第22話 眠りし者

「――という感じなんだけど、わかったかな?」


 図書室とは本来静かな場所だ。基本的にはお喋り厳禁。しかし、今目の前にいる女性は滔々と言葉を立て並べていた。周囲への配慮の表れか、そのボリュームは抑えられていたけれども。

 その主である司書の中尾潤子――通称じゅんこさん――は、背が低く丸顔だから、どうにも子どもっぽい感じがする。しかし、うちの連中とは明確な違いがあった。しっかりと化粧がなされているので、なんとか女子大生くらいの雰囲気には仕上がっている。

 ほんわかとした第一印象通り、彼女の言葉遣いは柔らかく、説明もすっと頭に入ってきた。おかげで、今のところは疑問なし。未知の業務に対する不安感は最小限に押しとどめられている。


 しかしそれでも、自分がこの空間にいる場違い感には未だに慣れてはいなかった。根津浩介にとって、こういう場所はもっとも縁遠い。


 月曜日の放課後は、いつも誰よりも早く帰る心づもりでいた。学生にとって一週間の始まりだからこそ、朝からしんどい思いで登校しているわけで、その疲労度はほかの人は比べものにならない。真っ先に自室の部屋のベッドにダイブして、微睡みたいのだ。


 だが、そうはいかなかった――


『根津君、今日トウバン』

 帰りのホームルームが終わってすぐ、五十鈴が声をかけてきた。

『俺、ピッチャーじゃないぜ、五十鈴監督!』

『あの、何の話をしてるの?』

『だって、登板って』

 びゅっと球を投げる仕草をした。

『図書当番のことよ』


 すげなく事実を告げると、五十鈴はすっと席を立った。そのまま、荷物を纏めて颯爽と教室を出て行ってしまう。


 正直な話、完全に忘れていた。間延びした土日を挟んだせいか。そもそも、自分が図書委員だって自覚がなかったせいかもしれない。形だけの立候補だが、実質的には押し付けられたみたいなものだったし。


 ――いっそのこと、サボってしまおうか。そんな悪魔からの甘い囁きが脳裏に一瞬響き渡る。しかし、それは少しも検討することなく却下した。

 経緯いきさつはどうであれ、俺は委員。理由もなく欠席したら、後から叱責を受ける。それはとても面倒くさい。どんなペナルティがあったもんか、わかったもんじゃない。

 さらに、五十鈴が俺の弱みをたちまちに放流する可能性もあった。あいつの交友関係は、文芸部以外全く明らかになっていないが、クラス中に噂が伝播するのは確実だろう。


 だいたい、どちらにせよ、今日はすぐには帰れないのだ。新歓特別週間(美紅先輩命名)と題して、文芸部は今週は毎日活動するらしい。手伝うといった俺も、もちろん顔を出すよう言われている。


 なので、こうしてあの女と二人、図書室のカウンターに並んで座っているわけだった。Lを逆の字にした形。角度的に閲覧スペースは見にくいものの、書架スペースには人がまばらにいるのがわかる。


「特にないです」

 五十鈴も隣で軽く頭を振った。

「うん。なにかあったら、遠慮なく訊いてね? ――もちろん、美桜ちゃんも」

「はい、ありがとうございます」

 

 素敵な笑みを残して、じゅんこさんは自分の席へと戻っていく。俺たちとは別の面が彼女――学校司書の居場所だ。おすすめの本とか紹介してくれるんだって。

 しかし、優しそうで良かった。これでミスする度にキツイ罵声を浴びせてくるようなスパルタン教官タイプだったら、俺のメンタルは瓦解していた。……いや、もしかすると新しい性へ――やめよう、開けてはいけない扉だ、これは。そういうのは周五郎にでも任せておけばいい。


 しかし、業務終了まで後一時間半はあるな……。これはやばい。開始早々、早くも退屈な気分になっていた。さっさと一回目のピッって作業したい。なんか、ぱーそなるこんぴゅーたーと連動してるらしいっすよ? さっき実演してもらった。

 だが、今目の前にあるモニターにはただ無機質な管理者画面が広がっているだけ。変なことをするな、と釘は刺されている。本来ならば、遊びにも使える機械のはずなのに、これじゃあただの箱じゃないの!


 ずっと液晶と睨めっこするのもどうかと思ったので、ちょっと隣の少女の様子を窺ってみた。やはりこういう時は、雑談に限る。少しだったらいいってさ。それでも、なにか嫌な予感はしながらも横に顔を向けると――


 ペラ……ペラ……。


 文学少女の五十鈴さんは、しっかりと持参した本を読んでましたとさ!





        *





「……くん?」


 耳元で女性の囁き声がした。そして、その誰かに身体を揺すられる。


 微々たる振動だったものの、それで意識は覚醒した。頭は多少ぼんやりとしている。すぐには自分の状況に理解が追い付かない。

 目を開けて、きついまばたきを繰り返すと、ようやく自分が眠っていたことを理解した。……絶対にそんなことをしてはいけない場所で。


 居眠り後の目覚めのすっきりしなさは異常だと思う。おまけに変な姿勢をとっていたらしく、なんだか首の辺りが痛い。モニターの右隅を確認すると、閉館時間が間近に迫っていた。

 べ、別に全部の時間寝ていたわけじゃないんだからねっ! たぶん、寝ていたのはニ十分くらいか。最後にパソコンを操作した時刻と、眠気と死闘を繰り広げていた時間を勘案するとそのくらいになる。

 あまりにもカウンターに来る人がいなさすぎて、ついに眠気すらも覚えてしまった。ちょっとだけだからと、腕組みしながら目を瞑ったのが運の尽きだったわけだ。


「おはよう」


 横から平坦な声が聞こえてきた。じっと五十鈴は俺の顔を見つめてきている。しかしそこに感情と呼べるものが見当たらないので、とても不気味だ。


「おはようございます、お嬢さん。――俺、結構長く寝てた?」

「ええ。とても気持ちよさそうに」

「……いびきは?」

「かいてなかった」

 そう言うと、彼女は再び顔を前に向けた。


 ふぅ。ひとまず余計な恥はかかなかったらしい。致命傷で済んだな。よかった、よかった。これ以上、この女に優位に立たれたら、俺に待っているのは素敵な奴隷ライフだろうから。


 ぐ~っと身体を伸ばす。バキバキバキと全身が楽しげな音を奏でる。人間楽器根津浩介、みたいな二つ名で売り出そうかしら。そして、痛気持ちよさが駆け抜けていく。

 まだ気怠さを感じながら、背もたれに俺は身体を預けた。一つ大きく欠伸をして、さっと周りに視線を這わす。果たして、今はどれくらいの利用者がいるのか。そして気が付けば、じゅんこさんがいなくなっている。さて、どこに――


「閉館の時間となりました。みなさん、速やかに退室をお願いします」


 スピーカーから、落ち着き払った女性の声が聞こえてきた。すぐに、その主が今俺が気にかけた人物のものだと悟る。

 遠くの方から、物音が聞こえてきた。閲覧スペースにいた生徒たちが帰りの準備をしているのだろう。ぼんやりとその音に聞き入っていると、五十鈴がいきなり席を立った。


「根津君は書架の方、見て回って。私は向こう行ってくる」

 右斜め前の方向を指しながら、彼女は俺を見下ろしてきた。

「残ってる奴がいないか、確認しろってことか?」

「そういうこと」


 キャスター付き椅子を引いて、俺も腰を上げる。少し首を回しながら、本棚が奇麗に立ち並ぶ方向へと足を踏み出した。


 一つ一つのコーナーを丁寧に見て回る。当たり前のことだけど、結構たくさん本があるんだなぁ。朝読書くらいしか、本に触れる機会がない俺としてはなんだか遠い世界のように思えた。

 誰もいない。どこまでいっても静かな空間。神秘的だが、少しだけ心もとなさを感じてしまう。なんとなく寂しい気分になって、自然と足早になる。


 ふと、文芸部の先輩たちのことが頭を過った。今日は新入生が来たんだろうか。美紅先輩はあの騒々しいノリを容赦なく発揮して、静香先輩がそれを穏やかに宥める。そんな光景は、簡単に想像できた。

 なぜそんなことを考えたのか。きっと、この静謐さがそうさせるのだろう。世界から人が消えたような錯覚。図書室は俺にとっては異世界だった。ひたすらに疎外感を覚えてしまう。


 最果てまで行きついて、のろのろとカウンターに戻る。もう五十鈴もじゅんこさんも戻ってきていた。二人の姿を見て、少しだけほっとする。


「お疲れさまー」

「お疲れ様です」

 司書さんに向かって、俺はぺこりと頭を下げた。


「誰もいなかった?」

「はい」

「うん、じゃあ今日のお仕事は終わりね。あと、あたしが閉めておくから、二人は帰ってしまって大丈夫よ。ありがとうございました」


 じゅんこさんからお墨付きをいただいたことで、俺はさっさと家に帰ることに。五時を少し過ぎている。きっと文芸部ももう終わっていることだろう。

 カウンターの裏側からスクールバッグを持ち出した。ほぼ同じタイミングで五十鈴も続く。どうやら共にこの部屋を出ることになるらしい。とにかく、じゅんこさんに会釈をしてから、俺は出口に近づいた。


「根津くん、次は寝ないでね?」

 背中の方から、くすりと微かな笑い声が聞こえる。

「……すみませんでした」


 どこか軽い口調だったから、怒ってはいないのだろう。しかし、ばつが悪いのは事実なわけで、俺はちょっと焦りながら部屋を飛び出した。


 後ろ手で、五十鈴が扉を閉めた、廊下はひっそりと静まり返っている。完全下校時刻にはまだ早いので、残っている生徒はいるはずなのに、その気配はここら辺りにはなかった。


「先輩たち、残ってんのかな?」

「行ってみる?」


 彼女の問いにこくりと頷く。すると、五十鈴は部室の方に歩き出した。俺はその後ろに続く。相変わらずこの女の歩く姿は凛々しいな、と思いながら、スマホの電源を入れた。


 俺が通知を確認したのと、彼女が部室前で立ち止まったのはほぼ同時のことだった。五十鈴はノブに手を触れる。そのままガチャリと捻ったが――


「……開いてない」

『帰ったら覚えておいてね、バカ兄貴!』


 流れを追うと、どうやら妹は早くも文学部見学をしようとしたらしい。俺が反応しないから、断念したようだが。


 ――明日はとても賑やかになりそうだな。鍵のかかっている部室の前を、俺と五十鈴はそっと離れる。そのまま、校門で別れるまですずっと無言だった。

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