第55話 日常は変わりゆく

 文芸部室の扉を開けると、一年生たちの姿しかなかった。二人だけだというのに、一つのソファに固まって座っている。よほどの仲良しさんというわけだなと結論付けて、後ろ手で扉を閉めた。

 文芸部らしく、三田村は本を読んでいた。一方文本は机で書き物をしている。その内容はここから出はわからない。


 六月三度目の火曜日。初週にあった定期テストの余波も完全に収まり、すっかり日常が戻ってきていた。徐々に近づきつつある月末の読み聞かせの会が、俺に謎のプレッシャーを与えているが。練習はちょこちょこやっている。


「なぁんだ、浩介先輩だけかぁ……」

 顔を上げると、文本は即座にため息をついた。

「そんなに温かく迎え入れてくれるとは光栄だな」

「……先輩にはこれが温かく見えるんですか!?」

「のぞみちゃん、皮肉のつもりなんだよ、きっと」

 言われてもまだ、文本はぴんと来ていないご様子。それはともかく――

「三田村、もう少し声のボリュームを絞ってくれると嬉しい」


 物静かな文学少女が顔を真っ赤にするのを見守ってから、俺は二人の正面のソファに腰を下ろした。テーブル上にちょっと視線を落とす。丸い籐の篭が乗っていた。美紅先輩ぶちょうがこの間、手芸部から貰ってきたものだ。いつもは菓子入れの仕事をしているが、その中身は今は空っぽ。

 ガタガタ――物騒な音がして目線を上げると、文本がソファに座ったまま身体を棚の方に伸ばしていた。その指先は戸棚の扉に届いてる。


「何か食べます?」

「いいよ。太る」

「確かにそれは大問題ですなぁ」


 文本は少しだけ顔を歪めると、しみじみと頷いた。棚を閉めると、ぐっと身体を起こす。段々と長さが増してきているポニーテールが雑多に揺れた。


「瑠璃が言ってました、お兄ちゃん最近少し太ったみたいって」

「……マジで?」


 俺は思わず自分の頬をつまんでみた。その感触に、特段の違和感は覚えない。普段の生活でも、自分が太ったという実感はないんだけど……。


「球技大会の練習ガチるから大丈夫だ」

 そろそろ準備しよう、と昼休み男同士でそんな話で盛り上がった。

「ちょうど一か月前ですもんね~。うちのクラスでも男子が騒いでました。詩音のところは」

「ううん、どうだろ……あんまり男の子たちとは話さないから」

 三田村は曖昧に笑って首を傾げた。

 

「で、先輩たちは?」

 背もたれにゆっくりと身体を預けながら、室内に目を配る。

「放課後講習です。さっき美紅先輩が来て、静香先輩に巻き込まれたって文句言ってました」

「ふうん。――じゃあ来るとしても五時前か」

「なんです?」

「お前は受けそうにないもんなぁ」

「……失礼ですね、浩介先輩。そもそも講習自体、初耳なんですけど」


 不服そうな顔をした文本だけでなく、三田村が小さく頷いたのを見て、俺は一年生は夏期講習が最初だったかもしれないと思い至った。秋ごろから、件の放課後講習だけでなく、土曜講習も開催されるようになった気がする。


「よく知ってますね~」

「……お前より一年長く高校生やってるから、こう見えても。それと、前の部活の顧問のせいで、しょっちゅう受けさせられたってのもあるな」

 晴れて弓道部を辞めた今、今期の放課後講習は不受講をキメたわけである。


「そういう浩介先輩こそ、みおっち先輩は?」

「ん、ああ――」

 俺はついさっきのことを話した。


 週が替わって掃除もなく。俺はのんびりと教室を出た。周五郎に借りていた漫画を返しにあいつのクラスへ向かおうとしたら、あの女に声を掛けられたわけである。


『わたし、今日バイト』

『そっか、どうでもいい情報サンキュな。頑張れよ!』


 それだけ言って身を翻したら、腕を掴まれた。顔だけ向けると、彼女は無表情のままじっと俺を見つめていた。


『わかった、わかった。部活休む、ってことだろ』

『ん』

『ったく、軽いジョークにそこまで目くじら立てるなって』

『それこそ、わかってる』


 そして満足そうに階段の方向に去っていったわけである。


「……先輩たち、相変わらずよくわからないコミュニケーションの取り方してますね」

「向こうが悪い。あいつ、いっつも用件だけぶっこんでくるからな。たまに本気で理解が追い付かない時がある」

「根津先輩にも問題があるような……」

「何か言ったか、三田村?」


 聞こえてきたあらぬ指摘に、俺はすかさずその発言者を睨んだ。その小動物系女子は一瞬びくっと震えると、すぐ隣の友人を盾にした。頼られた生意気ガールは頼もしそうな表情で背筋を伸ばした。


「ってか、そういうことなら俺も帰ろ―かな」

「え、どうしてですか?」

「いやこれじゃあ部会もなにもないだろ。待つにしても、あまりにも暇すぎる」

「でもどうせ帰ってもやることないでしょ、浩介先輩」

「……辛辣すぎる一言ありがとう」


 とりあえず、浮かしかけた腰を俺は戻した。腕を組んで一つ大きくため息をつく。平時の半分しかいない部室はとても寂しく感じる。


「ま、しゃーねーか。サボりはよくないしな」

「そうそう、そうこなくっちゃ!」

「よかったね、のぞみちゃん。ずっと待ってたもんね、根津先輩のこと」

「……ろくでもない予感しかしないんだが、どういうことだ?」

「これです、これ」


 文本は机の上に置いていた紙を突きつけてきた。さっき彼女が書き込んでいたものだ。見ると、数学のプリントというのはわかった。大問が奇麗に配置されている。恐ろしいまでに空白が広がっているのが、気になるんだが。


「……二次関数だな」

「教えてください!」

 気合いの入った掛け声とともに、彼女は頭を下げた。

「明日までの課題らしいです」

 三田村がすかさず補足する。

「へいへい」

 まあ退屈しのぎにはなるか、と俺は観念することにした。





        *





 室内にはすっかり静寂が広がっていた。教えるだけのことは教えたので、あとは文本に自力で取り組ませていた。手持無沙汰になった俺は、一昨年の部誌を読み込んでいる。

 文化祭は九月下旬。そこから逆算すると、何かを書くための準備期間は思いのほかない。読書感想文と同じで、一朝一夕とはいかないだろうことは察しがついている。そのため最近は、こうして過去の先輩方の業績を読み漁っているわけだった。


「そうだ! あたし、一つ思ったことがあるんですけど」

「なんだよ、藪から棒に」


 文本がそんな雰囲気をぶち壊すように大声を上げた。顔を上げると、彼女がニコニコしているのが目に入った。


「ヤブカラボー? なんで英語?」

「は?」

 意味不明過ぎて、気の抜けた声が出てしまった。

「いや、アンビリバボー、的な単語ですよね? バリアボーとか、テリボー!」


 目を輝かせながら、信じられない、とか価値のある、とか恐ろしい、という単語を述べる文本望海。なるほど、ヤブカラボー……考えてみたが、全然納得できなかった。

 俺はぐっと前のめりになった。三田村に目配せをする。文本の様子に気を付けて、少しだけ距離を取ったところで小声で話しかけた。


「……三田村君、君のご友人は何を言ってるんだね?」

「たぶん藪から棒って言葉を知らないんです。現代文苦手らしいし」

「それは文芸部としてどうなんだろうな」

 彼女の真似をして、俺も文本に気の毒そうな視線を送った。


「ちょっと! 何ですか、こそこそと!」

「文本、もうちょっと勉強頑張ろうな?」

「ファイトだよ、のぞみちゃん」

「二人して、なんなの、いったい……」

 突然の励ましを受けた文本はただただ困惑するだけだった。


「ともかく、ヤブカラボーのことは一端忘れろ。エクスカリバーみたいなもんだ」

「……そっちかぁ」

 

 妙に納得した表情で、彼女は頷いた。……何がそっちなんだろうか。言い出しっぺは俺だが、あまり理解できていなかった。

 かぶりを振りながら、俺は深く椅子に座り直した。改めて、じっと文本の顔を見る。


「で、どうした? お前はいったい何に気が付いた? この世の真理か」

「そんな大それたものではなく。――浩介先輩って、三年生の二人だけは名前呼び、ですよね」

「それで?」

「いえ、いつまでよそよそしくあたしたちのことは苗字呼びなのかな、と。同じ部活の仲間じゃないですか、あたしたち!」

 彼女はばしんと机を叩いた。


「苗字呼びってよそよそしいか?」

 ちらりと三田村の方を見る。

「いえ、わたしはそうは思わないですけど」

「ちょっと、せめて詩音はあたしの味方してよ~」

 一年生ズは仲間割れを起こしていた。


 まったくもって、文本が語るのは謎の理論だ。そもそもにして、俺はあんまり女子のことは名前で呼ばない。意識しているわけではなく、癖みたいなものだ。幼馴染の若瀬さえ、ずっとそうだ。


「つまりお前のことも名前で呼べ、と?」

「はいっ! 正直あたし、名字で呼ばれるのくすぐったくって……」

「しかしだな。文本は文本だろ。文本以外に文本じゃないじゃないか!」

「……あのわけわかんないこと真顔で言うの、止めてくれます? なんか前も似たようなこと訊いた覚えあるし。頭痛くなってきた」

 眉を顰めて、文本はこめかみを押さえた。


 確かに今のは自分で言ってても、意味が分からなかった。しかし勢いで話すことを止めたら俺じゃなくなるのではなかろうか? ……なにより今日は天敵いすずがいないから好き放題やりたい気分。


「三田村はどうなんだ? やっぱり名前の方がいいか?」

「わたしはどっちでも……」

「だってよ」

「いや、だってよって……個人の感性ですから、それは」

 穏やかな説得を試みたものの見事に失敗したらしい。


「とにかくっ! 今からは文本呼びは金輪際禁止です。よろしくお願いしますね」

「横暴だな。――へいへい、わかりました。のぞね。これでいいだろ」

 せっかくだしあだ名で呼んでやることにした。

「まあいいでしょう」


 まんざらでもない様子で文本――改めのぞは頷く。果たして、この呼び方の変更に何の意味があるのか。それは俺にはよくわからない。ま、本人が満足そうなのでいいだろう。


 向こうも少しは俺に親しみを感じてくれているのかもしれない。文芸部生活は早くも二カ月。すっかりみんなと打ち解けることができたということか。のぞはこんな感じだし、三田村とも最近はよく喋るようになっている。

 五十鈴美桜についても、だいぶわかった気がしていた。無表情の中にも、その喜怒くらいは感じ取れるようになってきた。ただし、未だによくわからないところも多いけれど。……というか、向こうはどう思っているのだろうか。


 しかしまあ、文芸部がこんなに居心地のいい場所になるなんて思ってもみなかった。冬から春の三カ月弱が嘘だったかのように、最近は気分がすっきりしている。

 これも全部五十鈴のお陰か。もしあいつとあんな形で知り合わなかったら、たぶん俺はどこかグダグダと日々を生きていたんだと思う。ただしそれは、麻雀で負けたことを肯定するわけではない。どこかでリベンジしてやる気持ちは今もある。


「いやぁ、よかった、よかった。スッキリしたぁ。こっちが名前で呼んでるのに、名字で呼ばれるとなんかすっごいビミョーだったんですよ」 

 大げさに安堵している彼女を、俺はなんとも言えない表情で眺めていた。

「そっかー、それはなによりだ。さて、早速だがのぞよ。そこ、間違ってるからな」


 ちらりと見えた紙の上では、問題の数式から想像できるのとは真逆の放物線が描かれていた。気まずそうな顔でそれを直す後輩の姿を見て、こういうのも悪くないな、と思うのだった――

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