第37話 根津君と五十鈴さん リバイバル
それは、いつもと変わらない朝だった。自転車置き場の人は疎らで、校舎に繋がる道には
校舎の中には、穏やかな空気が流れていた。部活動の音はあちこちで響いているものの、喧騒というほどでもない。なにせ、朝の教室はほかの休み時間とは違って、それなりに静かだ。それは二年二組の教室も例外ではなくて、クラスメイトたちの賑やかな声はあまり聞こえてこない。
しかし――
教室に入った瞬間、俺は強烈な違和感を覚えた。クラス中の視線が、いきなりこちらに集まった。ぴたりと話し声が止んだ気さえする。思わず俺は足を止めて、ぐるりと部屋の中を見渡した。
だが、そんなことはまるで気のせいだったように、教室はいつもの調子を取り戻している。気のせいだったのかな、と首を捻りながらも自分の席を目指す。それでも、胸のつっかえは完全には取り除けていない。どうにも、身体の奥底がふわふわとして、落ち着かないのだ。
つい先日、席替えをした。俺の新しい居場所は、窓際一列目最後列。所謂、主人公席というやつだ。しかし、決してそんな素敵なもんじゃない。前、右斜め前、右と見事に女子に囲まれた。さらに、数少ない友人とも離れ離れ。おかげで、なかなかに楽しい時間を過ごす羽目になっていた。せめてその女子の一人が五十鈴であれば……以前でさえ、クラス内でそんなに仲良くした覚えはないが。
ともかく、長い道のりだった。やっぱりさっきの出来事は俺の思い過ごしらしい。誰も、こちらのことなど気にしていない。自意識過剰なんて、恥ずかしい。そんな風に考えながら、空席の目立つ通路を抜けていく。
「おはよー」
前から五番目の席に差し掛かった時、その席の主がちらりとこちらに目を向けた。
「……お前、朝練じゃないのかよ」
「おいおい、せっかく話しかけてるってのに、その対応はないっしょ?」
彼女――若瀬沙穂は露骨に不快そうな顔をした。
直前まで顔を突き合わせて話していたからか、彼女の隣席の女子もまた俺のことを見ていた。
改めてあいさつを終えた後、俺は静かに席に着いた。朝の暇潰しは、スマホ弄りか課題をやるか。なにせ周りの女子は見事に徒党を組んでいるもんだから、どうにも孤独に過ごすしかない。卓はいいとして、晴樹はかなり遠い場所にいるから、わざわざ話しに行くのもかなり面倒まわけで。
いつもなら、忌々しいこの空白の時間。しかし今日は、割と待ち遠しかったりもした。昨日買った本の続きをゆっくり読もう、そう思っていたから。鞄を机の下に置きながら、例の文庫本を取り出す。
そのまま、読書に勤しむことに。栞を頼りに本を開いて、早速文字に目を落としていくが――
「根津が本読んでる……!? こりゃ、明日は雨ねー」
「えー、せめて明後日が雨ならいいのに」
「なんで……って、体育か。陸上、ダルいもんね~」
女子たちが騒ぎ始めた。おかげで、俺はすぐさま読書を中断せざるを得なかった。非難の色を込めながら、俺はそっと顔を上げた。昔馴染みの同級生の顔を睨む。
「うるせーな、まったく。ってか、どういう意味だ!」
「あらら、こりゃ意外。その理由はあんたが一番わかってるだろうに」
若瀬のやつは、げっそりとした顔でかぶりを振った。友人のそんな姿を見て、青葉もまた頬を緩める。とりあえず、馬鹿にされていることは確かだ。
こういう時、昔からの知り合いってのは厄介だ。俺が折角生まれ変わろうとしているのに、いちいち水を差してきやがって。こんなんじゃ俺、本を読むのを嫌になっちまう。
「ん、そのブックカバー」
若瀬の視線がぴたりと閉じられた文庫本の方に向いた。
「なんだよ。……って、このやり取りを昨日家でもやってるんだが」
恐ろしいまでに、ここまで一緒である。
「そりゃアタシが不思議に思うくらいだもん。菫ちゃんや瑠璃ちゃんなら、なおさら放っておかないって」
「へー、根津君。妹さんがいるんだー」
青葉はちょっと目を見開いた。
この口やかましい女が
こいつとは、実は幼稚園からの仲だ。つまりその二人とも、付き合いはとても長い。だから、その時の呼び方が今も残っているというわけだった。
まあ弊害はないので、黙っておくことに。しかし、すぐさま彼女自身が訂正を入れた。そんなことするなら、ちゃんと年上らしくさん付けでもしたらいいのに。……姉貴自体は、元々の呼ばれ方が気に入っているみたいだけど。あいつ、自分がいくつだと思ってんだろうなぁ……。
「とにかく、これはどうやらあの噂は本当みたいですな~」
にんまりとした顔で、若瀬は不敵に笑った。
「あの噂って、なんだよ?」
「……そして当事者は知らないっと」
「仕方ないよ、クラスので流れてたわけじゃないから」
どうやら青葉もまた、
なんだか仲間外れにされているようで、気分が悪い。しかも、俺にかかわるような事ときた。気にするなというのは無理な話で、見事に俺の好奇心は盛大に働いていた。
「その前に……あんた、昨日どこにいたの?」
「質問をしたら、質問が返ってきただと……!? お前、小学校に戻ってやりな――」
若瀬が睨んできたので、俺は慌てて言葉をしまい込んだ。やや神妙な口調で、答えを返した。駅前の本屋、その名前までしっかりと告げた。
「はは~ん。また一つピースが埋まった」
「沙穂、探偵みたいだね!」
盛り上がるガールズ、そして嫌な予感が俺の頭に過る。
「五十鈴さんとあんたがデートしてた、って話が出てるのよ! それも本屋デートね!」
――それは本当に寝耳に水というやつだった。思わず目を剥いて、まじまじと腐れ縁の少女の顔を見つめる。ぽかんと開いた口は、一向に塞がる気がしないかった。
*
「――それは災難だったね」
話を聞き終えて、晴樹が真っ先に反応した。こちらに気の毒そうな顔を向けてくれている。この卓球ボーイはとても心優しい奴なのだろう。感動していた。
昼休み。俺はいつものように、自席を脱出した。この時間になると、周りの女子たちの勢いが激しくなる。とてもではないが、俺はあの場所にいられる気がしない。今も、わいわいがやがやと、見知らぬ女子中心に盛り上がっている。
そして、こうして晴樹の近くに移動してきた。いつも自然と卓もやってくる。この辺りは、比較的空席が多いのだった。
いつもなら、話の種はそんな大したものはない。テレビ、ゲーム、動画、学校関係などなど。しかし、今日ばかりは違った。流石に愚痴りたい気分だったのだ、俺が。
「しっかし女子の情報網ってのは恐ろしいな~」
「なっ。いったいどこの誰が見てたんだか。たまたま二人でいただけで、すぐそういうことに結び付けられたら堪んないぜ」
若瀬から聞いた情報だった。一部の女子のグループにそういう情報が出回っていたらしい。ご丁寧なことに写真付きで。見せてもらったそれには、ジャージ姿の俺と制服姿の五十鈴がばっちりと収まっていた。しかもどんなタイミングか、その距離感は意外と近い。背景から察するに、朗読会用の本を探している時のことだろう。
もちろん、お返しとばかりに、あの二人には全てを説明しておいた。すんなりと、彼女たちは納得してくれたようだった。
『ま、そんなこったろうとは思ってたけどねー。ともくんから、あんたが文芸部に入ったの聞いてたし』
そして、なぜかからかうように奴に笑われた。青葉のやつまで一緒になって。あいつら、俺のことを何だと思っているんだか。
ともかく、若瀬たちが言うには、本当に何にもないんなら自然と鎮火するだろうとのこと。自分たちもその話になったらフォローしておくとも言われた。以上が、朝の時間の総まとめ、である。
「でもさ、誰が発信したかはわかってるんだよね?」
「ああ、それがな。確認したんだけど、忘れた」
「バカか、お前?」
「バカだね、浩介君」
「お前らなぁ……」
わざとらしくため息をつきやがった、友人二人をきつく睨んだ。
別に悪意があってやったことじゃないだろう。それに、若瀬の言っていたようにいずれ収まると思う。だから、正直誰がそんな噂を流したかはあんまり興味がなかった。写真を送信したアカウント名も一応見たが、そういう事情からすぐに頭から消えた。
高校生がこういうゴシップネタが好き、というのはよくわかっている事実だ。実際、俺も弓道部の連中とそういう話をした覚えがある。だから、別に気にしてなかった。これが、あからさまに、噂されるとまた別だろうけど。
「じゃあ、結局ただの部活の用事だったのな?」
「さっきからそう言ってるじゃんか、ユータ。そもそもお前、五十鈴にフラれたんだろ?」
うわー、容赦ねえなぁ、卓……俺は晴樹と一緒に気まずくなるしかなかった。いくら事実でも、それは流石にデリケートなこと過ぎるだろうに。このあっけらかんとした男に、俺は密かに舌を巻いていた。
ユータ――押元裕太もまた、俺たちと一緒に昼飯を食べていた。晴樹の隣の席だから、なんとなくこうなったわけだ。このイケメンは、なんだかんだその内面まで良い奴だった。
例えば、五十鈴に告白してダメだった、というのは、他でもなく本人が教えてくれたり。いつだったか、こうして弁当を食べている時に。そして、あんまり落胆していることもなかった。
「そうだけど、まだ一回だけだ。俺は全然諦めて――」
「こういう奴がストーカーになる。浩介、五十鈴にちゃんと忠告しておいた方が良いぜ」
「なんで俺がそんな面倒を……」
「だって
もっともらしい顔で、晴樹もまた頷いていた。
「ともかくだ。根津と美桜ちゃんが付き合ってないんなら、俺にもまだチャンスがあるっていうことだろ!」
力強くそう言うと、彼は勢いよく立ち上がった。そのまま、どこかに歩いていく。……目的地は、教室前方の五十鈴の席らしい。彼女は、とっくに昼飯を食べ終えて、読書に興じていた。またいつもの菓子パン二つとかなんだろう。……密かにそれが気になっているのは秘密の話。
「よくやるなぁ、押元君……」
「あんなんだから、未だに彼女いたことないんだぜ、あいつ」
「へー、そうなんだー」
興味がなかったので、適当な相槌を返したら、卓に呆れたような顔をされてしまった。
その後、がっくりと肩を落として押元裕太が戻ってきたのは、当然の帰結だろう。後で、どんな話がされたのか、五十鈴に訊いてみるか……覚えていたらの話だけれど。
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