第9話 反撃の狼煙は風に散りました
しかし、昨日も思ったことだが、自転車が使えないのは痛い。バスだと余計に時間がかかる、というのもあるが、なにより混んでいるのが非常に嫌だ。運転手さんの機嫌が悪かったりすると、もう最悪! こっちだってねぇ、せいいっぱい詰めてるわけですよ。後はヤモリよろしく天井に張り付くしかない。
結局、瑠璃と一緒に学校に来ることとなった。まあ仕方ない。同じ時間帯に家を出て、同じくバス通ということは必然的にそうなる。自然の摂理、この世の理、真なる帰結、エトセトラ。
教室に入ったのは八時二十分。ほとんどの生徒は登校済み。その割に空席が目立つのは、自席を離れてルール無用のデスマッチ――もとい、クラスメイトとの会話に励んでいるからだ。なので、室内はとても騒がしい。
前席の主はまだ来ていない。もしかしたら朝練かも。昨日みたいくつかの坊主頭のやつらも見当たらないし。結構ギリギリで入ってくるからな、そういう連中は。
左隣に目を向けても空。五十鈴美桜という女、てっきり誰よりも早く教室に来て、朝の儚い陽光に照らされながら読書を楽しむ。そんなテンプレ的令嬢だと思ったのに。まあ来てないならそれでいい。少しだけ、奴の寿命が延びただけのこと。舐めさせられた苦渋、百倍にして返してやる。……利子は踏み倒そう。
「おはよう」
「おはよう……ええと、根津くんだっけ?」
「そうそう。お前は……
「いや、全然違うんだけど……
あまりにも手持無沙汰だったので、一人ひっそりとたたずんでた右隣のやつに話しかけてみた。眼鏡をかけたちょっと気の弱そうな男子。声はちょっと高い。
「悪いな、こっちは覚えてもらってたのに」
「いいよ。僕だって、他の人はまだ曖昧だし」
「じゃあなんで俺だけ……まさかっ! いや、気持ちは嬉しいんだけど、まず友達からというか」
少し恥ずかしさを覚えて、もじもじしながら答える。
「……本当に変な人だね、根津くんって」
「そんな褒めるなよぉ」
「たぶん他のみんなも君のことだけはばっちり覚えてると思うよ。なんたって、あの五十鈴さんと同じ委員会なんだから」
「まーた、それかぁ。大人気だなぁ、あいつ」
正直ちょっと食傷気味だった。そんなに羨ましいなら、いくらでも代わってやるというのに。こちとら面倒くさい仕事を押し付けられて憂鬱でしかない。
「ほかの話題はないのかよ」
「うーんと、あっ、そうだ。昨日、入学式の後に、妖怪土下座男ってのが現れたらしいよ。新入生のスカートの中覗いてたとか」
「へー、とんだ不届き者がいたもんだな。あるいは勇者か」
「僕らと同じ学年だってさ。怖いよねぇ」
俺以外にも土下座の使い手がいたとは……おそるべし! しかし、誠意を見せるはずの行為をそんな邪悪なことに使うなんて許せない。もし、瑠璃がその毒牙にかかろうものなら……俺はその犯人を絶対に許さないだろう。
その流れで、お互いどこか探り探りに会話を進めることに。この男、卓球部らしい。確かにぽいっちゃぽい。うちの学校、意外と部活動参加率は高いんだっけ。七割だったか、八割だったか。
そんな風にして時間を潰していると、まもなく我が愛すべき友の卓君がやってきた。かすかに汗をかいている様子を見ると、やはり朝練だったらしい。席に着くなり、後ろに身体を向けてくる。
「おはよう、卓」
「おう、おはよう。久米もおはよう」
「あ、うん。おはよう、ええと……」
「ヌーヴォー・すぐ――」
「沼川卓だ! 人の名前を勝手に芸名っぽくすんじゃねえ」
ぱしんと、頭を叩かれた。暴行罪だ! 至急検察に報告しないと。
「そういや、お前はちゃんと小渕沢君のこと覚えてんのな」
「いや、だから久米だってば……」
「ほんと、お前の頭どうなってんだか。まさか、四階の廊下で土下座かましたのお前じゃねえだろうな?」
「失敬な! 覗き魔扱いすんじゃねーよ! ってか、お前も知ってんのか……。いくらなんでも広まりすぎじゃない?」
「被害者がとびきりかわいい一年生の女子らしいからな。勧誘にいった連中が大騒ぎしてた」
「へ~、そうなんだぁ」
興味なさそうな相槌を小渕沢改め久米がした。
「ほれ、二学年のマドンナが現れたぞ」
俺は前の方に顎をしゃくって見せた。
相変わらず、長い髪を靡かせて涼しげな表情で教室に入ってくる。その澄ました様子はとても気品があるといえた。しかしそれが虚勢のものだ。それがこれから崩れると思うと楽しみである。
「いいなぁ、五十鈴さん」
「斜め後ろに同じく」
もうすでにこいつらはメロメロになっている。
「そんなに気になるんなら、話しかけてみればいいじゃんか」
「い、いや、とても畏れ多くて無理だろ」
「……相手は同じ同級生だと思うけどねぇ」
馬鹿らしくなって、俺はかぶりを振った。
そのまますっと五十鈴は俺の隣の席に座った。ちょっと空気が変わった気がする。少なくとも、いい匂いが微かに漂ってきた。
ふと時計を見ると、朝読書が始まるまであと一分もない。ずいぶんとギリギリに登校してきたもんだ、この女……。おかげで計画が狂ってしまった。まあいい。まだ時間はあるさ。焦るな、浩介。急いては事をし損ずる。好きなものは最後に残すタイプなのだ、俺は――
*
四時間目は普通の授業だった。三時間目までは休み明けの実力テスト。春休み課題の確認の意味も含むから、その内容は殆ど宿題と同じ範囲。だから普段のものに比べれば異様なほどに簡単。ケアレ・スミスさんが俺に憑依しなければ、高得点は固い。……ただし数学はいつものように嫌がらせを受けたため、かなり点を落としたと思うけど。大学の過去問を出すのはやめろ!
テスト用の座席を作った関係で、俺と五十鈴は離れ離れになった。それはちょうど天の川の物語のように。――流石に無理あるな、それ。愛し合ってねえし、一年に一度しか会えないわけじゃねえし。ともかく、彼女のバイトの件を詰問する機会は訪れなかった。
しかし今は違う。号令を口パクでして着席しながら思う。隣にはばっちり五十鈴美桜。これから始まるは昼休み。時間は十分すぎるほどある。
「こんにちは、五十鈴」
「……?」
少し息を漏らして、奴は不思議そうに首を傾げた。
「だから、こんにちは!」
「……こんにちは、根津君。どうして、そんなにニヤニヤしているのかしら?」
彼女はまだ首の角度を戻さない。
「ふっふっふ、俺はお前の秘密を知っている!」
「な、何言ってんだ、浩介!?」
「そうだよ! 五十鈴さんに秘密なんてあるわけが……」
「シャラップ! お前らはこいつの見かけに騙されている! すました顔しながら、こいつはとんだ大悪党なんだ!」
「……そうなの?」
五十鈴はこの期に及んでとぼけてやがる。
「そうだよ!」
俺はちょっとむきになって答えた。
「ひみつ、ひみつ……」
それは可愛らしい呟きだった。そして、彼女は腕を組んで深く何かを考え始める。口元を左手で覆って、そっとその瞼が閉じた。
「いやぁホント可愛いなぁ、五十鈴! 写真に収めたいくらい!」
「……それは流石にどーかと思うよ、卓くん」
「変態みたいだな……あっ、昨日の妖怪土下座男ってお前なんじゃ?」
「バ、バカ言うなよ! 俺にはアリバイが――」
「ヨウカイドゲザオトコ?」
その時、五十鈴がまたしても首を傾げて、謎の呪文を口にした。
「知らないか? なんでも昨日、入学式の後、四階廊下で土下座するふりをしてスカートの中を覗いた奴がいるらしい。気持ち悪いよな」
「……それ、根津君じゃないの?」
「――はい?」
一瞬にして空気がガラッと変わった。友人たちは怪訝そうな眼差しで俺のことを見てくる。たちまちに心拍数が上がっていく。
「ち、違う、濡れ衣だ! こいつが俺を陥れようと――」
「私、あなたが一年生の女の子に向かって土下座してるの見たけど」
その時、根津に電流走る――! って、こういう状況のこと言うのだろうか。とにかく、その冷めた物言いに、俺は完全に衝撃を受けていた。
「おい、浩介! どういうことだ!」
「浩介くん……ちょっと頭がおかしいなと思ったけど、それはダメでしょ……」
身を乗り出して、詰ってくるサッカー部。俺の肩に手を置いて、軽蔑したように首を振る卓球部。四面楚歌――後ろは上着掛けと棚だし。
「ま、待て、俺はただ妹にだな――って、どこ行くんだ五十鈴?」
突然、すっと奴は席を立ちあがった。何やら包みをその手に持って。ふわりと彼女の身に纏う香りが広がった。
「用事あるから。話は終わったよね? 私には秘密なんてないもの。キミとは違って」
平坦な口調で言うと、彼女はそのまま流れるように歩き出した。俺の前を通って、後ろの扉から教室を出て行く。
最後の発言は、俺の友人たちを存分にヒートアップさせた。追及の手が激しくなる。不倫会見に臨む芸能人の気分だ。
くそ、五十鈴美桜め……はぐらかしやがって。やはり必要なのは言い逃れのしようのない証拠。いいだろう、そっちがその気なら目にもの見せてやる! あの余裕綽々な表情が絶望に歪むのが楽しみだ。
「ふふっ。アハハッ! わーはっ――」
「うるせえ、なに不気味に笑ってんだ!」
ばしん。……その打撃は朝の時より威力を増していた。腕を上げたな、卓。
しかし、妖怪土下座男の正体が俺だったとは……幽霊の正体見たり枯れ尾花。事実は小説より奇なり。木乃伊取りが木乃伊になる。果たして、正しいものはどれか。
噂に尾びれ背びれはつきものだけど、誰がスカートの中なんて覗くかっての! 相手は妹だし、そうじゃなくてもそんな卑劣な真似は、わたくし大嫌いです。
長い時間をかけて二人の誤解は解けたものの、この件もまた封印しておくべきだろう。あーあ、どうしてこう俺にばっかり弱みが増えてくもんかねぇ。
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