第59話 とある暑い日の文芸部
月が新しくなって最初の部会の日。七月にもなれば、気温もかなり高くなるというものだ。ついこの間から暑い日が続いている。この冷房がない文芸部室は、さながら地獄と化していた。校舎の僻地にあるこの部屋は通気性も悪い。
「あづ~い……」
「残念だが、あれでもう窓は全開じゃ。わしらにできることは、何も残されてないのじゃ」
「そ、そんな……浩介じーさん、嘘でしょ!」
ソファでぐだっとしていたのぞが勢いよく身体を起こす。そのまま目を見開いて、こちらに詰め寄ってきた。うっすらと汗をかいているのがわかる。
俺には全くわからないが、なんとなく夏は女子の方が大変そうな気がする。男はワイシャツ一枚で済むが、女子はセーラー服。しかし、スカートということを考えればおあいこか? このスラックスは意外と通気性が悪い。膝から下を切り落としたいと思うことはままある。
そのままのぞと話し続ける。お互いによくわからない役になり切って。それはもはや反射に近かった。特に意味のないやり取りが文芸部室の中に響いていく。
「美桜先輩、あの、謎の演劇が始まってるんですけど……」
「無視しましょ。付き合ったら、無駄に疲れるだけよ」
やがて、大人しい系の二人がひそひそと話しているのが聞こえてきた。俺とのぞは一瞬動きを止めて顔を合わせる。そして、彼女たちの方に近づいていった。
「おいおい、つれないねぇ、五十鈴さんよぉ」
「そうそう、詩音もほらっ!」
「わ、わたしはちょっと……」
「――これ貸してあげるから、静かにして」
ごそごそと、五十鈴は自分の鞄を漁る。やがて取り出したものを机においた。折りたたまれた尺状のそれは――
「へえ、こりゃなかなかセン――」
「根津君、それ以上言わないでもらえる?」
その言葉には有無を言わさない迫力があった。そして、こちらを見上げてくる目は全く笑っていない。何時にもまして、その表情は冷ややかに見えた。
「なんでい、なんでい。実際言ってみたら涼しくな――」
「ない。さすがにそれは絶対ないと思うよ、浩介先輩」
厳しい声を上げたのぞに同調して、三田村もまた気の毒そうな顔で頷く。
これじゃあまるで、俺が極悪人みたいじゃないか。……やってらんねーよ。俺はやるせなさと共に立ち上がった。そのまま窓の桟に軽く寄りかかる。いくぶんか、風が吹きこんできて少しは暑さが和らいだ。
「それにしても可愛い扇子ですね~。どこで買ったんです?」
「百均」
「美桜先輩も百均行くんだ……なんか意外」
「それはどういう意味かしら、望海さん?」
「へ? 悪い意味じゃないですよ。――いいなー、扇子! ねえ詩音、今度買いに行こーよ」
「わたし、もう持ってるんだ」
そんな風に女子三人が盛り上がっているのを、ぼんやりと眺めていた。どうやら扇子がこの夏の一大ムーブメントらしい。このビックウェーブに乗り遅れるわけにはいかない、みたいな……ダメだ、暑さで頭が働かない。
俺はちょっと身体を反らして、頭を窓の外に突き出した。雲一つない青空が広がっている。日差しは強い。こりゃこんなに暑いわけだ。
「あぢ~」
「浩介先輩、うるさい」
「……最初に言い出したのは、あなただったと思いますけれど」
俺はぐっと上半身を戻した。五十鈴たちはしんどそうな顔をこちらに向けている。
「しっかし先輩方、遅いな」
「倉庫に物を取りに行くって言ってましたね。それってどういうことですか、美桜先輩?」
「うちの部に割り当てられた倉庫があるの。そこに普段使わないものをしまってある。例えば、もっと昔の部誌とかね。まあ、そろそろ戻ってくるとは思うけど」
三田村の質問に、五十鈴が戸棚の方を指さしながら答えた。
そういえば弓道部にもあったな、そんなの。ボロボロの的とか、謎のトロフィーとか、羽が可哀想になった矢だとか、色々なものがごちゃごちゃになってた。
部室に静寂がやってきた。こう黙っていると、余計に暑さを感じてしまう。早く先輩たちが来てくれないかな、と思うと同時に、今日はいったいどんな活動があるのだろうかと気になった。読み聞かせの会が終わった今、部誌に向けた準備だろうか?
「そういえば、二人は読み聞かせの会どうでした?」
「おっ、のぞ。それはなかなか文芸部っぽい発言だな。――だが、どうって言われても、なぁ?」
思いつくことはなく、俺は五十鈴を頼ることに。
「うん。特に何も。ただ根津君がかん――」
「のぞのとこはどうだった? お前確か、美紅先輩と一緒だったよな?」
「ああ、誤魔化さなくていいですよ。瑠璃から浩介先輩が盛大に噛んだことは聞いてるので」
そして、のぞはにやにやと笑いだした。あの妹のことだ。面白おかしく伝えているに違いない。本当に厄介な情報網だな……。三田村も知っているのか、ちょっと目を向けるとあからさまに目を逸らされた。
「まあ楽しくやれましたよ。――そうだ、綾香先輩が観に来てました」
「あっ、わたしのところもそうです。終わった後、静香先輩と楽しそうにお喋りしてました」
きっと図書委員長としての仕事なんだろうな。わざわざ観に行くのもそれはそれで大変な気はする。だがなぜ、一番近い俺たちのところに来なかったのだろう。……別に会いたかったわけじゃあないけども。
そのまま流れで、読み聞かせの会についての話になる。どこもそれなりに盛況だったらしい。俺が五十鈴の読み聞かせの時の様子を告げると、一年生二人は目を丸くした。
「まさにプロって感じだったなぁ、あれは」
「そんなに凄かったんですか?」
「ああ。この仏頂面がころころと表情を変えるんだ。偽物かと思ったよ」
「根津先輩、それは言い方は……美桜先輩、ちょっと怒ってます」
三田村が恐る恐ると言った感じに五十鈴の様子を窺う。確かに、どこかその顔は強張っている。特に少し目元に余分な力が入っている気が……。
「いや褒めてるんだぜ、これでも」
「さあどうだか」
慌てて取り繕ったが、奴の不機嫌な感じは治らなかった。
「そういえば、瑠璃がこんなこと言ってた。お前が、弟と妹に読み聞かせをしてたんじゃないかって」
「瑠璃さんがそんなことを? うん、まあ、そうね……よくやってたかも」
五十鈴の口調はどこか歯切れが悪かった。気まずそうに目を逸らす。もしかすると、照れているのだろうか。そんな感じじゃない気もするが。
ややそれが気になったが、俺は聞こうと思ったことを口にすることに決めた。
「やっぱりか。何歳なんだ?」
「えっ! ええと――」
その時だった。廊下からバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。そして勢いよく扉が開いた。
「野球をしよう!」
騒々しい声と共に、部室に入ってきたのは案の定美紅先輩だ。その両手には少し古びた大きな段ボール箱を抱えて、そしてなぜかどや顔をしながら――
*
部室は完全に静まり返っていた。俺たちは突如現れたこの文芸部部長から目を離せずにいた。それは
タイミングがいいというか、悪いというか。室内の雰囲気は完全に変わってしまった。俺たちはただひたすらに困惑していた。
その一方で、五十鈴のさっきの様子が気になっていた。さっき彼女は一瞬驚いていた。そしてその顔がすぐに曇った。何か事情がある、そう察するのに十分な雰囲気だった。
だから、美紅先輩の登場はある種の助け舟になっていた。……その意味不明な一言は別にして、だが。
「美紅ちゃん、廊下を走ったらだめだよ」
やがてその後ろから、もう一人の三年生の先輩が姿を見せた。彼女の腕の中には、この暑さを振り払えるような素晴らしい文明の利器が。
「し、静香先輩、それはもしや……!」
「じゃじゃーん。せんぷうきっ! 文芸部室の物置から出してきたのよ。最近熱くなってきたから、そろそろかな~、と思ってね」
それはオーソドックスなタイプの扇風機だった。ともかく、この二人のお陰で完全にさっきのやり取りは無かったことにできそうだ。俺はすかさずそこに便乗した。
「やった、やったー! しず先輩、早速使おうよ~」
「そうね。――浩介君、これそっちのコンセントにつなげてもらえる?」
「もちろんでございますとも」
俺は張り切りながら、電源コードを受け取った。いつも差しっぱなしの電気ポットのプラグを抜いて、代わりに扇風機のものを差し込んだ。そして、静香先輩が本体を部屋の角に置く。スイッチを入れると、勢いよく風が吹き出してきた。
「おい、ちょっと! なんであたしを無視するかなー」
「なんだか懐かしいですね。去年の夏を思い出します」
「ねー。みんなで、暑い暑いしか言ってなかったなー。先輩たちを差し置いて、美紅ちゃんと綾香ちゃんが一番風の当たる場所を取り合ったりもして」
「醜い争いですね……」
「言いながらしれっと一番いいとこ盗らないでくださいよ、浩介先輩!」
「そうですよ、根津先輩。これはみんなのものです」
と、扇風機を中心にしてやんややんやとみんなで騒ぎ合っていた。美紅先輩は一人、まだ入口近くに立ったまま。だが――
「はーい、ちゅうもーく! これ以上無視するんなら、泣くよ?」
「……ごめんね、みんな。美紅ちゃんの話、聞いてもらえるかな。何を言ったのか、だいたい想像はつくけど」
「しずかっち! あたしのことは部長と呼びなさい! ――いいですか、今日は野球をしようと思います!」
部長は持っていた段ボール箱を置いた。その中には、グローブがいっぱい入っている。彼女はその中から一つを摘まみ上げると、それを右手にはめ込んだ。そして、ばしばしと土手部分を叩く。
「……なんすか、これ?」
「えっ! こーすけ君、野球も知らないの?」
哀れむような目を向けられた。
「そうじゃなくて、どこから持ってきたんですか、こんなの?」
「物置にあったのさ!」
「ここ文芸部ですよね? バリバリの文化系ですよね?」
「知らないよ、昔からあるんだって。去年はさー、先輩たちとあややの猛反対にあったからできなかったけど、今年は違う! 私が最高権力者だ!」
こういうのを、暴君というのだろう。権力者を止めるルールがないと大変なことになるといういい例だ。俺は少し去年の世界史の授業を思い出した。専制君主制とか、そんな話があった気がする。
「ほら、そろそろ球技大会も近いしいいじゃん。みんなも練習やってるでしょ? それと同じだよ」
「私たちはついこの間まで、読み聞かせの会にかかりきりだったけどね」
「それに球技大会の種目は野球じゃなくてソフトボールですし」
「こ、細かいことはいいのだ! さあ、青春をしよう、若者たち!」
「相変わらず、めちゃくちゃだね、美紅先輩……」
「えーでも、楽しそーじゃん」
部長の持ち込んできた提案に、俺たちはただただ困惑するばかりだった。しかし、明確に反対するわけでもなく。段々と彼女の勢いに押されていく。
いよいよ、部の総意がポジティブな方向に出来上がっていくが――
「私は断固反対です。どうしてこんな暑い日に、そんな意味のわからないことをやらないといけないんですか。それに、私たちは文芸部です」
「おおっと、みおっちは冷静だねぇ。しかし、みおっち。色々な経験が本当に面白い小説を作り上げる。私は常々言っているだろう」
「一回もそんなこと言ったことないよね、美紅ちゃん」
会計の冷静なツッコミを、部長は聞かなかったことにした。
「それに私たち制服ですよ? こんな格好で運動というのは」
「ごめん、美桜ちゃん。私と美紅ちゃん、今日体育あったから」
「あたしたちもだよね、詩音」
「はい。すみません、美桜先輩」
まさかの裏切りに、さしもの五十鈴も驚いたようだ。少しだけ、その切れ長な目が大きく見開いた。長い睫毛が微かに揺れる。
「じゃあさ、みおっちは見学してればいいよ。木陰で本を読むってのも、みおっちなら様になるしねー」
「……まあそういうことなら」
いいのか……。断固反対と言ってたくせに、簡単に折れたな。俺は一連の五十鈴の様子に、引っ掛かりを感じた。こいつ、やりたくなかっただけなんじゃ……。
そんなわけで今日の部活動はなぜかソフトボールの練習にすり替わることに。本当に意味がわからない。文芸部って、何だったっけ?
着替えをするという四人を置いて、俺と五十鈴は先に部室を出た。男だからと言う理由で、グローブの入った箱を押し付けられて。
そのまま二人歩きだす。彼女の横顔はいつも通り平然としている。そこには、弟妹のことを尋ねた時の微妙な雰囲気はない。
結局、俺はそれを尋ね直すことはできなかった。単なる好奇心で聞けない内容な気がした。もう少し親しければ別なんだろうけど。
ソフトボールの練習が何かのきっかけに――なるわけにないよなぁ、と思いつつ、当たり障りのない話をしながら校舎を出た。
……そしてすぐに外に出たことを後悔した。これから地獄のような時間が始まると予感して。
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