第40話 不穏な気配

 委員会室Aなる教室がこの高校に存在することを、俺はついさっき初めて知った。もう二年生だというのに、こんなにも未知な場所があるなんて、びっくり仰天、摩訶不思議。世の中は意外と、知らないことに溢れているということを示唆しているのかもしれない。


 ということで、俺は五十鈴に連れられて、その教室にやってきた。図書委員会の追加の会議がここで行われるから。そう、今日は木曜日。しかし、昼休みではない。

 話半分にしか聞いてなかった俺は、重大な勘違いを引き起こしていた。実を言えば、月曜日の段階で、ちょっとおかしいな、とは思っていた。だって今週は高体連期間。そもそもが午前授業なのだから。

 ということで、今は放課後なわけだった。時刻は十二時少し前。段々と空腹を感じ始める頃。本当であれば、今頃家でのんびりしているはずなのに……流石にちょっと億劫な気持ちにならざるを得ない。


 その部屋は普通の教室よりも広く見えた。そしてかなり小奇麗にしてある。前方には大きなホワイトボードがあって、それと向かい合うように白い長机がぽんぽんと、二列並んでいる。その中央は通路代わりに、大きな隙間ができていた。

 ついさっきチャイムが鳴ったばかりにも関わらず、ちらほらと席が埋まっている。しかし恐ろしいのは、我らが文芸部の部長の姿があること。ここ四階なんだけど……なぜにこんなに早いのか。

 実は授業をバックレてるんじゃないかという疑惑が、ふと胸の片隅に過った。思えば、新歓時期からおかしなことだらけ。


 とりあえず、釈然としないながらもその近くへ。彼女は窓際の前から二列目、その左端にちょこんと座っている。

 机の横で立ち止まると、ようやく向こうが気が付いた。顔だけこちらに向けて、涼しげな笑みを浮かべてきた。


「おはよーさん、二人とも」

「こんにちはです、美紅先輩。早いっすね」

 挨拶をしながら、俺と五十鈴はその隣に並んで座った。

「まねー」

 なんでもないことのように、彼女は平然と答えた。


「で、お前はこんな時でも読書なんだな」

 ずっと黙ったままのクラスメイトに目を向けると、どこからか文庫本を取り出していた。

「うん。悪い?」

「全然」

 頬を張りながら、力なく首を振る。

「みおっちは平常運転だねー」

 けらけらと笑う先輩を一瞥すると、五十鈴は再び読書に戻った。


 ということで、彼女を放置して、俺は先輩と適当にお喋りをすることに。そのうちに、イベント班の面々も集まってくる。前の列には、残りの文芸部二人が座った。……今頃、唯一の仲間外れの彼女は何していることやら。


 そして――


「ごめんなさい、遅れました」


 最後にやってきたのは、意外なことに委員長だった。人当たりの良い笑みを、その顔に張り付けながら前方につかつかと歩いてくる。その後ろには、顧問である矢島先生がいた。


「みなさん、おまたせしました~」

「きっと薫子ちゃんが忘れてたんだよ」

 左隣の三年生がぼそりと言った。


 確かに、委員長殿の顧問を見る目に呆れの色が混じっている気がする。口角は少し上がってはいるが、ちょっとだけ目元が細くなっていた。

 帰りのホームルームが終わって、彼女は教室をすぐに出て行った。その後、のんびりしていたとしてもこんなに遅くなるものか。第一、三井先輩と一緒に来た時点で、忘れてた説は濃厚である。


 しかし、すぐに気を取り直したように、委員長は俺たちの方に顔を戻した。すっかりそこには、曇りのない笑みが宿っている。しかし、それが仮面だと知っている今、改めて見ると、どことなく嘘くさい。

 だいたいああいう美人に裏があるってのは、よくある話だ。右隣の少女に目を向けると、彼女はまっすぐに前方を見つめていた。その横顔の奥では、何を考えていることやら。


「さて、みなさん揃っていますか?」


 可愛らしく三井先輩は小首を傾げた。そして、ぐるりと教室内を見渡す。……全員把握しているのだろうか。しかし、彼女がその指を折っているのを見て自己解決した。人数数えれば、済むじゃん、と。


「よし、いるみたいですね。さて始めましょう。――ごめんなさい、木ノ内さん。書記を頼んでもいいかしら」

 なんとなく、その声はいつにもまして作り物じみて聞こえた。

「うん、わかったよ、綾香ちゃん」


 静香先輩は気にすることなく立ち上がって、ホワイトボードの方へ。すると、なぜか美紅先輩が前の列に移った。三田村の隣に、すっと腰を下ろす。


「それじゃあ順番に聞いていきましょう。では、まずそこの文芸部の皆さんから」


 ニコッとほほ笑むその顔に、言いようのしれない威圧感を覚えたのは俺だけだろうか。背中がちょっとだけぞくりとした。





        *





「うーん、だいたい出尽くした感じがしますね……」


 ホワイトボードにはたくさんの文字が並んでいる。本のタイトルだ。総勢三十冊弱ほど。これを十二冊に絞るつもりらしい。朗読会は四校。一校三冊ずつの算段だ。

 気が付けば、もう一時間以上過ぎていた。まあ、そうか。選んできた本を紹介する時に、あらすじまで話したわけだし。そして、簡単な質疑応答もあった。


「先生、どうします? 今日決めますか?」

「いいえ、今度でも大丈夫よ。また別日に集まることにする?」

「みなさん、どうでしょう?」

 委員長は、イベント班の面々に顔を向けた。


 異論を唱えるものはいなかった。俺としても、不満はあるものの、そんな我儘を言うほど子どもではない。なりゆきはどうあれ、俺は図書委員だ。その仕事に責任を持つつもりだった。日曜日、一生懸命に頑張る文芸部員の面々を見て、改めて自らの考えを正した。


「では、テストが終わった後の水曜日の放課後、またこの教室で。各自、どの本がいいか考えてきてください。都合が悪い人は、別途矢島先生に伝えてください」

「職員室か、英語準備室にいるからね~」

「それでは、今日は終わりましょう。みなさん、長時間お疲れさまでした。――ありがとうございました」


 ありがとうございました、が委員会室にこだまする。今まで張りつめていた空気が、一気に緩んだ感じがした。美紅先輩なんか、会が終わるなりすぐさま後ろを振り向いてきた。


「いやぁ、終わった、終わった」

「結構長かったですね。もう一時になりますよ」

「さすがにお腹減ったわねぇ。――ね、しおしお?」

「はい、そうですね」

 いきなり声を掛けられてびくっとなりながらも、三田村もまたこちらに身体を向けた。


「みんなはご飯どうするの?」

 ぐるりと部長は部員の顔を見渡した。

「わたしは家で……」

「俺は何も考えてないですね」

「あれ、妹ちゃんは?」

「あいつは今日、高体連の応援です」


 弓道部は今日が大会の一日目だった。去年と同じなら、個人戦が行われるはず。明日が団体戦。

 お兄ちゃんも応援に来ればいいのに、と朝の食卓で誘われた。それと、弓道部で一番仲が良かったカイトからもメッセージが来ていた。

 まあ、俺にそんなつもりは毛頭ないが。弓道にはもう、一切かかわるつもりはなかった。


「私は用意してありますから」

 そう言うと、五十鈴はごそごそと鞄からパンの袋を取り出した。

「また、菓子パン。よくそれで栄養、足りるな」

「それがみおっちのすれんだーぼでぇの秘訣だもんね」

「――相変わらず、のんびりとしてるわねぇ」

 

 そこに、どこからか女性の声が聞こえてきた。この部屋に残るもう一人の部員の者ではない。とげとげとして、少し低い声音には聞き覚えがある。

 見ると、机の横に三井先輩が立っていた。肩からスクールバッグをかけて、腕組みをしている。眉毛が寄って、少しだけ不機嫌そう。


「あら、あやや。おひさ~」

「先週もあったっと思うのだけれど?」

「そうだっけ?」

「まったくあんたは……」


 美紅先輩はおどけたように肩を竦める。それを見て、あからさまにため息をついてかぶりを振る三井先輩。心底呆れきっているように見えた。

 あの人の良さそうな笑顔はどこへやら。すっかり三井先輩は、に戻っているようだった。整った顔立ちだが、一点その釣り目がちな大きな瞳が、少しだけきつい印象を与える。


「なあ、美紅先輩と三井先輩って仲悪いのか?」

 小声でクラスメイトに話しかける。

「――ううん、そんなことない。いつもこんな感じ」

 いつのまにか、五十鈴は食事を始めていた。暢気な奴だ。


 先週の委員会の後も、思えばこんな感じだった。つっけんどんというか、ぎくしゃくしているというか。何やら険悪な雰囲気を感じたんだが……。それは今もそうだけど。

 前方を見ると、静香先輩は矢島先生と何かを話し込んでいる。彼女がこちらを気にする様子もないから、やはりこれが平常運転なのだろう。ちょっと腑に落ちない感じはするが。


「で、何か用、あやや?」

「その呼び方はやめてって、言ったわよね? ――まあいいわ。明日、部室に行くから」


 長い髪をかきあげながら、言い放った一言は、全く思いもしないものだった―― 

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