第48話 学校生活は恙なく

 授業終わりの号令が終わって着席するなり、俺はぐーっと身体を伸ばした。横目に、ぼんやりとクラスメイトや、日本史教師の動きを追う。教室の中はすぐに騒がしくなった。

 一週間の内で一番辛いのが、この水曜日だといえた。七時間授業のうえに、二時間体育まである。しかもこの時期は陸上競技だ。今日は無意味に走らされた。正直いって、身体はかなり疲れている。


「相変わらず辛気臭そうな顔してるわねぇ」

「そうおっしゃる若瀬さんはいつも元気いっぱいですね~」

「なによ。元気なのはいいことじゃない」

 若瀬は馬鹿にするように、ふふんと鼻を鳴らした。


 そのすぐ後ろには青葉もいた。二人とも、両手でしっかりと授業道具を手にしている。六時間目は、日本史と地理の時間なのだ。その地理の授業は別の教室で行われる。こいつらはそこから戻ってきた、というわけだった。あとこのクラスには、生物地学の授業もある。それもまた、地学選択側は教室移動だ。


 俺は誤魔化すように、机の中から文庫本を取り出した。五十鈴に教えてもらったあの小説はこの間の日曜日に読み終わった。今は同じ作者の推理小説ではない別作品を読んでいる。手持無沙汰にしているところを運悪く、姉貴に見つかって押し付けられたのだ。

 しかし、あの女には悪いが、正直好みではなかった。だからページの進みは遅い。それでも朝読書と、こうした居心地の悪い休み時間を潰すのには支障はなかった。


 俺としては、もっと謎が散りばめられた小説を読みたかった。数々の伏線が次第に明らかになっていく。どんでん返しがある作品の方が好きだ。

 だから五十鈴に紹介してもらった時に、あの小説に興味を持った。実際、あれはとても満足のいくものだった。同じ作者なら、と少しは期待したんだけど。ろくすっぽ姉貴に話を聞かずに借り受けたのが、よくなかったらしい。


「あんたも変わったわね。そんなに読書、好きだったっけ?」

「やることがねーんだから、仕方ないだろ?」

 俺はわざとらしく、周囲をぐるりと見まわしてみた。

「四面楚歌ならぬ、四面女子。周りから聞こえてくるのは、可愛い女の子たちの賑やかな話し声だけさ」

 両手を広げて、俺は肩を竦めた。

「……かっこつけてるみたいだけど、最高にダサいからね」

 うんうん、と俺の斜め前の席の青葉も頷いている。


「でもスラスラとそんな四字熟語が出てくる辺り、根津君ってやっぱり頭いいんだ!」

「そうか? ただ知ってただけだ。ま、記憶力には自信あるけど」

「人の顔覚えられないのに?」

「そうそう――って、やかましいわっ!」

 俺は古くからの知り合いを睨んだ。


「へ~、そうなんだぁ。――ねぇ、ミナのことわかる?」

 若瀬の友人は驚いた顔をしながら、自らを指さした。

「青葉……名前は、だろ」

「わっ、すごい、名前までばっちり!」

 ……とても馬鹿にされている気がした。


 その後もそんな風に二人と雑談を交わした。結局、これが最近の休み時間の過ごし方なのだ。一人隔離された男子を哀れに思ったのか、若瀬がよく構ってくる。


 やがて、七時間目を担当する教員が入ってきた。矢島薫子……次の時間はLHRロングホームルームだった。


「えーと、今日はですねぇ」

 矢島先生はのんびりとした様子で、手帳を捲る。

「球技大会の種目決めをするんですって」

 ……他人事じみた言い方である。


 間もなく司会が体育委員に代わった。卓と名の知れぬ女子。髪が短くはきはきとして、見るからに体育会系感がある。

 卓の方が二か月後にある球技大会について説明をし始めた。といっても、俺たちは二年目ということもあり、その説明はかなり簡易なものだったが。実施日は二日間。それが終われば、次の日は終業式ということになっている。淀みなく話す友人の姿を、俺はくすぐったい思いで眺めてた。


 種目はソフトボール、バレー。女子はこれに加えテニス。本当はサッカーという選択肢もあったが、人数的に不可能になった。システムの欠陥だ、とか卓が喚いていたが、誰も相手にしなかった。

 そして教壇に立つ男女が、挙手制でクラスメイトに参加種目を聞いていく。俺はソフトボールにした。去年もそうしたし、少年野球をカジっていたのでバレーよりはましだという理由もある。


 そして――


「あれ、一人足りないな」


 集計し終えた女子委員が困ったように眉をひそめた。自らの頬を、ぺちぺちと軽く叩いている。その指は手元のメモ用紙をなぞっていた。


「あっ、五十鈴さんがいない。――どした?」

 その顔が容疑者の方に向いた。責めるようなところは無かった。

「……ごめんなさい。どれにしようか、迷っていて」

 彼女は申し訳なさそうに、かぶりを振った。


 シンキングタイムは十分にあったと思うが……。そんなに彼女にとっては三種目が魅力的だということか。それで悩む……くそ真面目なあいつらしい。

 ちょっとざわつく教室内。前の席の女子もこちらを振り返ってきた。こいつもソフトボールを選んでたな、と余計なことが脳裏に浮かんだ。


「美桜ちゃん、どうしたんだろうね」

「俺が知るかよ」

 すげなく答えると、若瀬はムッとした顔をした。

「仲いいんじゃないの? 好きなスポーツとか知らないの?」

「……お前は俺の好きなスポーツ知ってるか?」

「知らないわよ、そんなの。興味ないし、仲良くないし」

「そういうこった」

 俺の言葉に、彼女は意外そうな顔をした。


 すこしの間逡巡する様子を見せた五十鈴だったが、最終的にソフトボールにすることに決めた。その前に、一瞬こちらの方を見た気がしたが、きっと若瀬の様子を窺ったんだろう。昨日一昨日と、放課後勉強してるから、その仲が深まっているのかもしれない。


 最終確認を終えて、体育委員たちは満足そうに自分の席に戻った。もう一度、担任が教壇に現れた。しかしすぐに、クラスTシャツを決めるとかで、別の女子たちが出張ってきた。

 せっかく早く終わって、自習時間になると思ったのに。期待を打ち砕かれて、俺はややうんざりした。窓の外を眺めると、よく晴れた風景が広がっていた。





        *





 黙々とペンを走らせる。ひょんなことから始まった放課後勉強会だったが、それなりに捗るものだ、とちょっと気分が乗っていた。

 ――だったのだが。


「わからん。あんなの運ゲーだ」

「頼むよ! そこをなんとか!」

 裕太は立ち上がって、ほぼ直角に腰を折った。


 彼の質問はこうだ――現代文で赤点を回避するにはどうすればいいか。ワークやプリントの改変が多い理数科目や、暗記すれば何とかなる英語社会科目と違って、あれだけは本当に対策が立てづらいと思う。同じ国語枠である古典は、英語と性質が似ているから取っ組み易いというのに。

 実際、俺自身、一番苦手とする科目だった。今まで、唯一九割をとったことがない科目。それどころか、一度も手ごたえすら感じたことがない。筆者の主張も、登場人物の心情も、俺にはよくわからないことばかりだ。


「こういう時こそ、五十鈴に訊いてみたらいいだろ。あいつ、文芸部だし、得意そうだ」

「……いや、浩介君も文芸部だよね」

「晴樹、こいつが真面目に文芸部している想像がつくか?」

 卓に尋ねられて、彼はぶんぶんと首を振った。


「……そういうことだ。ほら、ちょうど暇してるみたいだし。話しかけるいいチャンスだろ」

「確かに! その発想はなかった! ちょっと行ってくるわ」


 顔をキラキラと輝かせて、裕太は五十鈴の方に突撃していった。彼女、というか若瀬のグループは、今日も変わらず窓側の方にいる。


 喧しい奴がいなくなって、俺はまた自分の勉強に戻る。今はコミュニケーション英語の教科書本文の和訳に挑戦していた。修なんかは、英文含めて暗記してしまうそうだが、さすがに俺にはそんなことできない。こうして、自分がなにも見ずに訳出できるようにすることだけで手いっぱいだ。


「あの、根津君、いいですか?」

 再開してすぐに、女子に話しかけられた。

「おう。――また数学か」

 その相手――深町の手元を一瞥して、俺は頬を緩めた。


 彼女は俺の斜め後ろの席に座っていた。昨日から、彼女とその友人たちは俺たちのグループの近くで勉強するようになっていた。向こうから、わざわざ『いいですか?』と許可を求めてきた。

 

「ごめんなさい、わたし、本当に数学苦手で」

「いや、文句言ってるわけじゃないから。女子って、数学苦手なのかな~って」

「どういう意味です?」

 彼女は不思議そうに首を傾げた。


「五十鈴も苦手だからさ」

「へぇ、五十鈴さんも……」

 その顔が一瞬強張った。

「悪い、偏見だったな」

「そうだぜ、浩介。男女差別ってやつだ」


 冷やかすような声が、卓から飛んできた。見ると、奴はからかうような笑顔を浮かべている。とりあえず、鼻を鳴らして非難の意志を表明した。


 気を取り直して、深町の方に向きなおす。それはちょっと面倒くさい証明問題だった。それでも何回かやったものなので、解説に手間取ることはない。


「ありがとうございます! よくわかりました」

「それならよかった。――っと、お帰りなさいませ、ユータサン」


 イスズマニアが戻ってきたのが横目にわかった。深町に「またなにかあれば」と断って、彼の方に身体を向ける。その顔はどこか上気しているように見えた。


「どうだった?」

「よくわからないって」

「……あいつらしいな」

 素っ気なく答える姿が、簡単に脳裏に浮かんだ。


「それでも、いくつかアドバイスをしてはくれたんだ。一生懸命って感じで、いやぁあれはいいものだった」

「へいへい、そうですか」

 裕太は一人、興奮している。こういうやつを犯罪者予備軍というのかもしれない。

「時々さ、ちょっとよそ見したりして、それがまたなんとも可愛くて――」

「卓、最寄りの交番にこいつ、連れてった方がいいぞ」

「なんで俺が……」

「仲良しなんだろ?」

 この二人が中学からの付き合いだということを知ったのは昨日だった。


 卓はげんなりした顔で首を振った。机上にあった薄い冊子を丸めると、それで友人の頭を軽く叩いた。機械が壊れるように、一瞬にして裕太の話は止まった。

 だが、叩かれた方はすぐに怒った顔をする。そのまま、恒例のじゃれ合いが始まった。とりあえず与太話がしなくなったことに、俺は心底安堵していた。


「あの、根津君。またなんですけど……」

「あいよ。――晴樹、適当なところで止めてやってくれ」

 俺は卓たちに向かって、顎をしゃくった。

「りょうかーい。あ、そうだ。僕も一つ訊きたいことがあって、深町さんの終わった後で、いい?」

「もち」


 俺はまたぐるりと身体を回した。偶然、窓側の方が目に入った。五十鈴がこちら側の方を、ボーっと眺めているのがわかった。

 なんだあいつ? 気にはなったものの、すぐに深町から急かされて、そんな気がかりはすぐに消え去ってしまった。

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