第57話 ドキドキの本番 そのいち
いつものように、姉妹を叩き起こしてリビングに戻ってくる。キッチンに入って、朝食を盛り付けていく。メニューは目玉焼きウインナー、白米とみそ汁(昨日の残り)というありふれた面子だ。
二人分を丁寧に食卓に並べ終えた頃、何かが擦れるがさがさ音と共に、
「おはよー」
「うん、おはー」
言いながら、奴は欠伸を交えてきた。
ぱっと見た感じ、意識はしっかりしているようだ。今朝は珍しく、呼びかけの反応にもすぐに応じた。……まあそのそばに大物がいたわけだが。いつもはどちらかといえば逆だ。起き上がってきても、瑠璃はボーっとしていることが多い。
彼女は俺の正面に座ると、自分のコップになみなみと麦茶を注いだ。
「一応聞くが、姉貴は?」
「全然ダメ。どーせあれだよ、夜更かししてたんだよ」
「あの女は自由を謳歌してんな、ホント」
俺は呆れながら味噌汁に口を付けた。バイトが遅くなると、あいつは大抵リビングに立てこもることが多い。昨夜も寝る前に水を飲みに行ったら、テレビにかじりついていたのを思い出した。
黙々と二人、朝食を食べ進める。今日が読み聞かせの会本番だから、向こうはやや気が重たいのかもしれない。かくいう俺もさすがに少しは緊張している。
やがて食事も終わって――
「ほれ、弁当」
カウンターにおいていた包みを差し出した。
「ありがとー」
「しかし、お前も物好きだよなぁ。部活あるのわかってただろうに、読み聞かせの会に出ようだなんて」
「図書委員や文芸部に入った誰かさんに比べたら、全然大したことないと思うけど」
嫌味たっぷりの笑みをぶつけられて、俺は渋い顔を作った。図書委員会は不可抗力だったにしても、文芸部は自分でも不思議である。まあ後悔はないんだが。
「それにしても、なんでなんで休みの日に制服を着ないといけないんだか」
「じゃあお兄ちゃんもウィンブレ着ればいいじゃん」
妹はファッションモデルよろしく、その場でくるりと一周した。白い上着に、黒い長ズボン。背中に、薫風高校弓道部と自己主張の激しい文字が書かれている。
通気性がいい意味でも悪い意味でも抜群のそれを、俺も一応持っている。押し入れに封印したままだが。校則によると、部活動の際は各部活のユニフォームあるいはそれに類するものを着用してもいいことになっている。……その文言をこの目で確認したことはないが。
今日の読み聞かせに関しても、その規則が準用されるそうだ。三井委員長から説明があった。そういうものがない場合は、問答無用で制服。
「……そこまで厚かましくはねーよ、俺も」
「えー、厚かましいかなぁ、それって。翠先輩は喜ぶと思うよ」
「そりゃあいつは今も現役なんだから、たぶん着て来るだろ。」
「そういう意味じゃないんだけどな……お兄ちゃんって、割とサイテーだよね」
なぜか意味不明に罵られた。冤罪だ。姉貴を叩き起こして弁護してもらおうか。……頼りにならなそうだ。一瞬でも奴のことを思い浮かべた自分を馬鹿らしく思った。
――正直、何かを感じ取ってないといったらうそになる。でもそれを表に出すのは、なんだか俺の柄じゃない気がした。それにそもそも、そんな話とは縁遠いとも思ってる。
だから俺は
気まずくて、俺は台所に逃げ込んだ。レバーを上げて水を出す。皿洗いは姉様に押し付けようと思ったのに。めんどくさいと思いながら、スポンジに手を伸ばした。
「おにいちゃん、スマホ、鳴ってる」
バイブ音は俺の耳にも届いていたが、それが自分のスマホだとは思わなかった。だが、指摘されて食卓の上におきっぱにしたことを思い出した。
ちっ、と舌打ちをしながら、手の泡を洗い流す。適当に手を拭いてから、また食卓の方に戻った。瑠璃はまだ出る時間じゃないのか、座ったままスマホを弄っている。
『今日、九時集合なの忘れてない?』
電源を入れて表示されたのは五十鈴からのメッセージだった。ずいぶんとふざけた内容だな。現在時刻は八時少し前。遅刻するような時間じゃない。
そもそも、今日についてはさすがの俺も覚えている。だからもう着替えを済ませているわけだし。だからこれは、いわゆる余計なお世話というやつだ。
『ちゃんと覚えてる』
『ならよかった。
また忘れてたらどうしようって』
『また?』
『だっていつも委員会のこと忘れてるでしょ、キミ』
それに対する返信は少しも思いつかず、俺はスラックスのポケットにスマホをねじ込んだ。腕を組んで、苦々しい思いを何とか飲みこもうとする。
「何面白い顔してるの、おにいちゃん?」
「難しい顔、な。これが面白く見えるんだったら、お前の目は腐ってる」
「誰からだったの?」
俺の嫌味に、瑠璃は全く表情を変えない。
「プライバシーに関する事項なので答えかねます」
「おにいちゃんのくせに、難しい言葉つかっちゃって」
呆れたように言い放つと、妹は席を立った。弁当包みを抱えて、そのままリビングを出て行こうとする。背中の文字が、いつもよりも小さく見えた。
「じゃああたし、行くね。またあとで、お兄ちゃん」
「おう」
短く答えたが、何か俺は心に引っかかりを覚えた。だから――
「深町にもよろしく言っといてくれ」
自然とそう付け加えてキッチンに戻る。
「は~い」
どこか間延びした妹の声は、いつにもまして明るく、そしてアホっぽい響きを持っていた。
*
図書室という場所柄にもかかわらず、部屋の中は騒がしかった。二十人ほどの小学校低学年の児童と、保護者が所狭しと座っている。
しかし、うちの小学校にこんな場所があっただなんて。全く記憶にないんだが。小学校の頃の休み時間は、体育館かグラウンドで遊んでることがしょっちゅうだった。活発といえば聞こえはいいけど、その実は落ち着きがなかっただけだ。
「ちょっと緊張してきましたね、根津さん」
子どもたち――観客に向かい合う形で、椅子が四脚置いてある。奥から順番に、五十鈴、河瀬、高松、そして俺という四人のメンバーが座っている。読み聞かせを行うのもこの順。読み手は客側に近い位置にある椅子に移動することになる。所要時間は一時間程度、二人終えたところで休憩時間あり。そんな感じ。
時折、正面から様々な意図が込められた視線をぶつけられる。その度に、どうしようもないくらいに居た堪れない気分になるのだ。この場における自分の存在がひたすらに異物のように思えてくる。
「そうか? 一周回ってへい……うぅ、吐きそう」
「全然ダメじゃないですか。変な強がりはいいですから」
それは誇張だったが、腹の奥底がぐるぐるして落ち着かない。感覚としては、大会や審査のにおいて、射場付近で自分の番を待っている時に近い。早く始まって欲しいというちょっと息苦しい状態。だが残念なことに、午前の部において俺は
高松の後ろの方を見ると、女子二人も言葉を交わしているようだ。河瀬の後頭部がよく見える。彼女はテニス部のウィンブレ姿。
「まああれだ。緊張してんだったら、掌に人を書いて飲み込む」
「よくある話ですね。実際それで落ち着くことあります?」
「ない」
「……じゃあなんで言ったんですか」
「先輩らしいことをしたかったんだ」
「手遅れですよ」
蔑むような目を向けられた。俺はとてつもなく悲しい気分になっていた。どうして俺は、こんなにもみんなに軽んじられなければならないのだろう……。
やがて、十時になった。司会を務める小学校の先生が始まりを告げる。促されるままに、俺たちは自己紹介を行った。子どもたちの反応は悪くなかった。それでようやく緊張のピークを抜けた。
今日の内容について、司会が軽く説明する。タイトルと簡単な紹介程度なもの。子どもたちは、はしゃぎながらそれを聞いていた。相槌は大げさで激しく、これから読み聞かせが始まるとは思えない賑やかさ。
「これはなかなかですね……」
同じことを思ったのか、高松が小声で話しかけてきた。確かにな、と俺は苦笑いしながら軽く応じる。
そんな中、五十鈴がすっと席を立った。白を基調にした清楚な夏服はいつも通りよく似合っている。いかにも優しい高校生のお姉さんといった感じを醸し出していた。その顔には、控えめな笑みが浮かんでいる。
読み聞かせ用椅子に歩いていく姿を、子どもたちは目で追っている。ちょっと礼をしてから、彼女は椅子に腰かけた。それでも室内の雰囲気は変わらない。
「みんな、こんにちは」
「こんにちはー!」
「うん、元気いっぱいだね。――今日はね、これからモグラさんのお話をしようと思います。みんなはモグラさん、知ってるかな?」
その問いに、肯定と否定の声が飛んでくる。そんな子どもたちのはしゃぎっぷりに苦笑しつつ、いつもとは全く違う雰囲気の五十鈴に、俺は驚きを覚えていた。
斜め後ろから見ていても、その表情が穏やかなのがわかる。そしてその声色は、いつもの澄んだ無機質なものではなかった。とても丸みがあって優しい感じがする。……誰だ、あいつは?
「ありがとう。モグラさんはね、いっつも土の中にいるの。これはね、そんなモグラさんが――」
そのまま五十鈴は簡単なあらすじを語り始めた。先ほどのように、子どもたちに時折、呼びかけながら。双方向的に、話を進めていく。その姿は、読み聞かせのお姉さん然としていた。雑な言い方をすれば、すっごいそれっぽい。
次第に、室内の雰囲気が落ち着いていく。いつの間にか、子どもたちはすっかり真剣な表情で、高校生のお姉さんに注目している。彼女の放つ空気感に引き込まれたらしかった。
気が付けば、読み聞かせを行うのに相応しいムードが完成していた。図書室の中はただひたすらに静か。それを作り上げたのが五十鈴美桜だった。単純だが、俺は凄いなと思ってしまう。
そして、いよいよ物語が始まっていく。練習の時から思っていたが、五十鈴はとても朗読がうまかった。物語の情景に合わせて、声量や声の雰囲気が変わる。物語を
子どもたちだけでなく親たちまで聞き入っているようだった。邪魔は一切入らない。響き渡るのは、五十鈴が厳かに物語を紡ぐ音だけ。聞き心地よい清らかな音色。それは決して一本調子ではない。
いつもはほとんど表情を変えないのに、今日に関しては本当にその表現が豊かだ。そこには俺の知らない五十鈴美桜がいた。あまりにも普段の姿と違い過ぎて別人に見えるくらい。
俺はそんな彼女の様子に目を奪われていた。物語はすっと耳を抜けていく。同級生で、部活仲間で、委員会の同士である彼女が、とても遠い存在に感じる。
読み聞かせをする五十鈴の姿に、俺は尊敬の念すら覚えていた。そんな俺を我に返らせたのは、心のこもった盛大な拍手だった。気が付けば俺も手を叩いていた――
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