……どういう意味だ――ですか、青葉様?」

「うわっ、急に敬語! きもちわるっ!」

「いやだって、物騒だからこの人……」


 と、意味のないやり取りをしていたら、ぱちぱちと手の叩く音が聞こえてきた。見ると、青葉がにこやかな顔で手を叩いている。


「やっぱり、元中だけあって息ぴったりだね!」

「やめて、本気で気分悪くなってくるから……」

「ま、からかうのはそれくらいにしたげよう! ――でね、さっきの話だけど。正直、あの副賞はとても魅力的というか」

「伝説の購買スイーツのことか?」

「そうそう、それそれ。その名も、幻のグレートゴージャススペシャルゴールデンエクレア!」


 ふんすとどや顔で言い退ける青葉。そして、それにもっともらしい顔で同調する若瀬。俺は頭が痛くなってきた。とても頭の悪い単語の羅列の仕方だと思う。

 なおも青葉は得意げに説明を続けてきた。身体をやや、前のめりに突き出しながら。


「販売日は気まぐれ。そして八時には完売する……全女子生徒、憧れの商品なの!」

「へーへー、そうですか」


 だからわざと負けたとなれば大問題ということか、と俺は心の中で納得した。もちろん、手を抜いたわけじゃない。相手の四番バッターが上手だっただけ。うちの野球部のエースで四番らしい、よく知らんけど。

 それは、同じクラスの野球部談。ちなみに、その事実は俺を励ます方向には機能しなかった。むしろ思いっきり罵倒されましたとも、ええ。


「根津君は興味ない系なんだ。スイーツ男子じゃないんだね」

「美菜、それはこいつから最も遠い位置にある言葉よ?」


 言えてる~、と青葉は手を叩いて笑い始めた。途端に、俺はアウェー感を覚える。早く帰りたいと思いながら、新たなガールズトークを始める二人をよそに、俺は扉の方に目をやった。


 その後間もなくして、矢島先生がようやく教室に入ってきた。だが、喧騒がすぐに収まらないのは、たぶんこの教師の緩さにあるのだろう。


「じゃあLHRを始めましょうか」


 それでも教卓の前に彼女が立つと、一気に室内は静まり返った。そして本日――七月最後の授業の幕開けが告げられる。

 ――そう。これが終われば、いよいよ学生待望の夏休みがやってくるのだ。もちろん俺も、心の底から楽しみにしていた。さあ、今年はどんな風に過ごそうか。





        *





「――休み明け最初の部会を提出期限とする。遅れた者は……いや、言わないでおこう。おそらくこの中に期限を破る者はいない。私は強く、そう信じているからね」


 美紅先輩……成尾軍曹は本日も絶好調。文芸部室の中で、一番立派な備品であるあの部長デスクにふんぞり返っている。


 木曜日にもかかわらず部会があるのは、単にが午前授業だったからだ。今月の早い段階でその連絡は回ってきていた。だからか、通常この曜日はバイトをしていることの多い五十鈴の顔もここにあった。シフトをうまく調整したらしい。


 ともかく。やや厳しめともいえる部長の宣告に、身を震わせているのは俺だけではなかった。そっと横目に見ると、一年生ズもどこか顔を強張らせていた。

 経験者である他のお三方については、何の問題もないらしく、平然としているが。……いや、その中の一人はそれが平常運転だった。


「さ、どう? 何か質問、意見等はあるかね?」

 肘を立てて手を組むと、美紅先輩はそこに顔を乗せた。

「いや、質問とか意見じゃないですけど、ついにこの時が来たかーって感じです」

 

 のぞが渋い表情で、一年生の総意を述べた。やがてこんな日が訪れることがわかっていたが、改めて明言されると、また心にこうのしかかるものがあるというか……。


「でも前に、『部誌のテーマについてそろそろ考えておいて』って言ったし、少しは目途がついてるんじゃない?」

「や、それはそうなんですけどね……」

 いつもとは違ってしおらしい一年女子は、自らの友人に視線を向ける。


 球技大会が幕を閉じ、その熱狂が冷めやらぬままに、文芸部は最大のイベントに向けて進みつつあった。部誌の発行――当然それは、文化祭当日が来ると自動的に完成する魔法のアイテムの類ではない。俺たちが、自らの手で作り上げる必要がある。

 その第一歩として、個別ページの原稿を完成させる必要があった。テーマは無制限。想定は短編程度。過去の先輩方の平均でいうと、四千字程度の長さ。小説なんか書いたことのない俺は、それが果たしてどれくらいの分量なのかはよくわからなかった。


 まあそもそも小説でなくてもいいみたいだが。実際、美紅先輩は一昨年、去年と書評を書いていた。静香先輩は物語で、五十鈴は……知らん。相変わらず去年の部誌はここにはない。興味はあるが、本人に聞いたところでねえ。結果は見えてるというか。


「大丈夫、大丈夫。わたしも美紅ちゃんも初めてだったわけだし。意外と何とかなるから。もちろん、相談にも乗るよ~」

「そうそう。何事も、まずはやってみろ、ってね!」


 きらりと白い歯を見せて笑う文芸部部長。テキトーな人間にしか見えないが、意外と読ませる文章を書く。人は見かけによらないとはこのことを言うのかもしれない。


 為せば成る為さねば成らぬ何事も……って、誰の言葉なんだっけ? 聞いたことはあるが、調べたことはない。脳内にあるスマホの調査リストに刻んでおくが、すぐに忘れるだろうな。

 だが、それはある意味正しいとは思う。ただ問題は書きたくないわけではなく――


「まっ、マジな話、休み中の部会で進捗は確認するから。サポート体制は万全だヨー」

「でも先輩たち受験生ですよね? そんな時間があるとは思えないんですけど」

「うっ、こーすけ君ってさ、たまにクリティカルなところをついてくるよね……でも、そこはガッツと気合と根性で乗り切る!」

「……私がとても心配になってきたんだけど。まあ、週に二回程度ならなんとか時間は作るし、それに美桜ちゃんもいますから!」


 静香先輩は勢いよく立ち上がると、相変わらず寡黙な副部長の背後に回った。そして、その両肩を強く叩くと、にっこりと笑った。


 そんなことをされたあいつはといえば、その表情を微塵にも変えない。能面のままこっくりと、深く二度ほど頷く。

 果たして、頼りになるのか、ならないのか。まあしかし、いつも書き物をしているみたいだし、それなりに役に立つのは事実、か。同級生に頼るのは少し癪だが……てか、恥ずかしい。


「ちゅーことで。では二週間後をテーマ決定の締め日にするってのはどう? テーマ決めちゃえば書くだけだから。ある意味、そっちの方が楽だよ?」

「……うわっ、美紅ちゃんにしてはすごいまともな結論」

「おーい、そこ聞こえてんぞー? あたしだってね、いつもふざけてるわけじゃ――」

「ないんですか?」


 俺はだみ声で吐き捨てて、部長の顔をジト目で睨んだ。遅れて他の部員たちも呆れたような眼差しを彼女に向ける。すっかりいつものグダグダとした雰囲気が、部室の中に出来上がっていた。


「みんな、ひどくなーい? はあ。もう、終わり終わり! 後は好き勝手、自由気ままなさまーばけーしょんを楽しめばいいじゃない!」


 最後は投げやりな感じで、部会は終わった。時間にして、一時間もかからなかった。つまるところ、いつも通り。


 ガールズはそのまま部室に残るつもりみたいだ。低いテーブルの上に、様々な弁当包みが置かれていく。手持無沙汰にその光景をボーっと眺めていたら――


「部長、それって」

「おっ、しおしお気づいちゃった? そ、購買の伝説エクレア!」


 じゃじゃーんと、子どもっぽく美紅先輩が何かを掲げた。それはプラスチックの包装はシンプル。中に入っているのも、何の変哲もないエクレアに見えた。


「うちのクラス、男子のサッカーで優勝したのさ!」

「えぇ、いいな~」

「ダメ。絶対にあげないからね!」

「そんな子どもみたいな……」

「でも部長の気持ちもわかります。あれ、とっても美味しいんですよ」

「……えっ! 詩音、食べたことあんの!」


 盛り上がる四人組を遠巻きに眺めていたのは、俺だけではなかった。視線を外して立ち上がろうとしたら、その女の姿が目に入った。

 食い入るように、やや前傾姿勢で凝視。そして、心なしか瞳が開いている気がする。興味津々といったご様子。しかし、会話に入ろうとはしない。


「お前、食べたかったのか、あれ?」

「……別に」

「いや、今さら誤魔化しても無駄だぞ。……甘い物、好きなんだな」

「……別に」

 変な奴め、五十鈴美桜……俺は呆れながらゆっくりと席を立った。


「帰るの?」

「ああ。お前は?」

「バイト」

「……休みだと思ってた。――お疲れ様です!」


 決まり文句を口にして、俺は部室を出た。扉を閉めてもまだ、後ろから騒がしい声が聞こえてくる。ちょっと後ろ髪を引かれる想いはあるが、俺は構わず前に進み出た。


 ちらりと振り返ると、文芸部室の札。ここに入部して、もう三カ月になるのか。楽しそうだから、という理由だけで入部したが、意外と居心地はよくて今現在もここにいる。

 本当は部誌の話が出る前に辞めようとも思っていたのに。俺はずるずると、何かに引っ張られていた。その正体はわからない。でも、厄介ごとから逃げるつもりはなかった。やるべきとは、ないよりはある方がいい。最近ずっと文芸部の連中と過ごしてきて、特に感じたことだった。


 まあそのためにも、何を書くか、だが。俺は一人、苦笑いしながら校舎の中を歩いていく。明日から始まる夏休み、なんか見つかればいいけどな。実際には、講習があるからすぐに自由というわけじゃないが。本当にふざけた話だ。


 こうして、俺の波乱の三か月間は幕を閉じるのだった。いや、ほとんど文芸部らしいことが無かったから、何がだって話だけども。しかし、明日からは本当に激動の日々が始まる。果たして俺は、部誌の原稿を書き上げることができるのだろうか。それだけが、ただひたすらに気掛かりだった。

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