第36話 意外な顔

 人通りの多い街の通りを、俺たちは小走りに急いでいた。ふとスマホで時刻を確認すると、三時半をだいぶ過ぎている。つまりは待ち合わせには完全に遅刻。

 しかし、目の前の信号が赤になった。仕方なく、足を止める。少しだけ、呼吸が乱れていた。じわりと汗もかいている。やはり、この一張羅で正解だった。普通の格好で、汗だくだなんて考えるだけで恐ろしい。


「ったく、お前のせいだぞ」

「……だって、つい」


 吐息まみれの言葉が返ってきた。見ると、五十鈴はそれなりに疲弊しているご様子。……いや、そんな全速力とかだったわけじゃないんだが。まあ、制服姿だし、色々としんどいんだろうな。

 それでも、その疲れ顔の奥に、どこかいじけたものを感じ取った。こいつもどこか反省するところがあって、ばつが悪いのかもしれない……なんて、ただの俺の思い違いだろうが。


 下調べを終えた時、実は時間的には全然余裕はあった。具体的には、三十分ほど。時間を潰すために、店内を散策することに。――それが失敗だった、というのは今だから思うことだ。

 俺たちはまず漫画コーナーに寄った。姉妹すみるりにそれぞれ新刊を買ってくるように言づけられていた。いつも思うが、ネットで買えよ、と思わないでもない。でもポイントが欲しいんだって。考えてみると、この時から予兆はあった。


 五十鈴は本なら何でも好きならしい。てっきり活字フレークだろうと思っていたが、漫画にも詳しかった。もうことあるごとに、足が止まる。そして、いちいち俺に紹介をしてくれるのだ。おかげで話が弾み、少しは奴との仲も深まった……気がする。とにかく、余計な時間を食ったのは事実だ。

 そして魔境小説ゾーンへ。正直、俺もちょっとだけ気分が高揚していた。五十鈴のやつ、本の紹介はうまい。その話に興味惹かれた。これが最後の分岐点。後はずるずると。ポケットのスマホが震えた時、ようやく俺は現実に帰ってきた。


『迷ったかい?』


 文芸部グループに、部長からの威圧的メッセージが届いていた。そして大慌てで書店を出て、楽しいウォーキングタイムが幕を開けたわけである。


「で、こっちの方角で合ってるのか?」

「たぶん」

「おいおい、頼むぜ」

「青になったわ」


 俺たちは再び早歩きを再開した。急ぐ必要はないのかもしれない。しかし、相手方の親玉は成尾美紅だ。果たして、いったいどんな罰が待ち受けていることやら。

 通りの角を一つ折れたところで、副部長殿はぴたりと足を止めた。どうやら目的地に着いたらしい……ビルの谷間で、明らかに喫茶店がある雰囲気じゃないんだけど。


「いすずさ~ん?」

「間違ったわ。こっち」

 俺の非難など、こいつにとってはどこ吹く風といった感じだ。


 くるりと振り返って、また五十鈴は進みだす。その足取りはあの書店の時と同じで、迷いがなかったが、しかしあの時とは違ってまるで頼りない。


 結局、俺たちが店に辿り着いたのはさらに十分後のことだった。あの後、三回ほど妙な場所に行きついた。最後には、スマホの地図アプリを使ったのはいうまでもない。

 五十鈴美桜は極度の方向音痴……それこそが、今日の出来事の中で一番俺が覚えておくべきことだろう。




「いやぁ、災難だったねぇ」


 くるくるとスプーンをカップの中で回しながら、朗らかに美紅先輩は笑った。先に入店していた他の三人もまた、微笑ましそうに口元を緩めている。 

 遅れた理由を話さないわけにはいかず。そこは五十鈴大先生に全てを、包み隠さず説明してもらった。幸いにして、暖かく受け入れてもらえたようで何よりだ。


 大通りから一つ外れた通りに面したその店は、外装からしてなかなかに落ち着いた雰囲気を醸し出していた。内装もアンティーク調で整えられている。ブックカフェ、というのか、壁際には中身の詰まった本棚が並んでいた。

 通りに面したボックス席の一角を、薫風高校文芸部で占領していた。大きな窓からは、外の光が容赦なく入り込んでいる。


「こうなること、わかってたんじゃないですか?」

「ハハ、ソンナマサカー」

「わざとらしくとぼけてる美紅ちゃんは放っておいて。やっぱりダメだったか、美桜ちゃん」

 静香先輩はくいっとメガネの位置を直した。


「すみません、面目ないです……」

「美桜先輩って、しっかりしてそうで、意外とそうじゃないよね」

「……の、のぞみちゃん、そういうことを言うのは」

「いや、文本の言う通りだ。全く酷い目に遭った」

 俺はうんざりした気持ちを込めて、しっかりとかぶりを振った。


「でもなぁ、根津君よぉ。もともと店を出た時間自体、遅かったんじゃないのかい?」

「――あっ」

「ではここは、ごちそうさまということ――」

「バカなこと言ってないで、さっさと始めようか。じゃあ、まずわたしたちから――」


 こんな時、本当に頼りになるのはやっぱり静香先輩だった。物騒なことを言い放とうとした自らの同学年を軽くあしらってくれた。流れるように、とうとうと己が戦果を述べていく。


 そのまま、意見交換を行った。全てが終わる頃には、窓から見える風景はすっかりとその色を変えていた。――ああ、日曜日が終わってしまう。胸に訪れるは、そんなもの悲しさだった。





        *





 とんとんと食卓に食器が並んでいく様を、俺は文庫本越しに眺めていた。今夜の食事当番は瑠璃。部活が休みだったとかで、張り切って準備していたらしい。

 集中力は完全に切れた。しばらくこうして、ずっと読書に耽っていた。そろそろ、栞を挟めて瑠璃の手伝いをしようかと思案していると――


「あれ、こーすけくんが読書だなんて珍しいねー」


 ハイテンションな長女がリビングに乱入してきた。自室にずっとこもっていたみたいだが、夕飯の臭いを嗅ぎ付けたのだろう。目を輝かせながら、俺の目の前に座った。


「何読んでるのー?」

 そのままニコニコ顔で手元を覗き込もうとしてくる。


 姉貴に見られるのが嫌で、俺は強く本を閉じた。右手に持ち替えて、遠ざける。左手で、しっしと払う仕草をとる。

今日買ったものだ。五十鈴に勧められて、つい財布の紐が緩んでしまった。最後のどんでん返しが素晴らしいというミステリー作品。帯にもそうした文句が踊っている。


「なんでもいいだろ」

「ケチッ! 教えてくれたっていいじゃない」

 姉貴は子どものような怒った顔をみせる。

「ちょっと二人とも、手伝ってよ〜」

 妹(るり)の声はとても不満そうだった。


 しかし、思わぬところから助け舟がやってきたものだ。当人の思惑としては、そんなつもりは毛頭ないだろうけど。

 のっそりと、俺も姉貴も立ち上がる。いつの間にかカウンターに並んでいた品々を、手分けして食卓へと運んでいく。


「それで? 今日は楽しかった、お兄ちゃん?」

 布巾で手を拭いながら、瑠璃がキッチンから戻ってきた。

「なんだよ、お前まで」

「柄にもなく本を読んだりしちゃってさ~。それ、あの本屋のブックカバーじゃん」

「ほんとだ~、瑠璃ちゃん、よく気づいたね~」


 二人の視線は机の上の本に注がれていた。さっと、腕で隠したものの姉妹のにやつき具合は収まらない。むしろ、悪化したともいえる。


「これは何かありましたな、るりどの!」

「そうですな、すみれどの!」

「やめろっ、まったく……」


 なおも悪ノリはとまらない。この二人に徒党を組まれると、もはや俺としては抗いようがない。

 密かに唇を尖らせながら、あえて尊大な態度で俺は席に戻った。狙い通り、姉妹たちはちょっと拍子抜けしたような顔をする。そのまま静かに食卓についた。


 別にこの本を買ったのは、ただの暇潰しのつもりだった。特別な意味は何もない。面白そうだと思ったから。それだけ。

 しかし、あいつに話を聞かなかったら、決して出会うことはなかっただろう。それだけはあいつに感謝だ。だが、例えあいつ以外――例えば他の文芸部員に言われたとしても、同じ選択をした気がする。結局、きっかけでしかないのだ、やつの言葉は。


 いただきます、誰からともなく食事の始まりを告げた。俺もそれに続いて、目の前に用意された妹の手料理にてをつけていく。メインディッシュはハンバーグと――


「あれ、これわたしも持ってる……」


 見上げると、姉の手には見覚えのあるブックカバーつきの文庫本が握られている。そしてそれは捲られていた。


「早く言ってくれよ、菫お姉ちゃん……」

「だって、こーすけくんは活字アレルギーだと思ってたから」

「――ぷっ! お姉ちゃん、それ反則~」

「瑠璃ちゃんはなに笑ってんのかな?」


 妹に対して睨みを利かせる。その笑顔はしっかりと消え失せたものの、代わりに俺が姉に窘められることになるのだった。

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