第46話 先行きは不透明
僅か一日だけの休みも終わり、月曜日がやってきた。その昼休みの教室はいつもよりも騒がしく感じた。実際、普段よりも人口密度が高い。なぜなら体育館の利用を制限されたからだ。必然的に、いつもバスケに興じる体力自慢たちはこの場所に軟禁されることになる。定期テスト一週間前はこのように、俺たち学生に対して色々な規制を強いてくる。
「五時間目ってなんだ?」
「古典だろ。あそこに貼ってあんだからそれくらい見ろって」
卓が顔を
「じゃあ内職はできそうにねえなぁ」
心底残念そうに、質問者はため息をついた。
古典の担当教員は、本格派といえる強面の厳格な中年オヤジだった。少しの居眠りすら許さない。いつも目を光らせている。この間も誰か怒られていたのを思い出した。早弁がバレたのだ。
「内職って……押元君、何するつもりだったの?」
「そりゃ決まってるだろ。テスト勉強だ」
「家でやれよ」
俺は呆れて首を振った。
「……まさか根津からその言葉が出るとはな」
「どういう意味だよ!? それと、そこの二人も意外そうな顔をするな」
昼食を共にする三人は、全員もれなく目を見開いていた。
「もしかして、浩介ってテスト勉強はちゃんとする系なのか? だから、この間の実力テストの結果もよかったのか」
「そんなこともないけどな。人並みにやってるだけだ」
「うわー、お前が言うと違和感が半端ねぇな……」
げんなりした顔でかぶりを振ったのは押元だったが、残る二人もその驚きを顔でしっかりと表現している。目を白黒させたり、口をあんぐりと開けたり。
本当に失礼だな……。俺を何だと思っているのか。そんな苦い思いを俺は飲み込んだ。こういう反応は、今に限った話ではない。俺がちゃんと勉強していると知ると、大抵の人間は似たようなリアクションをする。
「てっきり、お前もこちら側だと思ったのにな」
「なんだよ、こちら側って……」
「勉強苦手組だ」
押元はにかッと笑うと、隣にいる卓の肩に腕を回した。
「おい、俺を入れるなよ!」
「でも実際そうじゃねえか」
自称勉強苦手組は揉めていた。彼らもまた一枚岩ではないらしい。押元の程度は知らないが、少なくともこのサッカー部は勉強が得意ではないことを俺は知っている。
俺は晴樹と顔を合わせて、しかめっ面を作った。彼はその眼鏡という風貌に見合って、よく勉強ができるらしかった。
「ったく、お前ら二人とも余裕かましやがって」
「そんなつもりはねーよ。被害妄想だ」
俺は手の甲で払う仕草をした。
とまあそんな風に、来週に迫ったテストについてあれやこれやと話していると――
「おい、バカ。ちょっといい?」
耳障りな甲高い女の声が耳をついた。
話を止めて、そちらの方にいやいや顔を向ける。聞き覚えのあるその声の持ち主は、予想通りクラスメイトの若瀬沙穂だった。くるくるしたそのショートヘアは相変わらず鬱陶しい。
彼女は俺の背後に立っていた。悪いな、と卓たちに声をかけてから、今度は身体ごと振り返る。
「素晴らしい礼儀の良さだな。人のことをいきなりバカ呼ばわりとは」
「反応するってことは自覚はあるんでしょ。だったらいいじゃない。――それで本題なんだけど」
腐れ縁の少女はけらけらと笑いながら話を続ける。
「五十鈴さん知らない?」
意外な名前がこの娘の口から飛び出て、俺は思わず目を丸くした。しげしげと、もう見飽きたともいえるクラスメイトの顔を眺める。その笑みは小憎らしく見えた。
「五十鈴美桜は文芸部の副部長で――」
「いや、そういうことじゃなくて。どこにいるか知らない?」
「最初からそう言えよ」
悪態をつきながら、俺はぐるりと教室の中を見回した。
あいつの席がどこだったかは覚えてないが、確かにその姿は見当たらない。あの特徴的な長い黒髪、そしていついかなる時も真直ぐに伸びた背筋、どこか周りから浮いたような雰囲気。あの女を示すシンボルはどこにもなかった。
「トイレでも行ってんじゃね?」
「ほんとうにアンタはデリカシーに欠けるわねぇ……」
この女は軽蔑するような顔を浮かべた。
「五十鈴さんって、たまにいない時あるじゃない? アンタなら知ってると思ったんだけど」
「昼休みが始まるなり、美桜ちゃんが教室出て行ったのを見たぜ?」
そこに押元が口を挟んできた。
「ああ、そしたら今日もかもしれないな」
俺はのっそりと腰を上げた。
席が離れてからというもの、あいつの動向にはめっきり注目しなくなっていた。だから確信はない。でも、俺が知る可能性はそれしかなかった。
仲間たちに断りを入れて、若瀬についてくるよう言った。奴は怪訝そうな顔をしながらも頷いた。
「で、五十鈴に何の用だ?」
「五十鈴さんって、めっちゃ勉強できるでしょ? だから、放課後一緒に勉強してくれないかなーって」
そして彼女は続けていくつかの名前を口にした。青葉くらいしかその顔は浮かばなかったが、他の連中も一応クラスメイトだということはわかった。
相変わらず、友達……というか知り合いが多い奴だな、こいつは。俺は感心していた。この裏表がなくて明るさが取り柄の少女は、男女問わず人気がある。
「いいのか、カレシとラブラブしなくて」
「だって友成、理系じゃん。そして、そういう気持ち悪いこと言わないでくれる?」
強めに睨まれたので、俺はもうこれ以上口を開く気は無くなった。こりゃなにかあったな、と察しがついた。今度、当事者のもう一方を煽ってみよう。
文芸部室がどこにあるか。若瀬もまた知らなかったらしい。その部屋の表示板が視界に入った時、彼女は驚いた顔をした。
部屋に近づいていくにつれて、喧騒が大きくなっていく。どうやらアタリだったらしい。部活停止期間中のくせに、部室は使えるのか……。おかしな話だなと思いながら、俺は部屋の扉を開けた。
「――あら、誰かと思えばこーすけ君じゃない。なに、お昼食べに来た?」
真っ先に声をかけてきたのは、美紅先輩だった。他の連中も全員揃っている。適当に挨拶を返しながら、唯一こちらに背を向けている髪の長い女子の姿を確認した。
「副部長に用があるんすよ」
「私?」
振り返った五十鈴の顔は、とても不思議そうだった。
「ところで、その人は誰?」
こいつもまた人の顔を覚えるのが苦手だということを、俺は瞬時に思い出した。
*
「お菓子どーぞ」
「あ、ありがとうございます」
「あとお茶も」
「あ、重ね重ねすみません」
ぺこりと若瀬は頭を下げた。
話が終わった頃を見計らって、先輩方がおもてなしをした。突然の来訪者だというのに、戸惑ったところは一つもない。そして二人はまた自分たちの席に戻った。
五十鈴の隣に座る部外者は、ほくほく顔で飲み食いしている。俺はそれを、一人でソファにかけながら見ていた。奴はどこにいても自分らしく振舞えるんだな、とその厚かましさにやや呆れていた。
部室内は、ほどほどに賑やかだった。俺と若瀬がやってきたことにより収まってしまった盛り上がりは、若瀬が本題に入る頃にはまた勢いを取り戻していた。
今も学年を飛び越えて騒ぎ合っている。たぶんこれがいつもの昼休みの光景なのだろう、と俺は思った。だからといって、じゃあ明日から来ようとは微塵にも考えないが。
「それでどう五十鈴さん。それとも、放課後もしかして予定ある?」
満面の笑みを浮かべながら、若瀬は部屋の中をぐるりと見まわした。
「いいえ、特にないわ。……うん、わかった。私も一緒に勉強する」
「ホント! ありがと~助かるよ~」
若瀬はぱっと相手の手を握った。すると、五十鈴はちょっとだけどぎまぎする素振りを見せた。目を見開いて、何度も目をぱちぱちさせている。
……この女が同学年と仲良くしているのを、俺は初めて見た気がする。なんとなく新鮮な気持ちになった。
「じゃ話はまとまったみたいだから、俺は教室戻るな」
特にこれ以上用はないし、俺はすっと立ち上がった。
「そういえば根津君は、放課後いるの?」
五十鈴がこちらを見上げてきた。
「ううん。こいつはいないよ。どうせ役に立たないから」
とても嫌みったらしい言い方だった。
「去年、誰かさんちで面倒見てもらってたのは、誰だった?」
「忘れた、そんな昔話」
ぷいっと、その
「でも数学のことなら、彼の方がいいわ。私、あんまり自信ないから」
「そーなの? なんか、意外。なんでもできると思ってた」
俺は話を聞きながら、雲行きの怪しさを感じた。
「じゃあ先輩方、そして後輩たち。失礼しま――」
「待ちなさい、あからさまに厄介を避けようとしな~い」
俺はその場を逃げ出そうとした。しかし回り込まれた。若瀬はどこか挑むような笑みを浮かべて立ち塞がっている。仁王立ちというやつだ。わざわざ腰に手を当ててまでいた。
ちっ、と俺は露骨に舌を鳴らした。顔を
「アンタ、どうせ暇っしょ」
「ずいぶんな言い方だな。だったら何か?」
「わかるくせに」
ふふんと、彼女はからかうように笑った。
「ねぇねぇ、若瀬さんってもしかして根津先輩の――」
「それ以上滅多なことを言うな、文本。ただの腐れ縁だ!」
「くされえん……?」
聞いたことのないような口ぶりで、彼女は繰り返した。
「な~んか、不思議と幼稚園からずっと一緒なのよねぇ」
若瀬は不愉快そうに眉根を寄せた。そして「それにアタシ、カレシいるから」と付け加えた。俺とは比べ物にならないほどかっこいい、と余計なことまで述べて。
それは、この好奇心旺盛な一年生を焚きつけるのに十分だった。早速彼女は、今日会ったばかりの二年生を質問攻めにする。三田村も
俺にとっては、思いがけぬチャンスだった。先の話を無かったことにするように、俺は手早く出口の扉に歩み寄る。
だが――
「……なんだよ」
腕を掴まれて振り返ったら、その犯人は五十鈴美桜だった。
「キミは結局、どうするの?」
「正直面倒だ。それに、散々お前に数学教えてやったじゃないか」
「でも人に教える自信はないもの」
「意外と謙虚なんだな」
「どういう意味?」
軽口のつもりだったが、どこか彼女の気に障ったらしい。ぐっと彼女は顔を近づけてきた。その身にまとう甘い香りが鼻元にまで漂ってきた。
「言ってみただけだ。他意はない。悪かった」
「別にそこまで怒ってないのだけれど」
しかし納得したように彼女が息を吐くのを、俺は見逃さなかった。
「ま、気が向いたら、残ってやるさ。――通してくれ」
それでようやく彼女はどいてくれた。最後はちょっと不満げに唇を尖らせていたが。そんな風に表情を変えるなんて、なんとなくこいつらしくないと思った。
未だ賑やかな部室を背にして俺は教室に戻る。昼休みだから、廊下もまた負けじと騒がしかった。一人で歩いていると、なんとなく気恥ずかしさを感じるのはどうしてだろうか。
「おかえり」
「何の話だったんだ?」
「勉強会をするんだと」
待ち構えていた仲間たちに、俺は手短にさっきあった出来事を伝えた。押元の食いつきようは、すさまじかった。
「じゃあ俺たちもやるしかねぇっ!」
「うるせーな、お前。近所迷惑だろうが……」
卓が大男の頭をはたいた。そして、周りに向かって会釈をする。すぐ近くにいた、女子二人組は微妙な顔をしていた。
ぼんやりと見てたら、そのうちの一人と目があってしまった。……すぐ逸らされたが。どこか見覚えがあるように思ったが、クラスメイトだし当たり前か、と自嘲気味に頭を掻いた。
「――おい、根津。聞いてんのか?」
「ああ。今日の夕食はカレーライスが良いって話だろ? 残念だが、うちでは土日にしか出ない」
「凄いね。よくそんなわけわからないこと言えるね。呆れを通り越して感心するよ、ぼく」
残念がるように、晴樹は首を振ってくれた。
「だから、お前も当然残ってくよなって」
「なぜそうなった……」
「だって頭いいんだろ?」
悪びれもせず、押元は言い放った。
その言葉に少しだけ頭を悩ませる。断る理由は思いつかなかった
つくづく思う。文芸部に入ってから――いや五十鈴と知り合いになってから、俺の学生生活はがらりと変わった気がする。それがいいのか、悪いのか、俺にはまだ判断がつかないけれど――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます