第49話 そして日常がやってくる……?

 雨が激しく叩きつける音がベランダから聞こえてくる。レースのカーテンの隙間から見える空はすっかり灰色だった。しかもかなり黒っぽい。

 ただし、テレビの中では青空が広がっていた。昨日までは向こうがどしゃ降りだったのに。雨をもたらした前線は遅れて、俺たちの住む地域にやってきたということらしい。テレビで聞きかじっただけだから、正しいかどうかはわからない。


 テスト最終日にも関わらず、全くもって気が滅入る。すっきりと晴れわたって、学生たちを祝福してくれてもいいのに。恨みがましく、俺は天を強く睨みつけていた。


「おにーちゃーん! 遅れちゃうよ~」


 玄関から甲高い女の声が聞こえてきた。間髪入れずに、バタバタと廊下をかける音がする。廊下から、瑠璃が顔を突き出してきたのはすぐのことだった。


「いつまで待たせんのよっ!」

「変だな。待たされてるのは、俺のはずだったのに」

「……気づいてなかったの?」


 妹は目を見開くと、ぱちぱちと小刻みに瞼を開閉した。ぽかんと開いた口元から、程なくしてため息も漏れた。どうやら、この女は兄貴おれに対して心底呆れているらしい。

 もちろん、こいつが部屋を飛び出してきた時の騒音は聞こえていた。ただ、腰を上げるのがめんどくさかったのだ。ひとえに天気のせい。雨は嫌いだ、大嫌い。


 そもそも、別に先に行けばいいと思う。一緒に学校行こうなんて、こちらから頼んだわけじゃない。朝飯を食ってたら、『何時にでる、お兄ちゃん?』と向こうがさも当然のように言ってきた。

 しかし優しい兄である俺は、その誘いを受け入れた。朝食の後片付けをして、ただじっとその準備ができるのをここで待っていた。……まさか、一限があるからといって、姉貴の方が早く家を出るとは思ってはいなかったが。


「ほら、早くしないと! 試験最終日なのに、遅刻する気?」

「そーだなー」

「……それともサボり?」

「そーだなー」

「ちょっと、聞いてんのっ!」


 ……怒鳴られた。二言目くらいから、イライラしてたのはわかってはいたけど。瑠璃ちゃんは沸点が低いのだ、昔から。菫ちゃんそっくりなのである。


 それ以上ダラダラしていると、本当に命の危機を感じたので、俺は重い腰を上げた。そのまま妹と一緒に家を出た。


「鍵、かけたか?」

「……それ、ふつーもっと前に訊くよね。――もちろん、かけましたとも」


 バスターミナルまでの道中を半分ほど過ぎたところだった。妹の目は一瞬細まったが、すぐに普通に戻って彼女は少しだけ胸を張った。

 雨の中の移動というのは心底しんどい。傘は邪魔、時折、隣の小娘のものと擦れるのも鬱陶しい。久々に袖を通した学ランの肩口も、すっかり濡れてしまっている。どんなに気を付けても、水跳ねで裾が汚れることは防げないし。


「いつまでウジウジ言ってんの。男らしくないなぁ」

「雨を喜んで受け入れるのが男なのか……」

「みみっちいなぁ、お兄ちゃんは」

 けったいな言葉を吐きながら、妹は首を振った。

「文句言っても仕方ないじゃん。雨が止むわけでもなし。我慢しなさい、浩介君!」

 えっへんと、偉そうにしながら彼女は無邪気な笑みを浮かべた。


「大人でございますねぇ、ルリルリは」

「……なにそれ。すっごいキモイんだけど。おねえちゃんに言うよ?」

「大人になった代わりにかわいげは無くなった、っと」

「めちゃくちゃムカつくんですけど!」

 間もなくして、俺たちはどちらともなく笑みをこぼした。


 バスターミナルの中はとても混んでいた。色々な高校の制服が動き回っている。まるで見本市だな、うんざりしながら人波をかき分けていく。

 俺たちが使う路線の乗り場には、すでになかなかの行列ができていた。とても座れそうにない。こういうのもまた、雨の日のマイナスポイントなんだよなぁ。


 俺たちはその最後尾に並んだ。すぐにまた列に人が増えるのがわかった。


「ねぇねぇ、五十鈴先輩、いるかな?」

 後ろから瑠璃の声がする。

「なんであいつの名前が出てくんだ……」

「さぁ、なんででしょう?」

 彼女の、くすくすという笑い声が聞こえてきた。


 そして妹は身体を回り込ませて、上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。ウザいな、こいつ。それを左手でシッシと追い払った。彼女は一瞬怒ったような顔をして、そっぽを向いた。

 俺はまた前方に視線を戻す。バスターミナル内の例に漏れず、学生の姿が多い。この沿線には、四つ程高校があった。ちらほらとうちの制服も目に入った。だが、その中に――


「あいつはこんなに早くねーよ」


 吐き捨てるように、瑠璃に言葉を返した。そして、鼻を鳴らす。何で、あいつを探そうとしたんだか、俺は。見つかるはずないのに、そもそもどうでもいいことなのに。


「へぇよくご存じで」

 またしても、瑠璃はまた俺の顔を覗き込んできた。

「そんなニヤニヤするな! ――テストの座席、隣なんだよ。だから、なんとなく知ってただけだ」

「ふうん。、ねぇ」


 とても意味ありげな言い方だったが、それ以上向こうからつっこんでくることはなかった。俺も藪蛇を警戒して黙り込む。


 バスの中も、ぎゅうぎゅう詰め状態だった。案の定、座ることなど不可能で、俺と瑠璃は並んで立った。窓にはすごい勢いで水滴が増えていく。じめじめとして、空気が重い。それでも、心なしか妹の横顔は楽しげに見えた。

 我が妹のことながら、全くその心情が理解できない。他に誰も知り合いが乗っていないこのバスが早く目的地に着くのを、俺はただじっと強く願うのだった。





        *





 帰りのホームルームの終わりが、一日の退屈な学生生活の終わりを意味する。今日はそれだけではない。四日間にわたって行われた前期中間テストが終了したことも告げた。クラスメイトたちは狂喜乱舞、室内に響く歓声は勢いを増して――


「なにわけわかんないこと言ってんだ、お前……」

「文芸部ごっこだ」

「ごっこって、実際文芸部だろうが」

 卓は顔を顰めて首を横に振った。


「だって、普通は今日から部活動あるんだろ?」

「だっての使い方おかしくないか。話が全く頭に入ってこない」


 今日は木曜日だ。テストが終わっても、文芸部の活動はない。しかしこいつを筆頭に、俺の知り合いには抑圧された部活欲が解放されて盛り上がっている奴が多い。だから、俺もなんとなくそういうことをしたくなった。

 みたいなことを改めてこの友人に話したら、「やっぱり意味わからん」と一言呆れたようにあしらわれたけども。


「まああれだ。早く帰れてうれしーってやつさ。テストからも解放されたしな」

「つまり、テンションがおかしくなってると」

「そうともいう。あー、今から家に帰るのが楽しみだぜ!」


 最終日は三時間授業だ。この分だと、昼前には余裕を持って帰れる。……相変わらず、雨はザーザーと降っているみたいだけど。

 それでも今週は掃除当番だから、このまますぐにとはいかない。ひとまず鞄を掴み上げて、机を下げようとした。しかし、それはなぜか動かなかった。


「おい、なんだよ?」


 左隣の席の女子による妨害に遭った。ため息をつきながら顔を向けると、澄ました表情の五十鈴美桜の顔がそこにあった。彼女の細い脚がしっかりと、机の脚のところに差し込まれている。


「キミ、今日のこと忘れてない?」

「はい?」

「……おいおい、根津さんよぉ。五十鈴と一体何の約束をしたっていうんだ!」

 盗み聞きしていたらしい卓が勢いよく噛みついてきた。


 そんな疑るような視線を向けられても、俺としては全く心当たりはない。それどころか、五十鈴と会話をしたのすら、ずいぶんと久しぶりだ。先週、毎日放課後勉強をしていてずっと同じ教室にいたのに、ついにはこいつが何か訊いてくることはなかった。もちろん、俺の方に五十鈴に対する用はない。


「いや、知らん。たぶんこいつは別の根津浩介と勘違いしてるんだ」

「……お前みたいなやつ、そう何人もいねーよ」

「あの、そうじゃなくて。――読み聞かせのこと、すっかり忘れてるみたいね」

 言いあっていたら、ぴしゃりと奴が会話を遮った。


 言われてすぐに思い出した。この間の会議の続きが今日行われることは、何日か前に連絡が来ていた。まあ、今の今まですっかり忘れていたけれども。


「頼む! 見逃してくれ!」

 俺はすかさず、彼女の顔を拝みこむ。

「なにか用事でもあるの?」

「いや、このまま忘れていたことにしたい。だってさぁ、帰る気満々だったから。やる気なんてねーよ」


 すると、五十鈴は制服のポケットからスマホを取り出した。そのまま物言わず、能面のような顔で巧みにスマホを操作する。

 ……その手の動きに、何かよくないもの感じた。ちらりと見えた画面には、メッセージアプリのトークルームが映っていた。


「あの、五十鈴さん。何をしているんでしょうか」

「綾香先輩に報告しようと思って。根津君、サボりだって」

「ボク、図書委員会、ダイスキ!」

 五十鈴はこちらを一瞥すると、スマホをしまった。

「お前って、基本的に五十鈴に弱いよな」

「根津君たち、教室掃除よね。ちゃんと終わるの待ってるから」

 平然とした顔で言い放つと、彼女は廊下に出て行った。


 その姿をぼんやりと見送って、行動を開始する。パパっと机を下げて、掃除用具箱に近づいた。楽しい気分は、跡形もなく吹き飛んでいた。


 班のやつと適当に話しながら、だらだらと清掃を行う。この教室掃除が一番かったるいと思う。特殊教室なら、少なくとも机を動かすという重労働はない。


 とても面倒だった仕事を終えて、俺は卓と一緒に教室を出た。最後のチャイムが鳴ってからしばらく経つからか、廊下にいる生徒の姿は疎ら。ぱっぱと視線を巡らせるが、あの目立つ長髪を持つ同級生の姿はない。


「いないな、五十鈴」

「これは逃げろということかも」

「馬鹿言ってんなよ。――じゃ、俺先行くからな」

 あっけなく友人は去ってしまった。


 一人ぽつりと残されて、俺は教室掲示板の前に移動した。ゆっくりとそれに背中を預ける。もう少し待ってみることにした。……おかしいな、朝からこんなのばっかりだ。

 そんな風に呆れていたら――


「根津君!」

「――っと、深町か。何か用か?」


 右手の方から、クラスメイトの女子が一人近づいてきた。それは目的の人物よりも、背の高い少女。あいつとは対照的に、その髪はやや短め。顔のつくりもやっぱり正反対。


「あのですね、根津君のおかげで今回のテストは手応えがあって、それで、そのお礼を」

 彼女はどぎまぎしながら言葉を紡ぐ。

「大したことしたわけじゃないから、それは言い過ぎだと思うけど。まっ、役に立ったなら何よりだ」

「そんなことないです! 根津君の教えがあったから――」

「いいって、いいって。そんなに言われると、恥ずかしくなるから」


 俺は笑顔でその話を遮った。ちょっとだけ、微笑ましく思っていた。

 深町は物腰がいつも柔らかい。結構話すようになったのに、未だに敬語を交えて話してくる。そして、一生懸命な風に話してくる特徴があった。


「そんなことより、部活はいいのか? お前、この間の地区大会、突破したんだろ? だったら、大事な時期じゃないか」

 すると深町は、本当に嬉しそうにに首を縦に振った。目がぐっと開いて、その胸が多少隆起した。

「はい、大会来週末だから、頑張らないと!」

「ああ、応援してるよ」


 ひらひらと、俺は手を振った。話は終わったつもりだった。しかし深町は、なかなかその場を離れようとしない。なにかを逡巡するように、手をこねてちょっと下唇を噛んでいた。


「まだなにか?」

「……根津君に見に来て欲しいなって」

「えっ?」

「今回はうちの市でやるんです。会場も、ほらいつものところで」

「そうなのか」


 それは気の毒というか、何というか。去年の新人戦の時は別の市だったから、ちょっとした旅行気分だったことを俺は思い出した。

 それはともかく。この誘いに対して、果たしてなんと答えたものか。地区大会の時は、カイトから文面で誘われたから、まだ断りやすかったが。しかしこう面と向かってとなると……。


 深町は、控えめだがどこか期待のこもった視線を向けてきている。これを無下にするのは、なかなか難しいように思えた。その顔がだいぶ赤いのは、それなりに勇気を振り絞ったのかもしれない。

 どう返したものか、ちょっと悩んでいると――


「根津君、委員会」

 とても冷めきった声が突然やってきた。


 深町はびくっと身体を震わせる。俺もかなり驚いた。ぎこちなく首を動かす。いつのまにか、五十鈴が近くにやってきていた。その顔はいつも通り表情に乏しい。


「そうだな。そろそろ行かないと、だな。――ごめん、深町。この話はまた今度で」

 俺は顔の前で手を合わせた。

「は、はい。わたしの方こそ、根津君に用事があったみたいなのにごめんなさい」

「いや、気にしないでくれ。――部活、頑張れよ」


 それで、深町がようやく動き出した。深々と俺と五十鈴に向かって頭を下げると、「さようなら」と言ってその場を後にする。どこか小走り気味だったのは、いよいよ部活に遅刻しそうだからだろう。


「何してたの?」

 その姿が完全に消えると、五十鈴が話しかけてきた。

「それはこっちのセリフだ。待ってる、とか言ってたじゃないか」

「掃除が長引いて……。それと、先輩に捕まった」

「ふうん」

「弓道の大会、今度あるんだってね」

「……どこから聞いてたんだよ」


 その問いに、彼女からの解答はなかった。俺の顔をじっと見てくると、そのままくるりと踵を返した。


「行きましょ。遅刻しちゃう」


 そのまま五十鈴は歩き出した。堂々と、しっかり背筋を伸ばして廊下を進んでいく。何度も見てきた、凛とした姿がそこにあった。

 だが、俺はその後ろ姿にどこか引っかかるものを感じていた。それが何なのかはよくわからない。でも久しぶりにこいつと話したから、ただしっくりこなかっただけだろう。歩きながらじっとその背中を見ているうちに、そんな風に思い直した。

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