第56話 特別な昼休み
昼休みの数学教室はガランとしていた。当たり前か。今は授業時間外だし。昼を食べる場所として使うにしても、一階のホールやラウンジの方が人気だ。
そもそも、数学教室とは何なんだろうか。ぐるりと見渡してみても、普通の教室と変わったところはまるでない。これが地学教室とか、生物教室だったら、それ特有のアイテムとかがあるものだが……。
結論として、数学教室という名前がおかしいと思う。それを名乗るのだったら、数学に関連するアイテムの一つや二つ置いておいて欲しい。
「ただ便宜上名前を付けているだけでしょ」
ということを口にしたら、五十鈴美桜にすげなく返されてしまった。こいつには、会話を楽しむ心は無いのだろうか。
正面に座る瑠璃もその通りだ、という風に頷いている。その隣の深町は、目が合うと微妙な表情で笑いかけてくれたが。
これがいつもの男連中だったら……いや、たぶんまともに取り合ってくれるのは、裕太ぐらいか。卓は基本塩対応だし、晴樹は冷静なツッコミの使い手。
結局、何も変わらねーじゃねーか。驚愕の事実に眉を顰めながら、俺は弁当の包みを解く。とにかく、昼飯だ。腹が減った。
俺たちは四つの机で島を作って座っている。それぞれの前には、思い思いの昼ご飯。五十鈴だけが菓子パンで、他はしっかりとした弁当。それについては、もう何も言うまい。
『だから五十鈴先輩、細いんだ!』なんていう発言を過去にしたのはうちの妹だ。そのくせ、次の日の弁当を菓子パン一個入れただけにしたら激しく怒られた。
なぜ俺はこの三人と昼飯を食っているのか。理由は至極単純明快。この後に、読み聞かせの会に向けた練習があって、都合がいいから。以上。
俺と五十鈴以外は、基本的に部活ガチ勢……もとい、活動が活発な部活に所属している。となると、放課後や休日に集まるのは難しい。必然的に、練習時間には昼休みが選ばれた。
残る二人もまもなく来るだろう。俺としては早く高松に来て欲しい。男女比一対三とか、気まずくて仕方がない。
「瑠璃のお弁当、いつもおいしそうだよね」
「そうですか? そんなことないと思いますけど」
「ううん。なんか配置が奇麗」
「そうかなぁ……」
こいつは、目の前に作ってくれた人がいることを忘れているのだろうか。こっちも毎日工夫をしてるというのに。わかってもらえなくて、お兄ちゃんは悲しい。
「ダメだよ、瑠璃、そういうことを言ったら。――根津君が可哀想だよ」
ちらりと、深町が俺のことを見てきた。
「そうだぞ。不満があるなら自分でやれ」
「……うっ、それはちょっと。――ごめんなさい、お兄ちゃん。いつもありがと」
棒読み気味な気はしたが、ひとまず受け入れることにした。
「でも根津君はすごいですよね。毎日欠かさず、二人分のお弁当作るなんて、自分の分だけでもあたしにはとても。お母さん、大変そうだあぁとは思うんですけど……」
「慣れただけださ。まあ初めからあんまり苦じゃなかったけどな。俺はどうやら料理好きらしい」
「……昨日、お惣菜しか並んでなかったけど」
妹が余計なことをぼそり。
「そーいう日もある。……文句は周五郎に言ってくれ。遊びに誘ってきたのはあいつだから」
二人であいつの家でゲームをした。今度パズルゲーの大会に出るから、とその特訓に付き合わされた。日が暮れるまでずっと。激しくボコボコにされたが。あれで何か役に立ったのだろうか。
「そういえば、五十鈴さんはいつもパンですよね?」
「ええ。――あんまり祖母に迷惑を掛けたくないから」
そういえば、彼女はおばあちゃんと二人暮らしだと聞いた覚えがある。それをいつ聞いたのかは思い出せないが。
デリケートな話題に触れたと思ったのか、深町は気まずそうな顔をした。少しその視線が泳いでいる。そのまま空気が沈み込みそうな気がして、俺はすかさず口を開いた。
「自分で作ったりはしないのか?」
「……朝はちょっと。ほら色々とバタバタするじゃない」
「それ、朝弱いだけじゃないのか? お前が余裕をもって登校してくるの、見たことないぞ」
図星だったのか、彼女はあからさまに目をそらしてしまった。
「よかったな、仲間だ」
「な、なんであたしの方見るのよ!」
「妹さんもそうなの?」
少しだけ五十鈴は目を丸くした。
「ああ。あと姉も。いつも俺が起こしてやってる――深町はどうだ?」
「わたしは別に得意も苦手も……あ、どっちかといえば、得意、ですかね」
弓道部女子は躊躇いがちにそういうと、はにかんだ笑みを浮かべた。ようやく朝に強い女子が現れて、俺は少し感動していた。
やがてそこに河瀬が姿が現した。一応聞いてみたところ、この活発系な女子もまた朝には強いという。……あれ、これもしかすると、うちの姉妹と五十鈴が少数派か? サンプル数が少なすぎてなんとも言えないけれど。
何はともあれ。またしても女子の勢力が増してしまった。一層肩身の狭い思いで昼飯を食べ続ける。しかし六人目がやってくるのは、まだ少し先のことだった。それはまさに生き地獄――
*
「――カエルさんは悲しくなって、わあわあと泣き出しました。涙は沼の中に溢れていきます。すると、汚かった沼が湖に変わっていきました。そうです、カエルさんが欲しいものはここにあったのでした」
廊下から、賑やかな声が聞こえていた。対して、この数学教室の中はとても粛々とした雰囲気。一人の女子生徒の声が、心地よい音色を奏でている。ここだけが、周りから切り離されているような錯覚すら抱く。
その声に、俺は完全に聞き入っていた。満腹感を覚えながらも、眠気は少しも感じない。すっかり俺は物語の世界に入り込んでいた。
無事に腹ごしらえも終わり、俺たちは机を下げて、教室前方に読み聞かせ用のフィールドを作った。椅子を六つ丸く配置する。それによって、全員の顔がしっかりと見渡すことができる。
これで練習は……八回目? 正確な回数は忘れた。毎日やってるわけでもないし。でも一周はしたのは確かだ。彼女の――瑠璃の番は二回目だから。
それは子どもガエルが主人公の話だった。……オタマジャクシ? いや違う、子どもガエルの話だ。絵本なんだからいいじゃない、それくらい。
彼は奇麗な池を求めて旅をするのだが、結局どの池にも馴染めない。失意のまま故郷に帰ってきたのだが、家族はいなくなってしまっていた。みたいな話である。……あらすじって、難しいな。
まあなんにせよ――
「ぐすっ、ぐすっ……ええ話やなぁ」
物語が閉じたところで、俺は堪らず感想をこぼした。
俺は鼻を啜りながら、目元を指で拭った。割と感動していた。涙腺は弱いのだ、実は。泣ける映画とかはダメだ。何とかロードショーでそういうのを家族で見てた時、一人だけ号泣していたことがあったり。
一気に、仲間たちの視線が俺に集まるのがわかった。さすがに居心地が悪くて、少し身じろぎをする。正面の奴なんかは、かなりきつめに睨んできている。
その女が口を開いた。
「もう、お兄ちゃんっ! さっきからずっとうっさいんだけど! 恥ずかしいから止めて!」
「いきなり大声を出すな。雰囲気ぶち壊しだぞ。――しかしだな、瑠璃ちゃん。いい話には、涙がつきもんだ」
「……みんなひいてるよ? この間も泣いてたし」
確かにみんな微妙な顔をしている。……いや、一人だけそうじゃないやつがいた。ある女だけは冷めた表情をちらに向けていた。こんな時でさえ、やはり五十鈴美桜は
「うるせーな。俺のことはいいだろ、別に。ほっとけよ。ほらさっさと反省会して帰ろーぜ」
「なに拗ねてるんだか……。ま、バカ兄は放っておいて――どうでしょう、あたし上手くなってます?」
瑠璃がぐるりと全員の顔を見まわす。その言葉にすぐに反応する人間はいなかった。俺も少し考えてみるが、特に悪いところは見当たらない。
一回目の時はまだ少し恥じらいを見せていたが、今日は堂々としていた。さらに声量はちょうど良く、声は聞き取りやすい。つまるところ、問題は無かった。
……最近、部屋でよく姉貴相手に練習してるからな。疲れてるのか、姉貴の方はすぐ寝落ちする。そして最終的に妹は、俺の部屋に乗り込んでくるのが一連の流れ。つまり、練習相手は俺なんだ。
他の奴もそう感じたのか。やはり誰も発言しない。つまりこれで終わりか。――そう思ったら。
「もうちょっと間があってもいいかも」
五十鈴の澄んだ声が教室内によく通る。
「間、ですか?」
「うん、聞いている人……子どもたちに余韻を感じてもらうために、というか。まあでも、その辺りは反応を見ながらになると思うけれど」
淀みない口調で五十鈴は続ける。しっかりと瑠璃の顔を見据えている。ややぶっきらぼうな感じだが、その根底にかすかな優しさを感じる。彼女と部活の後輩たちとのやり取りを思い出した。意外と面倒見がいいんだよな、この女。
「さっすが、五十鈴先輩! どこかの泣き虫さんとは大違い」
じろりと、妹の目がこちらを向いた。
「瑠璃、そろそろ兄を軽んじるのはやめような」
「今更兄の威厳を取り戻そうとしても無駄だよ」
はあ、と深いため息までつかれてしまった。
その反応は気になるが。まあ、五十鈴が頼りになるのは完全に同意。さすが去年経験しているだけのことはある。毎回彼女のもたらすアドバイスは適切で参考になる。
その後もいくつか五十鈴が気になったところを述べた。それに合わせて、それなりに議論が活発化する。といっても、五十鈴が話した内容を掘り下げるのが主だが。
「――そろそろ時間ね。机、元に戻しましょう」
意見交換のきっかけを作った女が、練習の終わりを告げた。
気が付けば昼休みギリギリになっていた。いつもこんな感じだ。誰からともなく立ち上がり、慌ただしく肉体労働が始まる。
「あー、もう来週が本番かぁ。緊張する……」
「お前なら大丈夫さ。もっと軽くいこーぜ?」
「……なにそのテキトーな励まし。ムカつくんだけど」
「そんなカリカリすんなって。やればできる! ジャストドゥーイッ!」
「うるさいな、ほんと……」
熱く励ましたというのに、冷たくあしらわれてしまった。
「ふふっ、二人は相変わらずだなぁ。――根津君は心配じゃないんですか?」
「そりゃ少しは心配さ。でもあんまり気にし過ぎても仕方ないかなって。相手は子ども。ぶっつけ本番、元気よく、さ」
「いまいち意味は分からないけど、なんだかすごい勢いですね……」
「翠先輩、こいつに真面目に付き合うのは時間の無駄ですよ」
「瑠璃ちゃん、こいつ呼ばわりはやめよう。――姉貴に言いつけてもいいんだぞ?」
俺が耳元で小さく脅すと、妹はピクリと身体を震わせた。姉弟三人節度を持って仲良く、というのがあの女のテーマである。あんまり舐めた態度を取っていると、大変なことになる。それは俺も瑠璃もよく知っていた。
「でも根津君の言うことにも一理あるわ。子どもたちに楽しんでもらうには、自分も楽しまないと」
「ふむふむ。――やっぱり五十鈴先輩はいいこと言うなぁ!」
「のぞみたいな反応だな、それ」
「なにそれ?」
瑠璃は不思議そうな顔で首を傾げる。
いよいよ、読み聞かせの会も近づいて、部活でもその練習を行っていた。部員全員がそれに関与するわけだから問題ない、という部長の判断により。
その割には、三年生は放課後講習の闇に呑まれ、残された四人だけでやる時間の方が多かったが。そのために、五十鈴が神格化……もとい一番頼りにされている。一昨日の部活でも、のぞが大絶賛していた。それを俺は思い出した。
「……のぞ」
「どうかしたか?」
ぼそりと五十鈴が呟いた。それはすぐ近くにいた俺しか気づかなかったらしい。弓道部コンビは新たな机を求めて向こうの方に行った。
「いえ、最近キミは望海さんのことをそう呼ぶんだな、とおもって」
「お前だって、名前で呼んでるじゃないか」
「それはそうだけど……」
五十鈴は歯切れが悪そうだった。いったい何が気になっているのか。まあだが、こいつの不明瞭さは今に始まったわけでもなし。それに、五時間目も近づいているわけで。俺はあまり気にしないことにした。再び作業に戻る。
数学教室が元の姿を取り戻したのは、昼休みが終わる五分前のことだった。高松と瑠璃は次の時間移動教室らしく、慌ただしく去っていった。あいつらは同じクラスだ。
「二組は次の時間何の授業?」
「……なんだっけ?」
「ええと、現代文です。根津君」
「だってよ」
「いちいち間に入らなくていいから。――みおも大変だねぇ」
ため息をつきながら、その顔が五十鈴に向く。どこか同情した風に。
「どういう意味だよ」
「さあね――それじゃあお三方。また今度」
河瀬はひらひらと手を振って、廊下を駆け出していった。六組の教室は意外とここから距離がある。あいつが理系なのは少し意外だった。
「現代文かぁ……」
「眠くなりますね~」
「確かに。――五十鈴はそんなことないだろうけどな」
「そんなことない。私にも退屈な授業はあるわ」
ホントかよ。あまりにも口調が平然とし過ぎて、判断がつかなかった。そのまま、五十鈴は一人教室に向かう。
俺たちもすぐに後を追った。二年二組の教室は、もうすぐ授業が始まるというのに、まだまだ騒がしいのだった。
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