第43話 青年、少しセンチメンタルになる
「――と、いうわけで、この問題はこうなる。授業で扱わなかったタイプの問題だから、ちょっと難しいわな」
「……なるほどよくわかったわ」
それは剰余の定理の応用問題だった。どこぞの大学の過去問らしい。プリントとは違い、問題集にはばっちりとその出典が明記されていた。……聞いたことのない名前だが。
昨日、一度自分で格闘しているおかげか、澱みなく解説することができたと思う。目の前に座る少女は、スッキリした表情で懸命にノートに何かを書きこんでいる。
「お見事ね、浩介君。さすが、菫先生の弟さん、といったところかしら」
その様子を五十鈴の傍らで眺めていた静香先輩が、眼鏡をくいっと上げた。その奥にある瞳が、驚きからかちょっと大きく見開かれている。なんとなく、強キャラ感があった。
「それ、関係あるんすかね……」
「あると思うよ。きっと。たぶん」
彼女は真面目腐った顔で何度も頷いている。
「恐ろしいまでに説得力が皆無なんだけど」
「――あっ、わたし、美紅ちゃんのとこ戻らないと~」
わざとらしいまでの聞こえなかったような素振り。嘘くさい笑顔を浮かべたまま、どこかもったいつけた足取りで、彼女は悪戦苦闘する友人のところに戻った。
「ありがとう、根津君。助かった」
「へいへい、どういたしまして。もう少しそれっぽい表情をしてくれると助かるんだが」
五十鈴は相変わらずの無表情で頭をぺこりと下げた。その顔が上がった時もまた、特に変化はなかった。本当にありがたがっているかは、こいつのみが知ることであろう。
「えー、あたしには心なしか嬉しそうに見えますよ?」
「はい。五十鈴先輩、優しい顔してます」
「……キミたち、余計なことはいいから」
彼女は威圧するように素早く左右に目をやった。
「今、顔が赤くなったのは俺にも――」
「なってません」
「いや、でも――」
「なってない」
ギロリと睨まれて、俺は堪らず肩を竦めた。
「美桜はこう見えて、結構わかりやすい性格してると思うけどね」
久しぶりに三井先輩の声がしたと思ったら、彼女はその後輩の隣に腰を下ろした。口元にどこか挑むような笑みを浮かべて、ぐっと隣の少女を見た。
すると、ばつが悪かったのか。あいつの眉毛がぴくりと動いた。その頬が少しだけ強張ったのがわかった。極めつけに、わざとらしく一つ鼻を鳴らした。
「あらら、お怒りだ。ほら根津君、なんとかしなさい」
「なんで俺なんですか! 怒らせたのは、三井先輩――」
「名字で呼ばれるの、嫌いなのよねー」
ソファの肘掛けに頬杖をつきながら、突拍子のない言葉をぶつけてきた。
「じゃあ、あややせんぱ――」
「本の角って、殺傷能力が高いのよ。知ってた?」
物騒なことを口走った先輩は自分の鞄の中をごそごそと探り始めた。そしてゆったりとした仕草で、何かを取り出す――それは、分厚い和英辞書だった。
片手に持つと、背表紙を向けて彼女は見せびらかしてきた。口角は不気味ほどに上がっていて、一方でその目は全く笑っていない。――殺される、直感した。
「こらこら、あやや。仮にも図書委員長が、そんなぞんざいに本を扱っちゃダメでしょーに」
見ると、美紅先輩は顔を上げて目を細めていた。
「まあまあ。ろくすっぽ、本を読まない、書かない文芸部部長さんには言われたくないわね」
そして、三井先輩は腕組みをして足を交差せる。
そのまま、二人の視線がバチバチとぶつかる。のどかだった部室の雰囲気は、見事に消し飛んでいた。なんなんだこれは……自分の顔が徐々に渋くなるのがわかった。
「なんか一触触発って感じだな」
「言ってる場合ですか……」
文本に話しかけると、彼女は苦い顔をして首を《すく》めた
「そんなに気にしなくていいよ、二人とも。詩音ちゃんも怯えないで? これ、平常運転だから」
静香先輩の声は、いつも以上に間延びして聞こえた。
「……なかなかバイオレンスな部活だったんだな、昔の文芸部」
「どういう意味!?」
その語尾は微妙にずれていたものの、二人の声はほぼぴたりと重なった。そしてほとんど同時に、俺の方に顔を向けてくる。
「そして実は仲良しさんなの」
沈黙を守っていた副部長も、こくこくと頷くのが見えた。
なおも三井先輩は、ぎりぎりと悔しそうな表情をしていた。しかし仕方ないなという風に、ふとその頬が緩んだ。完全に毒気が抜けている。
「はあ。ほんと、調子狂うわ……」
「むしろ戻った、というんじゃないの?」
冷やかすような声が飛んできて、みるとやはり部長はにやけ面を浮かべている。
「うるさいわね。いつもお気楽に振舞っているあんたには、わからないわよ」
そう言うと、ぱっぱとスカートを払う仕草をして、彼女はすっと立ち上がった。鞄を肩にかけると、そのまま出口の方に向かって歩き出した。どうやら帰るつもりらしい。
「あやや先輩。もういいんですか、本?」
「根津君、あなたも心底、美紅と同類みたいね。――何時だと思ってるの。とっくに読み終わったわ」
「えっ、マジっすか? パラパラ捲っただけじゃあ……」
時計を見ると四時を回っていた。にわかには信じられなかった。
「失礼、という言葉を覚えた方が良いわよ。小さい頃から、色々と読んでいたら早くなったの。その辺は、美桜ならよくわかると思うけど」
「?」
「ちょっと、なんで首を傾げてるのよ……」
マイペースぶりを発揮する後輩に、明らかにあやや先輩は困惑していた。狼狽えることがあるんだな。と思うと同時に、五十鈴美桜の凄さを改めて感じた。
ともかく。気を取り直すように首を左右に振ると、彼女は再び出口に向かい始めた。その凛とした後ろ姿は、少しは平静を取り戻したように見えた。
「また来てねー」
そこへ、部長が底なしに明るい声をぶつける。
「……気が向いたらね」
その声はどこか寂しげに俺には聞こえた。あの人がもう一度、ここに来ることがあるんだろうか。それは俺には全くわからなかった。でも、俺もまた来て欲しいなと思う。
元部員がいなくなると、ちょっと部室の空気が沈み込んだ気がした。静寂を取り戻した室内――それはさっきまでと変わらないはずなのに、どこか俺には哀愁を感じさせるのだった――
*
失礼しました、という三田村の至極落ち着いた声が廊下に響く。こちらに振り向いた時に、彼女は文本から自分の鞄を受け取った。どこか遠慮したような風だった。
文化部の下校時刻は十八時となっている。それは、午前授業のこの日も変わらなかった。間に合うように戸締りをして、二階にある職員室に鍵を返しにやってきた。
「ありがとう、望海ちゃん」
「ううん。こちらこそだよー」
「麗しき友情ってやつだねぇ。しずかっち、ほら?」
気持ち悪いともいえる満面の笑みを浮かべて、美紅先輩は腕をいっぱいに広げた。どうやら名前を呼んだ同級生のことを暖かく迎え入れたい心づもりらしい。
しかし、その相手はといえば。一瞥すると、すぐにそっぽを向いた。
「さ、みんな帰りましょうか」
つかつかとそのまま歩いていくのに、部長以外の面々も続いた。
「ちょっと無視しないでよー!」
やや間があって、作り物めいた叫びが背後から聞こえてくるのだった。
そのまま適当に話をしながら玄関へと向かう。高体連期間ということもあってか、いつもはまだこの時間でも騒がしい校内は、すっかりと静まり返っていた。
「それにしても、根津先輩。ずいぶん頑張ってご本読んでましたねぇ」
前を歩いていた文本が揶揄うような顔をしながら、こちらを向いてきた。
「委員会に向けて真面目に準備してんだよ、こっちは。煽られる筋合いはないわい!」
俺もまた、軽い調子で言葉を返した。
「そうだよ、望海ちゃん。それにわたしたち、勉強教えてもらっちゃったし……。先輩は、テスト勉強、よかったんですか?」
「うん、まあ、別になぁ」
「余裕あるねぇ~、嫌味たっぷり!」
最後尾の方から、美紅先輩の声がした。
「いや、そういうわけじゃあ……そもそも、勉強道具自体を持ってなかったんで」
「それを余裕あるって言うのさ」
「えー、そんな無茶苦茶な」
「こらこら、美紅ちゃん。あんまりいじめないの」
「だって~、ずるいじゃん! あたしたちは頑張ってるっていうのにさ~」
「美桜ちゃんたちは真面目なだけです。あなたは、今までのツケが回ってきただけでしょうに」
「……そ、そんな、みなまで言わなくても」
少し大げさに反応した美紅先輩に、俺たちはみんなで笑いあった。
外に出る頃には、辺りはすっかり夕焼け色に染まっていた。かすかな疲れを感じながら、俺はぼんやりと空を見上げた。あれだけずっと読書に勤しんでいたのは、初めてだったかもしれない。眠気がすっかり晴れていこうは、すこぶる順調だった。休憩がてら、時折、同級生や後輩たちに勉強を教えたのもよかったのかもしれない。
とりあえず、今日で文芸部の推薦図書は全部読み終えた。児童向けのはずなのに、比較的楽しく読めたのは、俺の精神年齢が低いからだろうか。……中学の時の朝読書、こういう本だったら馬鹿にされずに済んだかもしれない。安易に絵本を選択した自分を、改めて呪った。
とぼとぼと、駐輪場に向かって歩く。自転車通学なのは、半分だけだった。美紅先輩と三田村は、徒歩圏内。五十鈴は言わずもがな、バス通。それでも、六人一緒に歩いてきた。それはいつもの恒例だった。
「それにしても、三井先輩、ステキだったなー」
「えらくあややのこと気に入ったんだね、のぞは」
「だって、すごいしっかり者って感じで。どことなく気品があって。ああ、うちの部にもこんな人いたんだって――」
「の、望海ちゃん、それはまずいよ」
「え、何が?」
本人は全く自らの失言に気が付いていないらしい。キョトンとした顔で、首を傾げている。
対照的に、最上級生の先輩方から、ひしひしと妙な雰囲気が伝わってきた。怖くてその顔は見られないが、きっと大変なことになっているのだろう。……もう一人の先輩五十鈴美桜は、どうも気づいてないみたいだったが。
まあ、俺も文本の言うことはわかる。キャラのギャップには戸惑ったものの、振り返ってみれば、嫌な感
じのする人ではない。彼女のいる文芸部の姿を容易に想像ができた。
部誌でも読んでみるか。俺が知らない、過去の文芸部のことが気になった。そして、なんだかんだ言いつつも、部活に馴染んでいる自分が恐ろしいと思えた。もう二度とそういうことはない、なんて思っていたのだが。
「それじゃあねー。若人たち、勉強頑張るのじゃぞ!」
「あなたが一番でしょうに……」
「根津君、今日はありがとう」
そんなやり取りを経て、徒歩組とは別れた。
「根津先輩、私も今日は本当に助かりました」
文本は深々と頭を下げる。そんな風に畏まるこいつの姿を、俺は初めて見た。
「いいって、いいって、あれくらい。ま、しっかりやれよ」
「また教えてもらってもいいですか?」
「機会があればな」
「約束ですよ?」
「あいよ――じゃ、お先で―す」
俺は二人に軽く声をかけて、そのまま自転車を漕ぎ出した。向かい風を億劫に感じながらも、明日から土日だと思えば、すぐに気持ちは軽くなった。
……翌日、その会話を後悔することになるのだが、それはまた別の話だろう。
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