第31話 誕生、新生文芸部!

 その女の子の名前は、三田村詩音みたむらしおんといった。一年八組――去年の俺と同じだ。だから、どうしたと言われればそれまでだが。

 三田村は本当に大人しい少女だった。前髪はすっぽりとその眉毛を隠している。瞳の奥の光が淡いため、どこか自信無さそうな印象を受けた。そして、かなり小柄だ。小動物っぽいか弱い雰囲気が漂っている。


「詩音ちゃん、かぁ。素敵な名前だね――って、ごめんね、なんか勝手に名前で呼んじゃって」

 現在ここにいる唯一の三年生ははにかんだように笑う。


 ぶるぶると、最下級生は頭を振った。その顔はとても緊張しているのがわかる。

 とにかく、これにて自己紹介タイムは幕を下ろした。すると、たちまちに気まずい沈黙がこの狭い部屋の中に広がっていく。

 部室にいるのは、名前通り物静かな会計。そして、なんちゃってクール系副部長。あと部外者が一名。凄まじい組み合わせである。新参者もまた、控えめなタイプだし。そりゃ、こうなるのもよくわかる。


(みくぅーっ! 早く来てくれーっ!)


 俺はそんな気分だった。最強のムードメーカー成尾美紅をこれほど求めてやまないのは、今まで一度たりともなかった。いなくなって初めてわかることって、あるよね……。


 ちなみに、部長は早速新入部員を文芸部の活動に巻き込んだ。『それを人はブラック企業だというのだ!』という、セリフが脳内に聞こえる気がするが、私は関係者ではないので知ったことではありません。労基……この場合は顧問の先生にでも苦情を入れればいいのかな。未だに誰か知らないけれど。

 とにかく、四階のどこかで勧誘に勤しんでいるはず。まあさっき、連絡を入れたらしいから、もうすぐ現れてもおかしくはないが。


 現在の構図は、既存部員と新入部員(仮)がテーブルを挟み込んで向かい合っている。俺は一人、遠巻きにその不思議な緊張感を見守っていた。


 そして――


「たのもーっ!」


 大きな女性の声が狭い部室を揺るがした。そして、ばたんと扉が閉まる音が遅れて聞こえてくる。ばたばたと、一人の女子生徒が内部まで侵入してきた。少し長身の活発そうな女子も続く。

 三田村はちょっとその小柄な身体を震わせた。唐突なその騒がしさに驚いたのかもしれない。この小動物系女子は、闖入者に対してどこか怯えているようにも見えた。なんて素敵なファーストコンタクトだろう! 俺は密かに顔をしかめた。


「ほうほう、この子が第二の新入生? ――私、成尾美紅じゃ。一応、この部活の長をやらせてもらっておるよ。よろしくの。そして、こっちが――」

 大仰な口調で話しかけながら、その三年生は自らの背後に目をやった。

「あたし、文本望海! 同じ一年生だよ。よろしくねっ!」

 本当にこの子ははきはきとしっかり喋るなぁ、と俺は少し感心していた。


 憚らない言い方をすれば。美紅先輩はウザい系。そして、文本は元気いっぱい系。ともに陽気なタイプだから、今も、好奇心を抑えきれない瞳で、新しい入部希望者のことを眺めている。初対面だというのに、全く気後れしているところはないようだった。

 そんな二人に少し警戒心が薄れたのか。三田村は少しだけ頬を緩めた。そしておずおずと口を開くと、ただたどたどしい口調で自己紹介をする。それはさっき披露したものとほとんど同じ内容だった。一言一句かはわからない。だって、俺がそんな細かいとこまで覚えてられるわけないからねっ!


 これでようやく部員全員の顔合わせが終わって、美紅先輩たちは唯一空いていたソファを占拠した。真正面の俺は少しだけ会釈をする。しかし、相手の顔はすぐに一番の関心事の方に向いた。


「しおん、しおん……じゃあ、しおしおだねっ!」

「し、しおしお?」

 謎の言葉を浴びせられた三田村はぎこちなく首を傾げた。

「もうっ、この子はすぐに変なこと言って。詩音ちゃん、困ってるじゃない! ――ごめんね、馴れ馴れしくて。嫌だったら、はっきり言っていいんだからね?」

 

 その言葉にこくりと五十鈴も頷いた。もしかすると、というあだ名に想うところがあるのかもしれない。これは何かに使えそうだと、俺は心のノートの片隅にしっかりメモを取っておくことにした。


「い、いえ、そんなことは……。ただ、いきなりで驚いた、というか」

「ほら、しおしお、そこまで気にしてないじゃん。ほんと、しずかっちはがみがみうるさいなー。名前と真逆!」

「それ、どういう意味かな、美紅ちゃん?」

 同級生の一言に、木ノ内さんはむすっとした表情をする。

「うるさいのは、美紅先輩では?」

「あははっ! 五十鈴先輩、おもしろ~い。――ねえ、三田村さん。一年生同士、仲良くしよーね! あっ、あたしのことはのぞみ、でいいからね」

「……うん。ありがとう、ふみも――」

「のぞみっ!」

「っと、ごめんなさい。……こちらこそよろしく、のぞみちゃん」


 三田村が畏まった表情で深々と頭を下げると、部室が一気に温かな笑い声に包まれた。そんな新生文芸部の誕生の瞬間を見ながら、俺は一人そっと息を漏らす。これでお役御免だ、と。

 ふと顔を上げると、誰かの視線を感じた。しかしそれは気のせいだったらしい。現に、文芸部員たちは顔を突き合わせて談笑に応じているのだから――





        *





 あれからもう一週間が過ぎた。学年が変わってから三度目の金曜日。俺はすっかり元の穏やかな生活を取り戻していた。すなわち、放課後になればまっすぐに帰宅して、眠りにつく時間まで誰に気を遣うこともなくのんびり過ごす。

 友人たちは部活ガチ勢が多いから、しばらく誰とも遊んでいなかった。姉貴は相変わらず、大学とバイトで忙しそう。妹は……弓道部に入った。毎日活動に一生懸命取り組んでいる。だから、基本的に学校以外では俺は一人で過ごしていた。


 別に部活を辞めてから、それはずっと変わらない。そりゃ、前は母さんが家にいたけど、俺は部屋に籠ってばかりだったから大差ない。

 なのに、どこか空虚に思ってしまうのは、きっと今までずっと騒がしかったからだろう。ただの反動だ。もう少しすれば、落ち着くだろう。そう思っていたけれど――


「どこまで行くんだよ?」

 俺の問いかけに先を行く少女は何も答えなかった。


 教室掃除を終えて廊下に飛び出たところ、スクールバッグをぶら下げた五十鈴美桜に捕まった。一言、話があると言われた。もちろん、大人しくそれに従う根津浩介様ではない。抵抗を試みたが――


『盗撮、覗き、壁に激突――どれがいい?』


 あいつはにこりともせずに、俺にしかわからない脅迫の言葉を口にした。ということでこうして、放課後の少し寂しげな校舎の中を歩いていた。


 いったいどういうつもりだろう。どんな話が待っているのか。俺には全く想像がつかなかった。心当たりは一欠けらもない。あれから、ヤバい行為は一つもしていない。どこを取っても、俺は真面目な学生――の割には、クラスメイトに白い目で見られることが多いけれど。

 第一、こいつとはここずっと話していない。新歓が終わってから一度も。少なくとも、俺の方には何の用事もなかった。図書当番もなかったし。


 やがて彼女は北階段を上っていく。その背中から伝わってくる凛とした雰囲気は、今までの出来事が全て嘘だったような錯覚を起こさせる。


「――覚えてる?」


 やがて五十鈴は踊り場でとまった。ゆっくりとこちらを振り返る。あの長くて艶のある黒髪がふわっと宙を舞った。


「よくある邦楽の歌詞みたいだな」

「覚えてないのね」

「できれば封印しておきたい記憶なんだが」


 始業式の日の出来事。俺は二度も恥をかかされた。エロ本を買おうとしたのがバレたこと。そして、盛大に人の名前を読みが違っていたこと。

 忘れられるはずのない苦い敗北の記憶――しかし、それがなんだと言うんだろう。


「もしかして、俺はもう一度エロ本を買おうとしたのか?」

「そうなの?」

「じゃあ誰かの名前、また読み間違ってた、とか」

 今度も五十鈴は首を傾げた。


 どちらも違うらしい。まあ当然か。俺にそんな覚えはない。……後者は自分で気づきようがないけれど。つきぎめか、げっきょくか――若き日のことを俺は思い出した。


「じゃあ何の用だ?」


 彼女は答える代わりに、まず鞄を床に置いた。そしてその中から一枚の白黒の紙を取り出す。ちらっと見ただけで、その正体を俺は理解した。

 文芸部副部長は、それを俺に向かって突き出した。一週間前に、嫌というほど見たものだ。ぴんとしっかり張っているのが、なんともこいつらしい持ち方だと思う。


「ビラ配りは終わったんじゃないのか?」

「ええ、新入生に向けては、ね。――同級生に配る分には何の問題もないわ」

 

 俺は文芸部のビラと副部長の顔を見比べた。いったい何を考えているのか、その無表情からは何も読み取れなかった。


「キミのおかげで、何とか文芸部は存続できそうよ」

「俺は何もしてないさ。ただ、武器を持って突っ立ってただけさ」

 それに対して、彼女は少し口角を緩めるだけだった。

「とにかく。エッチな本の件は忘れます」

「は、ってことはまだ残ってんだな……さっきなんか一つ増えてたし」

 苦い顔で呟くと、五十鈴は真面目な顔して頷いた。


「で、そんなことを言うために呼び出したのか?」


 少し拍子抜けしながらも、俺はそっとビラに手を伸ばす。きっと、彼女なりの感謝の示し方なのだろう。さしずめこれは報酬か。一人勝手に納得することにした。

 

 しかし――


「なんだよ?」

 指が触れるか触れないかのところで、彼女は腕を上げた。


「私は文芸部に入ってて、あなたは今帰宅部。……だよね?」

「当たり前のことを意味深に言う、っていうのがお前のマイブームなのか?」

「――根津浩介君、よかったら、文芸部に入らないかしら?」


 五十鈴美桜はどこか緊張した風に言葉を紡いだ。そして、改めてビラを差し出してくる。その紙を俺は散々見てきたはずなのに、今まで全く違った風に見えた。

 

 改めて、クラスメイトの顔を見ると、いつの間にか満面の笑みがそこには宿っていた。先週の金曜日に、俺はそれを見ていた。ただ、あの時とは立場が違う。あの時は、臆病な入部志望者に向けられたものを、第三者として傍観していた。それが今は、他でもない俺にしっかりと向けられている。


「俺は、そこまで文芸に興味ないぜ?」

「うん、知ってる。この間、国語の時間寝てたよね?」

 そんなとこまで見られてたのか、ちょっとだけ恥ずかしくなった。

「そんなこと言ったら、美紅先輩も文本さんもそうよ。雰囲気に惹かれたんだって」

 他人事のように、彼女は続けた。笑顔は消えていたけど、生き生きとはしている。


 その瞬間に、俺は自分が受け入れるつもりだということに気が付いた。もう二度と部活動はやらないと思ってたのに、そんな決意は簡単に揺らいだ。

 たぶん活動内容じゃなくて、俺もまたに当てられたのだろう。……別に弓道部の雰囲気が悪かったと言いたいわけじゃない。あそこもまた、居心地はよかった。けれど、弓に対する熱意は一欠けらも残っていなかった。


 どの部活も同じだと思った。いつかやっていることに嫌気がさしそうだと思ってた。だから運動部は敬遠した。文化部はそもそも元々好きな奴だけがやるもんだと思ってた。

 でも、これならちょうどいいのかもしれない。暇を持て余していたのは事実なんだから――


「……いつ辞めるか、わかんねーぞ?」

「それはその時考えるわ」


 俺はビラを受け取った。その時に実はその下にもう一枚紙が重なっているのがわかった。


 入部届――その名前を見て、俺は思わず苦笑する。五十鈴もまたどこか微笑ましそうに口角を上げる。


 こうして俺は秘密を知られた立場から、同じ部活の仲間という立場に昇格することになった。まあ向こうは副部長で、こっちは新入部員。力関係ははっきりとしているが。


 ――ともかく。今回の経験で俺が学んだことは、五十鈴美桜は意外とよく笑うんだ、ということだった。……全然弱みじゃねえな、これ。

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