第44話 違和感だらけの土曜日

 土曜日の朝。食卓には珍しく姉妹すみるりのしゃきっとした姿があった。七時半を僅かに回ったところだったか。食事の支度もほとんど終わり、馬鹿二人を起こしに行こうと思ったら、ばたばたと起きだしてくる音が聞こえてきた。台所で待っていたら、すっきりとした顔の二人が現れた。しっかりと着替えも済ませてあった。

 三人で暮らし始めて、それは初めての出来事だった。思わず記録に残しておきたいくらいに感動した。明日雪が降るとか、そういうレベルの珍事ともいえた。


「なに、お兄ちゃん。変な顔して」

「いや、そんなことねーと思うぜ?」

「えー、絶対そうだって。ねっ、お姉ちゃん?」

「そうねぇ。瑠璃ちゃんの言う通りだよ。なんかニヤニヤしてる」


 俺としては、本当に自覚は無いんだが……しかし二人が言うのなら、無意識に顔に出ていたのだろう。両手で頬をこねて、なんとかいつもの表情を取り戻そうとする。


「なにしてんの?」

 そんなことをしていたら、瑠璃から不審げな目を向けられた。

「いや、ちょっとな――ほれ、これでどうだ?」

「うーん、まだ少し目つき悪いよ」

「うるせー、それは生まれつきだ!」

「そんなことない! 子どもの頃の浩介君はもっと可愛かった!」

「えー、そうかなー。昔から、こんな強面だったけど」

「やかましいな、お前ら。さっさと食えよ。冷めても知らねーぞ」


 俺はわざとらしく味噌汁を啜った。今朝は珍しくちゃんとだしを取った。可能だったら、あの便利な顆粒にはあまり頼りたくないんだけど……。しかし、手間なのは確かに事実なのである。こういう時間のある時にしか、やはりこうも本格的にはいかない。


「あーあ、すっかり口も悪くなっちゃって……お姉ちゃんは悲しいです」

「妹ちゃんもそう思います」

「……ったく、珍しく朝からちゃんとしてると思ったら、これかよ。感心して損した」

 悪態をつきながら、箸を進める。


「あっ、だから、変な顔してたのね!」

「やっと気づいたか。そして、自覚はあるってことだな、お前ら」

 姉貴だけでなく、瑠璃もまた目を大きく見開いている。

「いつもこんなだと助かるんだけどなぁ」

「努力しま~す」


 二人は声を揃えたが、どちらもとても気の抜けたものだった。全く信用ならない。当てつけのように、俺は大きなため息をついた。


「で、今日は何か用事でもあんの?」

「わたしはバイト。朝から授業あるんだ。ほら、テスト近いから、高校生。稼ぎ時ってやつ!」

「ふうん。色気がないねぇ。華の大学生なのに」

 冗談めかしたように言ったが、きつく睨まれて肩を竦めた。


「ねぇねぇ、お姉ちゃん。いい人いないの?」

 瑠璃は躊躇うことなく、姉に追い打ちをかけていく。

「もう、瑠璃まで……二人して、なあに? そんなにわたしに恋人がいないことが不満なの?」

「まあね~。だって、お姉ちゃんがカレシ作って家出てってくれれば、一人部屋だもーん」

「えっ! 瑠璃ちゃん、一人部屋がよかったの? だったら、家探してる時に、言ってくれれば」

「なーんて、ジョーダンだよ。ジョーダン。そんなに悲しそうな顔しないで、すみれちゃん?」


 たちまちに、姉貴の不機嫌そうな顔は、気持ち悪いにやけ面に変わった。


 朝から元気だな、こいつら。それを普段から発揮してくれれば……冷ややかな気持ちでじゃれ合う姉妹を眺めながら、俺は静かに食べることに集中する。


 そのまま、騒がしいままに俺たちは朝食を終えた。言葉巧みに騙くらかして、瑠璃に皿洗いを押し付けて俺は部屋に戻った。そしてのろのろと勉強机に向かう。


「行ってきまーす」


 間もなく姉貴の声がした。ここからほぼ一日バイト漬けだというのだから、恐れ入った。たくさんの生徒を相手にするのだろう。その中には、もしかすると文芸部の先輩方がいるのかもしれない。

 妹の送り出す声を聞きながら、俺は日本史のワークに手を伸ばした。姉貴が言ったように、テストは近い。この土日が終わるとちょうど一週間前になる。テスト勉強を始める。それは、危機感を覚えているわけではなく、刷り込みからくる習慣だった。


 イヤホンを付けて、適当な音楽を流しながら、手を動かしていく。……初めの空欄から、いきなりわかんないんだけど、それは大丈夫なんですかね? 眉をひそめながら、短く息を吐いて気合を入れる。


 ――ピンポーン! イヤホン越しにも、チャイムの音ははっきりと俺の耳に届いた。


 反射的に俺は手を止めた。ワークを何周かして、段々と知識が増えてきた頃だった。近くに時計はないので、具体的にどれくらい時間が経ったかはわからない。


「あ、お兄ちゃん。あたし出るから」

 応対するかと部屋を出たところ、タイミングよく妹と遭遇した。

「なんか注文してんのか?」

 宅配便の類だろうと思った。

「ううん、そうじゃなくって――」


 はっきりとは答えないままやつはリビングに入っていった。インターホンの受話器を取るのを見て、俺は自室に戻った。そして、また勉強を再開する。


 しかし、またしても俺は手を止めることになった。もう一度、チャイムの鳴る音がした。今度はうちの玄関のやつ。そして、妹がばたばたと廊下を進む音。

 それだけであれば、別に集中力が途切れるほどのことではない。現に俺は、真剣にワークと睨めっこをしていた。古墳の名前は憶えているが、漢字が……そう思っていたところ――


「お邪魔しま―す!」

 それが俺の手を本格的に止めさせたものだった。


 元気のいい女性の声。しかも、それに俺はよく聞き覚えがあった。


「はーい、いらっしゃい、いらっしゃい。ほら、奏音ちゃんも望海ちゃんも遠慮しないで」


 そして妹の口から、俺の知っている名前が二つこぼれる。ここで俺は、最初の声の主について確信を持った。


「おい、瑠璃。どういうことだ!」

 堪らず俺は急いで、玄関の方に顔を出した。

「勉強会をしようと思って。いいでしょ?」


 一つも悪びれたところのない笑みを、妹は浮かべていた。その後ろに、見覚えのある後輩女子の姿が三つほど。もちろん、いつもとは違う服装だ。


「今日もよろしくお願いしますね……お兄さん?」

 その中の一人、文本望海は意味ありげにほほ笑みかけてきた。


 ああ。これはとてもろくでもない一日になるな。そう直感して、俺はひたすらにげんなりとした気分になるのだった――





        *





 重たい扉をくぐると、部屋の中は一際静まり返っていた。どこか古めかしい匂いが鼻をくすぐる。空気が張り詰めているように感じて、ちょっとだけ気分が引き締まった。同時に、酷い場違い感を覚える。

 スマホで時刻を確認する。一時を少し回ったところ。閉館時間は五時、だったかな。あいつら、その頃までには帰っていればいいが。苦い思いで、俺は首を横に振った。


 午前中はとんでもない目に遭った。一年生一味に容赦なくこき使われた。教師役を欲してるなら、姉貴がいる時に連れて来ればいいのに。実際そう主張したが、瑠璃は確信犯的笑顔を浮かべていた。

 ということで、俺は逃げてきた。貴重な一日をあいつらのために犠牲にするつもりは毛頭なかった。全員分の昼飯を用意してやって、俺は家を飛び出した。


 向かった先は近場にある図書館。荷物は持ってない。勉強をしに来たのではなくて、ただ本を読みに来た。

 カウンターの前に検索機があるのを見つけて、俺は近づいていった。スマホを操作して、文芸部のグループチャットをチェックする。そこに、読み聞かせ候補の本のタイトルがすべてまとめてあった。

 それらを機械に打ち込んでいく。目的の本は全てこの図書館にあるらしい。見取り図を印刷して、館内を練り歩いてみることに。


 不慣れな俺にとっては、この空間はまるで異世界のように思えた。図書委員の仕事を抜きにすれば、こういう場所に来るのは久しぶりだ。子どもの頃、家族で来た時以来かもしれない。それがいつだったかは覚えていないけど、ボロボロになった利用者カードが、確かに以前、俺が図書館を利用したことを示していた。


 とりあえず数冊だけ集めてきた。どうせ今日一気に読める気は全くしなかった。段々と空気に馴染んできて、気分は幾分かリラックスしていた。


 閲覧スペースはほど良く埋まっていた。老若男女問わず、というやつか。利用者層はバラバラ。空いている席を求めて彷徨う。なかなかいい場所が見当たらず、最奥付近まで来てしまった。


 机に向かう後ろ姿の中に、薫風高校のセーラー服を見つけた。艶のあるその長い黒髪にも、よく見覚えがある。……人違いかもしれない。黒髪ロングの女子なんて、どこにでもいる。それが絶滅危惧種になるほど、この日本はそこまで乱れていない、と私は信じたいのである。


 だが――


 その横を通り過ぎた時、それが俺の気のせいではないとわかった。澄ました表情で、勉学に勤しむその女生徒は、見事に俺の知り合い――五十鈴美桜だった。

 なぜこんなところに……いや、今はそんなこと後回しだ。気づかれないように、速やかに隅に移動しなければ。……そうする理由はよくわからなかった。ただ、なんとなくそう思った。


 そろり、そろり。抜き足差し足忍び足。元々館内の床は余計な音が鳴らないようになっているが、それでも物音を立てないように注意する。とりあえず、俺は踵を返した。

 大丈夫、大丈夫。あいつ、ひどく集中しているみたいだし、気づかれないだろう。ただし、油断は禁物だ。ゆっくり、慎重に、冷静に、どこまでも落ち着き焦らず。エロ本の時のような二の舞は、もう勘弁。


 別のところに陣取るしかないか。またしても、自分の居場所を探し求めていると――


 ぶるぶるとポケットの中でスマホが振動した。反射的に俺はそれを確認した。


「――っ!」


 メッセージを見て、身体がびくりとなった。そして恐る恐る後ろを振り返る。


 そこには、五十鈴が立っていた。こちらを向いて、軽く会釈をしてくる。そのすっと伸びた腕の先にはスマートフォンが握られていた。


『こんにちは、根津君。

 あなたも来たのね』


 それが初めてあいつから貰った個人メッセージだった……いや、なんだよ、このホラー。俺はただひたすらに困惑するばかりだった――

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