第58話 ドキドキの本番 そのに

 子どもたちが帰ると、一気に図書室の中は寂しくなった。担当の先生も、職員室に戻っていった。次の時間までここでのんびり過ごしていいという、お墨付きを残して。


 廊下に出していた大きな丸机を戻してきて、俺たち四人はそこについていた。午後の部がある俺と五十鈴はともかく、二人もまだ残ったままだ。両社とも部活の午後練にはまだ早いらしい。


 話し合いの会が終わったばかりとなると、話題は当然それに関することになる。


「五十鈴先輩、ほんと凄かったっす!」

「ふっふーん、みおはこういうの得意分野だかんね。まだ行ってるんでしょ、ボランティア?」

「うん、たまに。……でもどうしてハルミが誇らしげなの?」


 五十鈴は友人かわせを怪訝そうに見るが、その友人はただニコニコしているだけ。こいつもなかなか厄介な性格をしていそうだ。呆れながらも、五十鈴の方に視線を戻した。


「ボランティア?」

「そっ。市の読み聞かせボランティア」

 答えてくれた河瀬さんの声は、自慢げに弾んでいる。

「はあ、よくやるねぇ」


 なるほどね。そもそも俺たちとは年季が違った、ということか。まあ練習の時から、その片鱗は感じていたが。文芸部の先輩たちも感心しているくらいだったし。

 しかし、読み聞かせボランティアときたか。よくそんなものの存在を知ってるもんだ。ますます五十鈴美桜のミステリアスさが増した。いくら本が好きだからといって、ここまでやるもんだろうか。


「去年の学園祭でも評判だったしね。もともとみおは人気あったけど、あれでさらに有名になった感はある」

「ハルミ、そういうのはいいから」

「いや~、あの時のみお。今日の日じゃないくらいに絵になってたよ? 写真に撮りたいくらいにステキだった」

「もういい、やめて」

「そんな怒んないでよ~」


 五十鈴の不機嫌さを感じ取ったのか、河瀬は顔の前で手を合わせた。とてもひょうきんそうに。それを五十鈴は無表情で受け止めていたが。その目は恐ろしいほどに冷たい。俺にはよく見覚えがある。


「あれ、怒ってんですかね」

 高松がひそひそ声で話しかけてくる。

「ああ。むすっとしてるだろ」

「……よくわかりますね」

「付き合いもそろそろ長くなったからな。あいつの感情の機微を読み取ることが、文芸部で生き残るコツだ。テストに出るぞ」

「大丈夫です、そんなテストを受ける覚えはないので」


 なんだかあしらい方が手慣れている気がする。これは絶対、沼川卓が何か入れ知恵をしているに違いない。覚えてろよ、あの野郎……!

 まあそれはともかくとして。読み聞かせの会の時の姿が嘘のように、五十鈴はまたいつもの不愛想な感じに戻っている。俺にとってはこちらの方が馴染みがあるので、ある種の安心感すら覚えるが。


 思い返せば、あれは本当に別人みたいな姿だった。五十鈴美桜という同姓同名の別人だと言われても信じられるくらいに。その割には容姿はいつも通りだから、双子の方が信憑性が増すかもしれない。

 本を読んでいる時もそうだったが、自分の番じゃない時もずっと柔らかい笑みを浮かべていた。それは決して作り物というわけでなく自然な振る舞いだった。

 それはあまりにも――


「キャラが違いすぎるだろ、お前」


 目の前で冷然と友人の相手をしているその姿とのギャップの激しさに堪えられなかった。自然と口を突いて出た言葉に、五十鈴はゆっくりと顔をこちらに向ける。


「きゃら?」

「読み聞かせの時のだよ。なんかすげー生き生きしてたぞ」

「もしかして五十鈴先輩、子ども好きとか?」

 後輩の言葉に、俺は彼女が会の終了後、にこやかに子供の相手をしていた姿を思い出す。

「ううん、そんなことないわ。でも嫌いでもない」

 この微妙な返しこそ、ザ・五十鈴美桜という感じがする。


「学園祭の時はあんな感じじゃなかったでしょ、あんた。今日はどうしたのさ」

「別に、いつもやっているようにしただけよ。むしろ、そっちが例外。子ども向けじゃなかったから」

「いつもって、さっきのボランティアでの話か?」

「そう。みんな、あんな感じにやってる。それを参考にしたの」

 

 彼女はなんでもないことのように答えた。だからといって、あそこまで別人のように振る舞えるものだろうか。五十鈴美桜、本当に底知れないやつだ。


「お前、演劇とか向いてんじゃないか」

「……考えたこともなかったわ」

「まあ、うちの高校演劇部ないしねー。中学はどうだった、みお?」

 五十鈴は首を横に振った。


「ってか、お前ら。昔からの付き合いじゃないんだな」

「えっ? 違うわよ、高校から。去年同じクラスで、入学式の日にうちから話しかけに行ったんだ。なんかすごい奇麗な子がいると思って。これは絶対仲良くならなきゃと」


 二人の様子から、俺は勝手にそう思ってた。クラス内での五十鈴の雰囲気からして、一年やそこらでそんなに打ち解けないだろうと、失礼な決めつけをしていた。

 だが、言われてみると確かに納得する。彼女は自分から積極的に話しかけるタイプではない。でも、それは人付き合いが下手ということを意味するわけではなく、不愛想な感じだがそれなりに話ができる奴だと思う。それに最近は深町や若瀬とよく一緒にいるところを見る。


「だいたい、みおって中学までは違うとこにいたはず。高校からこっち出てきたって、自己紹介の時に言ってたよね?」

 その問いに五十鈴は首肯する。

「ああ。おばあちゃんと二人暮らしなのはそれが理由か」

「うん。私、一人こっちに出てきた。向こうにはその……いい高校が無かったから」

 彼女の地元の奴がいたら、怒り出しそうな理由だなそれ。


「ほー、薫風高校がいい高校だとは知らなかった」

「そーっすか? 十分、いい学校だと思うんだけどなー」

「ふふ、若いな一年坊主。まだ夢や希望を持っていると見え――」

「なに偉ぶってんのさ。うちら、高松と一年しか変わらないじゃん」

 達人を気取っていたら、河瀬に頭を叩かれた。


 その後も他愛のない話が続く。それを基本的に五十鈴は聞いているだけ。たまに相槌はするが、その表情がそこまで変わることはない。透明感がある、というのはこういう人物のことを言うのだろうか。なんか違う気がする。


 やがて、四人そろって昼食をとり始めた。図書室で飲み食いだなんて背徳的。俺たち以外に誰もいないことが、さらにそれを煽る。五十鈴は今日もパン二つ。


 高松は一時になる前に去っていってしまったが、河瀬は弓道部コンビが来るまで残っていた。……入れ替わったこの二人は、読み聞かせの会が始まった時どんな反応をするだろうか。そう思うと、午後に向けての億劫さが少しだけ薄まる気がした。





        *





 自転車を押して、人気の少ない道をゆっくりと歩いていく。だが、時折大きな掛け声が聞こえてくる。ここからでは見えないが、校舎裏のグラウンドでは運動部の連中が張り切って練習に励んでいるのだろう。


 長い一日が終わった。そんな気分だった。緊張の連続で、身体はかなり疲れている。二回目だからとはいえ、平気な顔で本を読み上げるなんてことはできなかった。

 横を歩く五十鈴の顔をちらりと窺う。そこにあるのは、どこまでも澄ました表情。ただ真直ぐに前を見つめて、歩を進めている。その肩では、あの魅力的な黒髪が揺れ動く。


「なに?」

 見られていることに気付いたらしく、彼女の顔がこちらに向いた。

「五十鈴ってすごいんだなって」

「キミからそんな風に言われても、素直に受け取れないんだけど?」

「どういう意味だ、それ」

「いっつもテキトーなことしか言わないってことでしょ、バカ兄」

 後ろにいる妹がいきなりカットインしてきた。


 彼女の隣には深町もいた。顔だけ向けてその様子を確認すると、ちょっとくたびれた感じだ。だが目が合うと、取り繕うように笑いかけてくれた。

 二人もまた自転車を押している。五十鈴だけが歩き……というか、バス通学。帰り道がそこまで遠回りにならないことから、五十鈴をバス停まで見送ることにした。誰から言い出したことでもなく、自然とそうなった。


 余韻に浸りたかったのだ。少なくとも俺はそうだった。決して五十鈴のように上手にできたわけではないが、確かな達成感を覚えていた。面倒で、大変なだけの仕事だと思っていたが、終わってみればそこまで悪くは無かった。

 こうして四人で静かに歩いていると、あの時の厳粛な雰囲気をそこはかとなく感じることができる。午後の部もまた、五十鈴無双だった。やはり午前中のあの姿は幻じゃなかったんだ、と二回目はすんなりと受け入れることができた。


「わたしも五十鈴さん、素敵だと思いました。子どもたちにしっかり寄り添っていた、というか。とても優しいお姉ちゃんみたいな感じで……ううん、上手く言えないなぁ」

「ありがとう、深町さん。そう言ってもらえると嬉しい。――でも、深町さんもよくできてたと思うよ。終わった後、子どもたちが寄ってきたじゃない」

「お前も大人気だったな」

 俺は含みを持たせた笑みを浮かべて、妹の方を見た。

「素直に受け取れないっていうのは、そういうとこだよ、お兄ちゃん!」

 そんなやり取りをしたら、深町が笑みをこぼした。


「だいたいね、お兄ちゃんだってだったでしょ。ずいぶんと仲良さそうにじゃれあってたね~」

「舐められてた、の間違いだ。まったくなんでだろうな。どこからどうみても、しっかり者の高校生だのお兄さんだと思うんだが」


 その言葉に反応する者は誰もいなかった。太陽は燦々と輝いているのに、冷たい風が一瞬俺の頬を撫でた気がした。


「……盛大に噛んだからでしょ」

「言うな。思い出しただけでもぞわぞわする」


 冷静に指摘してくる五十鈴を、俺は軽く睨む。彼女の言う通り、俺はとんでもない失態を犯していた。物語の一番盛り上がる部分で、良い間違いをするという。それがあまりにもクリティカルすぎて、一気に笑いが起こった。最後の番じゃなかったら、会自体を台無しにしていたといえるくらいに。

 あの時の恥ずかしさが蘇ってきて、俺は思わずため息をついた。身体がほんのりと熱くなる。俺はワイシャツの胸元をパタパタと仰いだ。


「そ、そんなに落ち込まないでください、根津君。わたしは一生懸命頑張ってたと――」

「あははっ! ダメだ、思い出したら笑えてきた」

「ちょっと、瑠璃! 空気読んで!」


 振り向くと、クラスメイトが気まずそうな顔で自らの後輩を窘めてくれていた。温かい、深町は人間ができている。そう思うと同時に、その一年女子が小憎たらしく思えてきた。


「……ふふん。いい度胸だな、我が妹よ。今日の食事当番が俺だということを忘れてないか? 夕食を是非とも、楽しみにしていてくれたまえ」

「うっ……そういうのは反則だよ、卑怯だよ、姑息だよ!」

「瑠璃さん。余計なことだとは思うけど、姑息にという意味はないわ。――まあ、根津君のやり方が陰湿なのに変わりはないけど」


 まさかその流れで非難されるとは思っていなかった。その言葉はぐさっと俺の胸に刺さる。げんなりとしたままに隣の女子を睨むが、彼女は淡々と歩くだけ。こちらを一瞥すらしない。


「でも、結局完璧にできてたのは、五十鈴さんだけでしたよね? わたしも瑠璃も細かいミスはあったし」

「そんなことないわ。みんな、よかったと思う。子どもたちは楽しんでたし。ああいうのに、上手い下手はない。大事なのは心」

 五十鈴はしっかりと後ろを振り返りながらそう言った。

 

 珍しく、彼女の口調には熱が籠っていた。やはり読み聞かせを頻繁にやっている経験があるから、色々と思うところがあるのかもしれない。あるいは、彼女もまた|。

 その素顔の奥に、読み聞かせの会の時の五十鈴は確かに存在するんだ。あれもまた彼女の数ある側面の一つ。それを俺は今日初めて知った。 

 そんなことを、彼女の横顔を見ながら考えていると――


「その点で言えば、根津君のミスはそこまで悪いものじゃないと思うよ」


 五十鈴が身体を戻す途中で、俺のことを真正面から見つめてきた。そして、にっこりと笑う。それはちょうど、会の時に見た彼女と重なって見えて――


「――おう、ありがと」

「お兄ちゃん、照れてる~」

「うるせーっ」

「わ、わたしも根津君、素敵だったと思います!」

「……深町もサンキュな」


 どちらに対する返答もぶっきらぼうになったのは決して恥ずかしかったからじゃない。ただ不意打ち気味で驚いただけ。それだけだ――



 バス停に着くと、すぐにバスがやってきた。五十鈴がしっかりと乗り込んだのを見てから、俺と瑠璃は自転車を漕ぎ出す。深町とは方向が違う。


 帰り道の途中、スーパーに寄った。夕飯の買い出しをするために。妹と一緒に、ゆっくりと店内を巡っていく。何を作るかは全く考えていなかった。


「なんかね、お姉ちゃんに似てた」

 ぽつりと瑠璃が呟いた。

「……いきなり何の話だ」

「読み聞かせしている時の五十鈴先輩の雰囲気」

「そうか? 姉貴はもっとアホっぽく元気だ」

「それはちゃんと報告しておくとして。――お兄ちゃんは、お姉ちゃんに絵本読んでもらったことない?」


 ……ちょっと記憶を探ってみるが、よく覚えていなかった。ただそういうことはあったかもしれない。姉貴は、俺たちの面倒見たがりだから。それは今もあまり変わらない。

  

「あたしは微かに覚えてる。五十鈴先輩を見たら、ふとその時のお姉ちゃんのことを思い出したの。とても温かい感じがした」

 俺は何と答えていいかわからずに、ただ黙って聞いていた。

「五十鈴先輩、弟と妹がいるって言ってたよね。きっとそういうことしてたんじゃないかなぁって思ってさ。何歳いくつなんだろ」


 今度は。俺はそんなに深く五十鈴のことを知らない。知ろうとしていなかった。正直、あんな知り合い方をしたもんだから、僅かに苦手意識があったといえる。

 だが、今日。俺は彼女について、本当に色々なことを知った。改めて思うのは、彼女はどこか周りの女子とは違うということ。


 部活仲間なのによそよそしい。そんな風に言ってたのは文本――のぞだった。五十鈴も、もしかしたら同じことを思っていたりするのだろうか。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 でも確かなのは、俺自身がもう少し五十鈴に歩み寄ってみようと思っていることだ。読み聞かせをしている時の、あの意外で信じがたい姿。それを見たことが決め手になっていた。

 

「お兄ちゃん。今日はオムライスにしようよ」


 妹の言葉が、俺を思考の海から引き戻す。見ると、ちょうど彼女が鶏肉をカゴの中に入れているところだった。それは、姉貴の大好物だ。いい考えだと思って、俺は瑠璃に微笑みかける。


 そうか。まず好きな食べ物の話から始めるのは……なんか違うな。自分のアホさ加減に呆れながらも、頭の中を夕飯に向けて切り替えていく。

 ま、後で考えればいいか。楽観的に身構えつつ、俺たちは野菜売り場の方に引き返すのだった。

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