第51話 ゆるゆると、だらだらと
ガチャガチャ。ドアノブを回すが固い感触がある。
ドアにはしっかりと鍵がかかっているようだった。一応ノックしてみるが、返事はない。それでも、もう少しだけ待ってみることに。
「……誰も来てないみたいだな」
閉ざされた扉の奥からは、物音一つすら聞こえてこなかった。
俺は少し首を後ろに回した。凛とした立ち姿のクラスメイトがそこにはいた。タイミングがたまたまあったので、こいつと一緒に部室に来ることになった。
一週間ぶりのフルセット授業は、さすがにちょっとだけ疲れた。それでもいくつかの授業ではテスト返却があったりして、まだ完全に平常時に戻ったわけではなかったが。
「そうね」
五十鈴は軽く鼻を鳴らした。
「鍵、取ってきてくれよ」
「……文本さんや三田村さんに、今日は面白い話ができそうだわね」
どこか白々しい、ちょっと高い声を彼女は出した。
「遠巻きに脅してくるのはやめろ」
俺がぐっと眉を寄せるが、彼女は余裕たっぷりの笑顔は崩さない。しっかりと俺を見据えるその瞳は有無を言わさない迫力があった。
「脅し、ね。そんなつもりはないわ。――妹さんの連絡先はっと」
五十鈴は鞄からスマホを取り出した。
「へいへい、わかりました。ったく、めんどっちーなー」
軽く舌打ちをして、俺は肩を竦める。
「嫌ならいいのよ?」
ふるふるとスマートフォンを振ってみせる五十鈴さま。
「行きます、行かせていただきます。僕、職員室だーい好き!」
「……きもちわるい」
くるりと振り向くと、険しい顔をしている五十鈴の姿が目に入った。少しは不快な思いにさせることができたようで、その点では俺の勝ちだ。……代わりに、大切な何かを喪った気がするが。
そのまま俺は来た道を戻った。狭い通路だから、彼女の身体とかなりギリギリにすれ違うことになった。
二階の廊下は、放課後とは思えないくらいにひっそりと静まり返っている。三年生の模試があるからだ。昨日先輩方が言っていたし、先ほどの帰りのホームルームでも矢島先生がアナウンスしていた。
厳かな雰囲気の中、そっと職員室を目指す。漂っている空気は息が詰まりそうなほどに重い。悪いことをしているわけではないのに、なぜか後ろめたさを感じてドキドキしてしまう。
「失礼しました」
あと少しまで迫った時、目的の部屋から二人組の女子が出てきた。背の高いポニーテールと、小柄なショートヘアのコンビ。前者は活動的、校舎は大人しそうな感じを醸し出している。そのシルエットはよく見覚えのあるものだった。
俺は足早に近づいていった。向こうにまだ気づいた様子はなかった。
「よお」
声をかけると、彼女たち――文芸部一年生ズはゆっくりと俺の方を振り返った。
「どーも!」
「お疲れ様です」
二人とも軽く礼をしてくれた。
そんなに大きな声ではなかったが、俺はすかさず人差し指を唇に当てててみた。非難するように、眉根を寄せて活発な女子の顔を見つめる。
すると文本はしまった、というに口元を手で覆った。そして、三田村の顔も強張った。少し重苦しい沈黙が発生した。
謎の空白の時間が生まれたのち、小うるさい方の後輩がふーっと長い息を吐きだした。
「脅かさないでくださいよ!」
とげとげしているが、さすがにひそひそ声ではあった。
「そういうつもりじゃねーけどな。――鍵は?」
「わたし、持ってます」
物静かな後輩が、文芸部室の札が付いた鍵をかざしてくれた。
「一人ですか?」
「いつもあいつと一緒なわけじゃねーよ」
「あいつって誰のことですかぁ?」
ニヤニヤ笑いながら、文本は俺の顔を覗き込んでくる。とても腹立たしい。睨み返してみるが、全く効果はなかった。
「妖怪鉄仮面だよ」
「……なんですか、それ。もしかしなくても、美桜先輩のこと言ってますよね」
文本は目をぱちくりさせて、こめかみを押さえながら返してきた。
「ああ。だってあいつ、いつも無表情だろ」
「言うほどそんなこともないと思いますけど……」
「人の数だけ真実が存在するということだよ、三田村君」
「は、はぁ……?」
「詩音、いいよ。まともに相手するだけ無駄だよ」
そうだね、と小さく同意したのは、はっきりと聞こえてきた。こいつらの中で、俺はよっぽどろくでもない奴認定されているらしい。全く嘆かわしいことだ。妹が何かを吹きこんだに違いない。それ以外、俺に思い当たる節は無かった。
自然とそのまま会話は途切れてしまった。黙々と部室を目指す。久々に解放されている図書館の扉が目に入った。
「ご苦労様。――あら、二人と一緒になったの。こんにちは、文本さん、三田村さん」
五十鈴は壁に背をもたれて待っていた。スマホをポチポチと弄りながら。こんな短時間でも執筆活動とは恐れ入った。
「お疲れ様です、美桜先輩」
「お疲れ様です」
一年生二人の対応はさっきとは違うように見えた。
釈然としないながらも、三田村から鍵を受け取って部室の扉を開け放った。ずっと閉じられていたせいか、室内の空気はかなりムワッとしていた。それがいきなり顔に襲い掛かってきて凄い萎える。
堪らず、大股で部屋の中を横切って窓を一気に開けた。爽やかな風が流れ込んできて、気持ちがいい。外はよく晴れ渡っていた。
「なんかひさびさ~」
「ずっと部活なかったもんね」
一年生がはしゃぐ声が聞こえてくる。しかし、副部長の声は聞こえてこない。振り返ると、彼女はいつものソファにひっそりと座って佇んでいた
「それで美桜先輩、今日の部会はどうするんです?」
「五時には終わるらしいから、それまでのんびり待ちましょう」
「はーい」
威勢よく返事をすると、文本は戸棚に近づいた。飲み物を用意するつもりらしい、道具をテキパキと取り出している。
「手伝うか?」
「いいですよ。こういうのはしたっぱの仕事ですから」
「文芸部での年目、でいったら俺たち同じ立場だけどな」
「わかってますけど、気持ちだけ受け取っときます。いこ、詩音」
「うん」
「じゃ、行ってきます」
「ありがとう、よろしくね」
静かな部屋の中に、五十鈴と二人取り残されてしまった。とりあえずソファに腰を下ろした。五十鈴の正面に座るのは気が引けたので、その左の位置にあるソファに。
やや気まずさを感じながら、ぐるりと部屋の中を見渡す。部会が始まるまで一時間以上あるとなると、果たしてどう時間を潰そうか。そう考えていると――
「根津君」
「……なんだ?」
いきなり呼びかけられて少しびっくりした。
「お菓子とって」
マイペースだな、こいつ。やれやれと思いながらも、俺はゆっくりと腰を上げた。
*
のんびりとした時間が部室の中には流れていた。言葉を発する者はなく、外からの音がやけに大きく聞こえてくるほどにだった。
一人を除いて、俺たちは読書に勤しんでいた。俺と三田村は持参した文庫本を。文本は昨日決まった読み聞かせ用の本――昨日、三井先輩から連絡が回ってきたらしい――の内の一冊を。
そして唯一の例外である五十鈴さんは、いつもと同じようにスマホに一生懸命文字を打ち込んでいる。フリック操作は激早で迷いがない。ずっと画面を見ていて目が疲れないのかと、少しだけ気になった。
さすがにずっと読んでいると飽きてきた。ようやく話の切れ間に達したので、俺は本を閉じた。テーブルにそっと載せて、代わりにチョコレート菓子に手を伸ばす。
座ったまま、ぐっと身体をほぐしていると――
「何読んでたの?」
隣から声を掛けられた。
「ん、ああ。これだよ」
俺はすっと文庫本を向こうに押しやった。
五十鈴は作業の手を止めると、その本を持ち上げた。ブックカバーを捲って表紙を確認する。
「この間の本はもう読み終わったの?」
「まあな」
「面白かった?」
「おう」
「……うわー、根津先輩、素っ気なさすぎ~」
「望海ちゃん、聞こえちゃうよ!」
「三田村、残念だがばっちりと聞こえてる」
正面の方を睨むと、ぺろりと舌を出して文本は肩を竦めた。三田村は居た堪れない表情で顔を背ける。
「それならよかった。紹介した甲斐があった」
「ああ、ありがとな。あれは結構楽しめたよ」
「
「まあ正直……」
すると、彼女はパラパラとページを手繰った。
「そうかもね。人を選ぶ内容だから。根津君には合わないかも」
「読んだことあるのか?」
「まあね。――よかったら、他のオススメ紹介しようか?」
「うーん、まあ、一応聞いてみっかな」
五十鈴はこくりと頷くと、つらつらと本のタイトルとあらすじを述べ始めた。口調は淀みなく抑揚はあまりないが、その顔はどこか高揚しているように見えた。
俺は時には検索をしながら、彼女の話をじっと聞いた。普段は全くそんなところはないのに、こいつは本のことになると能弁になる。よほど本が好きということか。それは今までの付き合いの中で、よくわかっていたことだった。夢中になれるものがある、少しだけ羨ましいと思った。
「――という風に動機に主眼を置いたものなの。所謂、ホワイダニット。鋭く複雑な人間関係が描写されていて、普通のミステリとは違った面白さがあると思う」
語り続ける横顔は、どこまでも純粋に見えた。
「へー、確かにそれはおもしろそー」
いつの間にか、文本たちも話に加わっていた。
「あ、わたし、読んだことあります。確かに斬新でした」
「そうでしょう?」
五十鈴は嬉しそうにほほ笑んだ。
すると、突然文本が俺の方に顔を向けた。揶揄うような笑みが、そこにはばっちりと浮かんでいる。
「ねっ、全然鉄仮面なんかじゃないですか、根津先輩」
「バカッ、お前、余計なことを――」
「テッカメン……? どういうことかな、根津君」
ご丁寧なことに、奴は身体ごとこちらの方を向いた。
「どうして俺に。言い出したのは、文本だぜ」
「後輩のせいにするとか、最低ですね」
完全にさっきまでの静けさは吹き飛んでいた。部室はすっかりといつもの賑やかさを取り戻していた。いつも一番騒がしい三年生がいないにもかかわらず。
ガチャリ。がやがやと騒いでいると、やがて扉が開いた。人影が颯爽と、中に飛び込んでくる。
「おーおー、キミたち。ずいぶんと、まあ楽しそうだねぇ。まったく近頃の若いもんは」
「美紅ちゃん、それは何キャラなの?」
「気難しい事務所所長役」
「全く以て意味不明だ……」
呆れながら静香先輩は首を振った。
模試を終えたらしい待ち人たちが、ようやく部室にやってきた。二人はのろのろと唯一空いているソファに座る、美紅先輩は長いため息をついた。かなりお疲れらしい。
そのまま、雑談もとい部長の愚痴が始まった。テストの後にテストとは何事か! マトリョーシカもびっくりだ、と訳の分からないことをのたまう。とにかく、かなりくたびれているご様子。
「まあまあそれくらいにして。――では、部長。今回のテーマを」
「ん、そだね。今日はねぇ、文化祭に出す部誌の話」
気分を引き締める会計とは対照的に、部長の雰囲気はは緩んだままだった。
「えー、まだ六月ですよー?」
薫風高校の文化祭は九月下旬に行われるから、まだ早いと文本は言いたいんだろう。それは俺も同意だ。三田村もちょっと小難しそうな顔をしている。
「もちろん、わかってる。でもねぇ、ぼちぼち考え始めないと、なかなか何かを書くのは難しいと思うよ?」
「……うっ、確かに」
たちまちに彼女は言葉に詰まってしまった。俺も軽く想像してみるが、自分が文学と呼べるものを書ける自信がない。そもそも――
「何書いてもいいんですか?」
「うん。小説でも、エッセイでも、詩でも、書評でも、文芸というジャンルに入るものは何でも」
「詳しいことは昔の部誌を見ればいいと思うよ。ほら、その棚に入っているから」
静香先輩が戸棚の上の部分を指さした。すかさず、三田村が腰をすくっと上げる。棚に近づくと、中をごそごそと探り始めた。
そのまま冊子を何冊か重ねて、テーブルの上に置いた。
「ありがとね、詩音ちゃん」
「いえ。でも去年のものが見当たらなくて……」
「あれま、おかしーなぁ。絶対あるはずだけど。――二人は知らない?」
部長が問いかけると、先輩部員たちは即座に首を振った。
「ま、いっか。図書室にもあるし、あたしたちも持ってるから言ってくれれば貸すよ?」
「いや、よくないから。後でちゃんと探さないと」
「えー、めんどいなー。――ま、ともかく。ぼちぼち考え始めておくれってことさ」
部長は無理矢理に結論付けた。話は終わりだという風に、ひらひらと手を振って、どこか不真面目な笑顔を浮かべる。
内容については納得がいったが、俺にはちょっと気にかかることがあった。沈黙が広がる部室の中、やや躊躇いがちに手を挙げる。
「……美紅先輩、一ついいですか?」
「おうよ」
「それだけのことなら、五十鈴に伝言を頼めば――」
「……みんなにも理不尽に居残りをさせられるのを味わってもらおうと思ってね」
「ホント、ろくでもないね、美紅ちゃん……」
室内がとんでもなく残念な空気に包まれた。やっぱりこの人はレベルが違う。呆れるような、感心する様な、複雑な気分で俺は過去の部誌に手を伸ばした。
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