第45話 土曜日、彼はくたびれる
どうしてこうなったのだろうか。さっきから微妙な緊張感を覚えている。本を読む目が滑ること、滑ること。ほんと、俺って集中力がないらしい。……いや、動揺しいなだけか。自分のことながらげんなりする。
一度見つかってしまえば、もう他の場所を探すのはおかしな話だと思った。しかも、都合の悪いことにその隣の席は空いていた。
ふと、横を覗き見てみると、五十鈴美桜は、つんとした表情で黙々と手を動かし続けている。一心不乱に淀みなく。昨日も思ったが、ノートに並ぶ字はお手本のように奇麗だ。
その姿は、立派な優等生美少女だ。制服姿が、それをより際立たせている。男子連中からの評判の高さも頷ける。そんな奴の隣で、どうして俺は読書をしているのか。
いや、経緯は問題ではない。今こうしていること自体に問題がある。自分で言ってて悲しくなるが、この見た目だけ美人な同級生と俺は釣り合わない。その中身が、いかに残念だとしても、だ。そんなこと誰も知れない。
『いいよな、根津。毎日、美桜ちゃんと一緒できて』
『別に毎日ってわけじゃ……じゃあ、お前も文芸部入るか?』
『……いや、もうバドミントンやってるし』
『兼部って手はないのか?』
『ちっ、卓。余計なことを』
『誘ったの、浩介君だよね?』
この間もそんな話を押元たちとしたばかりだ。似たような事を言ってくるのは、あいつらに限ったことではない。体育とかでクラスメイトからそんな冷やかしを受けることが増えた。俺が文芸部だということは、とっくの昔に露呈してしまったらしい。嘆かわしいことだ。
とにかく、こんなところをクラスの――いや、同学年のやつには絶対見られたくない。意外と人の目があちこちにあるのは、前回の一件で経験済みだ。
そもそも、なんでこいつは制服姿なんだ。そうじゃなきゃ、もっと誤魔化しようもあるのに。恨みがましく、その奇麗な横顔を睨んだ。
「何か?」
周りに気を遣ってか、それはとても聞き取り辛いほどに小さかった。
「別に」
俺もまた声になるかならないかで返して、ゆっくりとかぶりを振った。そして、正面に顔を戻す。なんか一人であれこれ考えているのがあほらしくなった。
再び読書を再開する。今度はすんなりと集中できている気がする。冒険物語。主人公の少年は実家の蔵で宝の地図を見つけて、その在処を探しに行く――何の説明にもなってないな、これ。それくらい、読み始めたばかりということだった。
最近ずっとこういう本ばっかり読んでいるせいか、自然とページを捲る手が早くなった気がする。日ごろの鍛錬の賜物、というやつだ。ちょっと嬉しい。
静寂の中意識を研ぎ澄ませていると、些細な音すら心地よく聞こえてくる。紙が擦れる音、ペン先が走る音。この空間に身を置いていると自分が一つ高尚な人間になったと錯覚する。ちょっとした高揚感と共に、文字が描く世界の中に飛び込んでいく。
ポンポン。いきなり右肩付近を叩かれた。突然の出来事に顔を
「どうした?」
口の動きだけでそれを伝えた。
すると彼女は、一冊の冊子を開いたままに片手で突き付けてきた。数学の問題らしい。番号を振って、奇麗に問題が配置されている。そのうちの一つの問題番号がぐるぐると囲まれていた。その横に、ご丁寧猫とに可愛らしくクエスチョンマークまでついている。
五十鈴は黙ったまま見つめてくるだけ。察しろ、ということらしい。そこに一切の躊躇いのないところが恐ろしい。俺の方が気恥ずかしくなってきた。
しかしここは言葉の発することの許されない空間だ。全てを文字にして伝えることができれば、俺は参考書を書き上げることができるだろう。どうしたものかと、俺は腕を組んだ。
思案していると、スマホが振動したのがわかった。誰からのメッセージかあたりをつけながら、それを確認した。
『教えてくれる?』
目の前の少女は一つ大きくまばたきをした。
『いいけどさ……ここじゃマズいだろ』
返信しながら、辺りを見回す。誰もが無言で自分のすべきことに集中している。
『場所を変えましょう』
すると、彼女はテキパキと荷物をまとめ始めた。
そのまま二人一緒に図書館を出た。読み切れなかった本は、しっかりと貸し出し手続きをすませた。返却予定日はテストが終わってすぐの土曜日だ。その二日前までには、その本を読み終わっていなければならない。
「で、どこ行くんだ?」
「ラウンジよ」
案内図を見ながら、彼女は目的地に指を突きつけた。さっきまでいた部屋とは反対場所にそれはあるらしい。
なのだが――
「おい、そっちじゃねえぞ」
歩き出した彼女の腕を反射的に掴んだ。
「?」
「いや、なんだその顔……」
どこまでもすっとぼけたような顔を彼女はしていた。
俺が先導する形で、ラウンジへと向かう。この施設を五十鈴はよく利用するという。にもかかわらず、なぜ俺が先を行くのか。全く意味が分からない。以前行った時も、探検がてらに行きついたとか言ってた。……意外とこいつ、好奇心が旺盛なんだな、と呆れた。
「ここでママさんたちがお喋りしてるのを見たの」
こぢんまりとした部屋の中に、丸机がいくつか並んでいる。奥には自動販売機が三つほど設置してあった。その近くの壁には――
「自習禁止、みたいだけど?」
張り紙を見つけた。
「……ホントね」
「なんか、他人事みたいな口調だな……。他の案は?」
ぶんぶんと、五十鈴は黙ったままに首を振った。
「どうせ一問や二問だろ? パパっと終わらせて――」
机に近づこうとしたら、ガシっと腕を掴まれた。
「ダメよ。ルールを破るのはよくない」
「へいへい、真面目ですねー、みおちゃんは」
「ともかく。これじゃあ仕方ない。月曜日でいいだろ?」
「……そうね」
ちょっと不服そうだったが、気づかなかったことにした。
「俺は図書館戻るけど、お前どうする?」
「私もまだ勉強していくけど。――本借りたんだし、家で読めばいいんじゃ?」
「それが――」
根津家が今、妹とその友人たちによって占拠されていることを話した。初め興味なさそうに聞いていた五十鈴だったが、俺が連中の目的を伝えたら、その顔色を変えた。
「だったら、キミの家でいいじゃない。実は質問、結構たくさんあって――」
「やだよ。面倒くさい。そんなことしたら、なし崩し的に妹一味の面倒も見ないといけなくなるし」
「――文本さんに伝えたら、妹さんにも伝わるかしらね?」
「何の話だ?」
「土下座するふりして、スカートの中覗こうとしたこと」
久しぶりに、彼女のそんな悪戯っぽく笑う姿を見た気がする。
……よく覚えてたな、そんなこと。というか、そんな脅してまで疑問を解消したいのか。その気持ちはわからないでもないが、俺としてはただひたすらに億劫だった――
*
賑やかな声がリビングに響いていた。近隣住民が苦情を言いに殴りこんできてくれないかな。そうすれば、こいつらもさすがに帰ってくれるだろうに。
「ちょっとお兄ちゃん! なに、その態度!」
ため息をついたら、目の前にいる妹から怒鳴られた。わざわざ化学式を書き並べる手を止めて、顔を上げて睨んできた。
それはこっちのセリフだ。仮にも物を教わっているのだから、もう少ししおらしくしてくれてもいいだろうに。いつも遠慮がちな、三田村や柴垣を見習ってほしいものだ。
「しかし、怪しいよね。本当は先輩、美桜先輩のこと、迎えに行ったんじゃないの?」
文本のひそひそ声が耳に届いた。
「さっきも言ったじゃねえか。たまたま、図書館で会っただけだ!」
「ちょっと盗み聞きとかサイテー!」
「うるせーわいっ!」
「まあ、いいです。そんな偶然あります?」
「実際会ったんだから仕方ないだろ」
文本を筆頭に、一年生ガールズは納得のいかない顔を見せた。あの三田村ですら、ちょっと頬を赤くしてわくわくしたようにこちらを見てくる。
クラスメイトを連れて家に帰ってきたら、こいつらに大層目を丸くされてしまった。そりゃそうだ。逃げるように出て行ったと思ったら、女子を連れてきた。余計な勘繰りをしたくなるのが、人の性というものだろう。
「おい、お前の方からもなんか言えよ」
しかし言葉は帰ってこなかった。奴は現状このテーブルで唯一顔を伏せている人間だった。かなり集中しているのか、凄い速度でシャーペンが動いている。
「無視されてる、かわいそ~」
「瑠璃、あんま調子乗るなよ?」
「おにいちゃん、こわ~い」
睨んでみたが、ペロッと舌を出されるだけだった。
全く……渋面を作りながら、俺は立ち上がった。仕事は終わった。今の瑠璃の分で、こいつらの疑問点はすべて解消し終えた。
ぐるりと連中の姿を眺めてから、部屋に戻ろうと歩き出す。
だが――
「どこ行くの?」
「部屋」
「なんで?」
「なんで?」
俺と妹との間に、疑問符が灯った。そのまま互いに黙り込む。俺もあいつも視線を交錯させながら、何度かまばたきを繰り返すだけだった。
「……俺も勉強しようかな、と」
「ここにいればいいじゃん。どうせまた、誰かに何かを訊かれるよ?」
「息が詰まるんだよ」
「先輩、照れてるんですか~?」
顔を向けると、彼女が両脇の大人しい少女たちに窘められているのが目に入った。
「そういうことにしておくよ」
揶揄ってくる文本に付き合うのもバカらしくて、俺は鼻を鳴らした。それでようやく解放された。淀みなく、部屋の中に逃げ込んだ。
扉を開けたままにして、勉強机に向かう。もう四時になろうとしているところが恐ろしい。時計を見たことを後悔した。すごいげんなりした。
遠くの方に賑やかな声を感じながら、のろのろと手を動かす。今までで一番つらいテスト勉強の時間になりそうだ。どうして俺が他人の面倒を見ないといけないのか。
その後も、度々横槍が入った。それをうまくさばきつつ、我が家が完全な落ち着きを取り戻したのは、それからおよそ二時間後のことだった。
「じゃあみんな、また明日ね~」
瑠璃と一緒に、玄関で一年生ガールズの面々が帰るのを見送った。明日、というのは、また誰かの家で勉強会をするつもりらしい。少なくとも、我が家ではないようで、一安心した。
二人でリビングに戻ると、まだ五十鈴は手を動かし続けていた。来た当初に言葉を交わして以来、暫く彼女の声を聞いていない。
「で、お前はどーすんだ?」
声をかけるだけではなダメなのはわかっていたので、肩の辺りを揺すった。
「……あれ、みんなは?」
顔を上げた五十鈴は、きょろきょろと顔を動かした。
「さっき帰ったぞ」
その集中力には、ただひたすらに舌を巻いた。
「五十鈴先輩、ずっとやってたからね~」
「うん。今日はいつもよりも数倍集中できたわ。――ありがとう、根津君」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「何の感謝かはわからないが、ありがたく受け取っとくわ」
やがて帰り支度を済ませた五十鈴を見送りに、俺は再び玄関までやってきた。こんなことなら、あの連中と一緒に追い出せばよかった。完全な二度手間だ。
「じゃあ根津君、月曜日に」
「おう、また月曜に」
「妹さんも勉強頑張ってね?」
「は、はい!」
緊張した表情で、瑠璃は背筋を伸ばした。
深々と頭を下げると、彼女は颯爽と玄関を出て行った。ドアが完全に閉じると、俺は少しだけ名残惜しさを感じてしまった。
「なんで制服姿だったんだろうね、あの人」
「さあな」
心底不思議さに満ちた瑠璃の一言が、俺を現実に引き戻してくれた。
「私服、持ってない、とか」
「そんなわけないでしょ。――さあて、お夕飯の準備しよーっと」
ぐーっと、身体を伸ばしながら歩く彼女に続いて、俺もリビングに戻った。すっかり誰もいなくなったソファに座ると、散らかったテーブルの上がばっちりと視界に入る。
微妙な表情で片づけを始めながらも、嫌な思いはしなかった。五十鈴の前に置いてあったはずのグラスは茶色い液体がなみなみと注がれていたままだった。
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