第60話 暑い日にはソフトを
俺たちがやってきたのは、高校近くの大きな公園だ。その金網がしっかり巡らされた土の広場。サイズはそこまで広くない。遠くからは子どもたちが騒ぐ声が聞こえてくる。
うちの高校の連中の姿がないのは、球技大会までまだ三週間ほどあるからだろう。三年生はともかく、一二年生は部活もある。まとまった時間が取れるのは土日くらい。うちのクラスでも、週末練習しようという話になっている。
遅れて現れた部長御一行は、なぜか金属バットを持っていた。その出所は恐ろしくて俺には聞けなかった。文芸部倉庫は四次元空間なのかもしれない。
適当にキャッチボールを済ませて、なんとなくノックをした。美紅先輩やのぞの動きがいいのは、まあわかる。二人とも、どちらかといえば活発なタイプだから。
しかし、静香先輩や三田村の身のこなしも悪くなかった。てっきり根っからの文学少女タイプだと思っていたが。かなり意外だった。そんなこと、口が裂けても言えないが。
「ふぅ、疲れた、疲れた。ちょっときゅーけー!」
美紅先輩を筆頭にして、みんながこちらの方に戻ってくる。俺は道具をひとまとめにして、一足早くベンチへと歩き出す。
五十鈴がぽつんと一人で座っていた。足を組んで、その上で手を組み合わせながら。彼女は部長が言っていた通り、ずっと俺たちのことを見ていた。何度声を掛けられても、頑なにこっちに来ようとはしなかった。
その隣は空いているが、すぐには座らない。俺は彼女の前に立ち塞がって、彼女を不躾に見下ろした。すると相手の顔がゆっくりと上を向く。
「お前はやんなくていいのか?」
「もしかして私のスカートが捲れることを期待してるの?」
目を細めて、彼女はわざとらしくスカートを抑える。
「なんでそうなるんだ……この際だから言っておくけど、あれはただの罰ゲームだからな」
「……うん。そうだろうとは思ってた。男子たちが店の前で大騒ぎしてるって聞いたから」
さらっと彼女はとんでもないことを口にする。
「聞いたって、誰に?」
「美紅先輩。あの時店に来てたのよ、静香先輩と二人で。仁科さん――茶道部の部長に会いに」
「マジで?」
「まじ」
彼女は真顔で頷いた。
……それは全くの初耳だった。何とか思い出そうとしたが、正直よく覚えていない。もう三カ月も前のこと。その記憶はかなり朧気だった。――ああいや、この女に止められたことははっきりと思い起こせるが。いやぁ、運動し過ぎたからか、かなり身体が熱くなってきたなぁ。
「つーことは、あれか? 二人は例の一件を……」
「それはどうだろ。私は喋ってないよ、約束したから」
「その約束は、かなりあやふやになっている気がするんですが」
「そうかな?」
彼女は少し顔を傾げた。一件無表情に見えるが、少しだけ唇の端が上がっている。揶揄われているのがわかって、俺は顔を顰めて睨み返す。
この女、かなり食えないところがある。初めは、無表情、無感情の、機械的クールガールだと思ったが、その実は違う。ただの不思議なところの多いマイペース少女だった。
それはいいとして。真相を知るのは本人だけか。ちょっとだけ後ろを振り向くと、その人物は地面に座り込んでいた。眼鏡がよく似合う知的な女子が、彼女の腕を引っ張っている。それを遠巻きに一年生たちが眺めていた。
ため息をついて、俺は五十鈴の横に座った。少しだけ、彼女は腰をずらす。ボーっと前方に打ち捨ててある道具類を眺めていて、俺はあることを思いついた。
「――打つのはどうだ?」
「え?」
全く予想していなかったのか、その声はとても気が抜けていた。ゆっくりと彼女の顔がこちらを向いたのがわかる。だが、俺は前を向いたまま続けた。
「それならスカート、あんまり邪魔にならないだろ」
「確かにそうかもね」
それでもあんまり気乗りしないらしく、淡々とした言い方だった。
ここまで来ると、俺は何とかして五十鈴にソフトボールをやらせたかった。せっかくみんなで来たんだし、彼女も仲間に加わればいいと思う。たぶん、その方がもっと楽しいだろう。
「明日、体育あるよな。お前、ソフトボールじゃないのか?」
次回から各自の球技大会の出場競技に合わせた選択授業に切り替わることになっていた。
「なんで知ってるの?」
「そりゃ一人残されてたからな、お前。あの時、こっちの席の方見てなかったか?」
「自惚れね。若瀬さんの方を見たの」
「ま、なんとなくそうだと思ったけどな。――ってなわけで、そのウォーミングアップだと思えば」
「言ってることが美紅先輩と似てるわね」
そんな風に話していたら、どこからか自転車がやってきた。それは俺たちの前で止まった。どこにでもあるような、ありふれたママチャリだ。前のカゴには大きな白いビニール袋が入っている。
見上げると、その主はあやや先輩だった。ジャージ姿、あの長い髪はおさげ髪のように二つに分かれて結ばれている。そしてどこか不機嫌そうな顔をしていた。
「なにしてるんですか、こんなところで。サイクリングですか?」
「違うわよ、そんな趣味はない。――美紅に呼ばれたの。ほら差し入れ」
自転車から降りると、彼女はビニール袋を取り出した。そしてその中身を見せてくる。五百ミリのぺっどボトルが数本入っていた。スポーツドリンクの様だった。
「はい美桜、どうぞ。――ほら、根津あんたにも」
五十鈴に渡す時とは違い、俺にはペットボトルを投げて寄越してきた。
「……もしかして、あやや先輩のおごりですか?」
「あんたからは金を取る」
「えぇ……」
すると、隣で五十鈴ががさこそと持ってきたポーチを探り始める。中からクリーム色の財布を取り出してくるも、あやや先輩が手で制す。
「ああ、いいのよ、美桜。私がご馳走するから」
「でも……」
「うわっ、あからさまな差別……」
「なにか?」
笑顔で凄まれたら、俺としては黙るしかない。
「しかし美紅は相変わらずねー。ほんと、ろくでもないことしか考えない」
「そういう割に、どうして来たんですか?」
「……強いて言えば、退屈だったからかな」
「退屈って、先輩受験生ですよね?」
「受験生にもね、息抜きは必要なのよ」
「はー、そんなもんですか」
「なによ、その目は。――美桜まで!」
するとあやや先輩は袋を提げて、美紅先輩たちの方へと歩いていってしまった。どこか照れくさいところがあるのが透けて見えていた。……存外、あの人もわかりやすい。
「さて、こんなものまで貰ったんだし、お前もやるしかないんじゃないのか?」
俺が冗談めかして言うと、彼女は暫く自分の手元のペットボトルと俺の顔を交互に見やっていた。やがて観念したようにため息を漏らすと――
「まあ打つだけなら」
「そうこなくっちゃ」
観念したように呟く姿が、俺には堪らなくおかしい。そしてペットボトルの栓を開けて、中の液体を煽る。それは、汗をかきまくったこの身体にはとてもよく染み渡るのだった。
*
目の前には、素晴らしく不格好なバッティングフォームをした制服姿の女が一人。その佇まいに、俺はなんとなく嫌な予感を覚える。明らかに経験者のそれではない。腰が思いっきり引けている。
提案したのは自分だが、それを激しく後悔していた。それでもグラブの中のソフトボールに目を落とすと、いよいよ覚悟を決めた。
「じゃ、行くぞー」
返事は無かった。ただ不機嫌そうな顔で睨まれただけ。やや前のめりだった姿勢をぐっと正す。ちらりと後ろに目を向けた。五人の女子が守備に就いている。
ゆっくりと、トスするように下からボールを放った。我ながらいい高さに投げられたと思う。それは五十鈴のお腹の辺りの高さに達して――
ぶるん。
「あの、五十鈴さん?」
バットは見事に宙を切った。鈍い軌道を描いて。ボールはそのまま後方に転がっていく。……所謂、ど真ん中だと思ったんだが、ちょっと高かったかもしれない。うん、きっとそう。
彼女は気難しそうな顔をしていた。悔しそうに唇を噛んで、その手に握ったバットに目を落としている。ちょっと哀愁が漂っていた。
「ボール、返してもらえるか?」
彼女はこくりと頷くと、ボールを追いかけていった。バットを持ったままのその足取りはどこか危なっかしい。
やがてボールを拾い上げると、こちらに向かって投げてきた。
だが――
ヘロヘロ……ちょうど俺とあいつの中間地点あたりで落ちた。あまりにも勢いが弱すぎて、ほとんど転がらない。微妙な静寂がジワリと広がっていく。
とりあえず、俺は小走りでそれを拾いに行く羽目に。この瞬間、俺は全てを悟った。
「……わざとやってんのか?」
「違うわ」
ぶるぶると、彼女は首を横に振る。
まあそうだよな。正直な話、わざとだったらどんなによかったことか。ぱしぱしと、グラブにボールを何度か叩きつける。
「お前、ソフトボール苦手なんだろ」
「そ、そんなことは……」
ぎくりと、彼女の身体がびくついた。
「いや、明らかに動揺してるから」
気まずそうに五十鈴は顔を背ける。
「お前、去年はソフトボール選択しなかったのか?」
「……バレーだった」
「なら、やるのは初めてか?」
「見たことはあるよ。それにさっきキミがボールを打ってたじゃない」
確かにバットの持ち方はわかっているようだったし、さっきボールを投げてきた時も、そこまで変なフォームじゃなかった。ただし、どちらも初心者の域を出ない。
……はぁ。ため息をついて、改めて五十鈴の顔を見つめる。向こうもどこか居た堪れないような雰囲気。果たしてこれはどうしたものか。
まあ別に、初めてなのは仕方のないことだ。むしろ、後ろにいる女子連中の手慣れている感じの方が例外だ。彼女たちはボールを取るのも、投げるのも人並み以上にできていた。
全員、球技大会にソフトボールを選んだらしいから当然といえば、当然か。しかし、こうなってくると、なぜ目の前の女がその選択をしたのかが気になる。……もしかして五十鈴って――
「へいへい、へぼピッチャー! 早くしろー!」
失礼な考えを、後ろからのヤジがかき消した。ほんとあの人、苛烈な性格してるわ。へぼなのはバッターなのだが、そう言い返すわけにはいかず。困り果てて、俺は腕を組んだ。
「……できないから、やりたくなかったんだな」
おずおずと、五十鈴は頷いた。思わず見上げた空は、ようやくオレンジ色に染まりつつある。まだボールを追うのには困らない時間帯。
「とりあえず、バッター交代だな。見よう見まねでやるしかない」
「うん」
彼女からバットを受け取ると、俺は先ほど煽ってきた女子に大声で呼びかけた。
学校に戻るまでの道のりで、俺たちはコンビニに寄った。といっても、用事があるのは美紅先輩ただ一人。俺たちは店の前の邪魔にならないところで、彼女が戻ってくるのを待っていた。
すっかり日は暮れかけている。この時間になると、かなり暑さは和らいでいた。汗だくの身体には、そよ風さえ上等な涼しさを与えてくれる。
「まあ、そんな落ち込むなよ。最後のはいい感じだったぜ」
周りが同学年同士で盛り上がっているので、俺はそれに倣った。
「別に落ち込んでなんかない。ただ疲れたな、って」
「楽しくなかったか?」
「そんなことない。でも、もう少し打てれば、もっと楽しかったんだろうけど――って、なにその顔?」
「お前にも、楽しいって感情があるんだなと」
「……怒り、という感情もあるわよ」
五十鈴はぐっと目を細めてきた。
トスしたボールとはいえ、みんなよくボールを打ち込んでいた。まあ一人だけ怪しいのが、五十鈴の他にもいたけど。
最終的に、あの人は俺が悪いと文句をつけてきた。なんだろう。両者とも見た目は文武両道の優等生感があるのに、変なところでポンコツだ。
やがて、ビニール袋を提げた美紅先輩が店の中から出てきた。そして、俺たちを一か所に集める。
「ソフトの後は、ソフトってね!」
彼女が袋の中から取り出してきたものは、ソフトクリームだった。
一瞬にして、場の空気が凍り付いた。俺は肌寒さを感じて、ワイシャツの袖を戻したい気分だった。そして同時に思う。あの時、不用意な発言をしなくて本当によかった、と。
「……ぷっ。悔しいけど、面白いわね」
あやや先輩にはクリティカルヒットしていたが。ツボに入ったらしく盛大に笑っていた。その姿がなおさら、この場の雰囲気を冷たいものにした。
その後何事もなかったかのように、俺たちははソフトクリームを受け取った。美紅先輩のおごり。なんだかんだいってあやや先輩も金をとらなかったわけで、俺は先輩の偉大さを思い知っていた。
そのまま店の影で食べ始める。その甘さは疲れた身体によく効いた。なんだろうな、これ。ソフトボールして、帰り道にアイスを食べて。いっぱいの青春がここにはあった、みたいな。
「さてと、あたしは帰るわ」
「えー、一緒に部室までくればいいのに」
「どうしてよ……特に用事はないもの」
「いっそのこと復帰するってのはどうだい、あやや?」
「……はぁ。考えておくわ。――じゃあね、みんな。今日は楽しかったわ」
そしてスーッとあやや先輩は一人、自転車を漕いでいく。すぐに角を曲がって、その姿が消えてしまった。
「さて、あたしたちも戻ろーか」
部長の言葉に、俺たちは校舎に向かって歩き出す。こういうのも悪くない。隣にいる同級生が、実は運動があんまり得意じゃなさそうだ、と知れたし。少しだけ、彼女の心に近づけた気がした――
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