第8話 姉と妹はたぶん常識人
四階廊下は、朝の時とは違ってかなり騒がしかった。あの時の静謐さはどこへやら。本当にうるさい集団の中にいると、確かに、がやがやって感じに音が聞こえてくるよね。
辺りには、希望に顔を輝かせた新入生がうじゃうじゃいる。まるでバーゲン会場みたいだな、このごった返した感じ。だが、この光も一年経たないうちにくすむのだ。せいぜい、今のうちに楽しんでおくがいい。俺はそれを横目に、反対側の壁に寄りかかりつつ一人ほくそ笑む。
「ふふふ、あはは、わーはっはっは!」
「……お兄ちゃん、キモいんだけど」
近づいてきた
「待て、落ち着け。あからさまに距離を取るな。――オーケー、そっちがその気ならこっちにも考えがあるぜ!」
俺はわざとらしく手に持ったトートバッグを自らの頭上に掲げた。わざわざ袋を可能な限り縮めて。……ところで俺と妹の身長差は軽く三十センチはある。
「これがどうなってもいいのかなぁ?」
中身は彼女が今日配られたシラバスやその他大切なものの類だ。
「ちょっと、やめてってばぁ」
ぴょんぴょんと奴は跳ねるものの、辛うじてかするばかり。顔を真っ赤にして一生懸命。しかし、そんな風にしてるのを見ると、本当に子どもみたいだな。少なくとも高校生じゃない
圧倒的に俺の方が有利だから、奴に勝ち目はない。意地悪く笑いながら、俺は身体を動かす。参ったか! この大魔王に逆らうからこうなるのだ、馬鹿な妹め。
「――お姉ちゃんに言うから!」
「後生ですから、それだけは勘弁してください、瑠璃様」
俺はすかさずその場に平伏した。我ながら素早い動きだったと思う。しかし、
すぐ目の前には、血の繋がった妹の膝頭があった。いっちょ前にタイツなんか履きやがって、お兄ちゃんは悲しい。
「うわっ! ちょっとこんなとこで土下座しないでよ!」
怒る妹をよそに、俺は一つのことが気になっていた。
「……瑠璃。ちょっとスカート丈が短いんじゃ――」
「変態! ばか兄貴! もうマヂムリ、通報しよ」
彼女はすかさずスマホを取り出した。
「わるかったよぉ~」
ぱんぱんと膝をはたきながら立ち上がる。さすがの俺もやりすぎたと自省していた。周りの目が痛い。しかし、今は一年生たちの独壇場。入学式の後特有のハイテンションでやった行為くらいにしか思われないだろう。これを『成人式の後バカ騒ぎする術』と呼称することにする。
しかし、瑠璃のやつ妙に色気づきやがって、こっちこそ
「俺はただかわゆい妹のことが心配でなぁ」
「あたしはこのひたすらに気持ち悪い兄のことが心配だよ……」
「奇遇だな」
ぐっと親指を上げた。
「うっさい!」
怒られた。めちゃくちゃ彼女は機嫌が悪いらしい。
「で、もういいのか?」
「うん。あらかたはしゃぎ終わったかな」
この小娘、偉大な兄に荷物持ちをさせて、クラスメイトとの友情を育むことに精を出していた。とんでもない大物だと思う。まあこっちに戻ってきたということは、それも終わりを迎えたということだろう。
こっちはどれだけ苦労したと思っているのやら。保護者控室では、居心地の悪さしか覚えず。そりゃ一人だけ制服姿だったら、そうなるわな。何度か、係の人に間違えられた。
いざ、ホームルームが終わったと呼び出されれば、こうして荷物を押し付けられ壁際で目立たないようにするはめに。何が好きで、おだっている一年生の姿を見ないとならないのか。
極めつけは新入生に間違われて、部活勧誘されるし。まあ、靴の色を見せたら一発で退散してくれたからよかったが。むしろ、同業者に思われて『帰宅部だ』と返すのが面白かったり。
「じゃあ、帰るか?」
「あっ、ごめん。友達と帰るから、先帰ってて!」
形だけ彼女はすまなそうにした。
「お前なぁ……!」
俺も形だけ怒る。
別にそれならそれでよかった。高校生にもなって、妹と一緒に下校する、だなんて恥ずかしいったらありゃしない。俺はしっかり妹離れができているのである。……誰かとは違って。
「ん」
ということで、俺はトートバッグを彼女に突き出した。
「なにこれ?」
「お前のもんだろ。……預かっててもいいが、お前が帰った時無事な保証はないぞ?」
「はいはい、わかりましたよーだ! はぁ、お兄ちゃんって心狭いよね。そんなんだから、彼女できないんだよ?」
どこか小馬鹿にしたような笑みを浮かべる瑠璃。そっちも同じだろうに。
「いないんじゃくて、作らない、だ」
「ふうん、馬鹿言っちゃって。やれるもんなら、やってみなさいよ!」
「夏休みまでに彼女を? ――できらぁ!」
「いや、期日は指定してないから……」
妹君は心底呆れたようにかぶりを振っていた。
――その時、目の前をとても髪の長い女が通過した。一年生の集団がそこかしこにできているのに、その姿はとても存在感がある。背筋をとてもぴんと伸ばした凛々しい雰囲気は、始業式の帰り道を思い起こさせた。
(あいつは……)
「じゃあな、
俺はなんとなくそれを追いかけたくなった。
「うん。気を付けてね。寄り道しちゃダメよ?」
「リフレクター!」
「……二度とそういうことしないで」
瑠璃は未だかつてないほどに残念そうにしていた。
しかし、それにこれ以上構うつもりもなくて、俺はさっさとその場を後にした。妹は七組、最寄りは南階段――それはあいつが通り過ぎた方向でもある。
人波を縫うようにして階段前へ。そのままリズムよく手早く下りて行った。しかし、一階まで来ても、奴の姿は全く見当たらなかった。すぐ近くは玄関。それなりに急いできたから、見失うとは思わなかったのに。
五十鈴美桜……本当に不思議な女だ。あれはもしかしたら別人だったのか? いや、あんなミステリアスな女がそう何人もいるとは思えない。
どこか引っ掛かりを覚えながらも、俺は昇降口に向けて歩き出す。一階廊下は、不気味なほどひっそりと静まり返っていた。
*
「そういや、お前。五十鈴に告ったんだって?」
夕食後。自室にて、『愛すべきバカたち』の面々と通話をしていた。別にしょっちゅうするわけじゃない。誰かが気が向いた時に開く。そんなテキトーな感じ。
街の中心部からほどなく近い2LDKのマンションが俺たち根津姉弟の新居だった。もう一つの部屋は、姉貴と瑠璃の部屋。
「はあ? 何の話だ?」
「とぼけんなよ。沙穂から聞いてるぜ」
「彼氏がただ顔が良いしか取り柄がない糞女め、余計なことを」
「……お前、今度覚えてろよ?」
「まあまあ、ともちゃん。こーちゃんはいつもこんな感じじゃない」
「そうだぞ。怒るだけで時間の無駄と言うものだ」
「そういや、その五十鈴の話なんだけど――」
「もしかして告白成功したのか?」
「うっわー、ウラギリモノシスベシ!」
「しかしとんだ物好きもいるものよな」
「だーかーら、違うって! エロ本だよ、エロ本! あの時の店員、あいつだったんだ」
「……マジで?」
「へー、うちの高校でもいるもんだねー、バイトしてる人」
「どういう意味だ、周五郎?」
「お前、校則知らんのか? うちの高校、ばいと禁止だ。二章第三条に書いてある」
そこまで知ってるのはお前だけだと思う。とは、修以外の全員の感想だろう。あいつ、馬鹿真面目だからな。絶対、生徒手帳を愛読書にしている。
その後、適当な雑談をして、通話を切った。今日は珍しく学校のことが中心だった。まあクラス替えしたばかりだし、話題はいくらでもある。しかし気になるのは、五十鈴のことをあいつらがあんまり突っ込んでこなかった件。もしかすると、まだ疑ってるのかもしれない。
「浩介君。入るよ」
「ああ」
タイミングよく、扉の向こうから優しくささやくような声が聞こえてきた。根津
がちゃりとドアが開いて、姉貴が侵入してきた。赤茶色のセミロング。瑠璃とどっちが姉かわからないほどに低身長に童顔。優しいたれ目が特徴的。……今は、とても神妙な顔をしているけれど。
「……あのね、あなたが年頃なのはわたしもわかってます。でもね、まだそういう本を買うのには、早い年齢ではなくて?」
「何の話?」
「ごまかさなくていいのよ。ここだけの話にしておくから」
「いや、全然見当がつかないんだけど……」
「さっきお友達と電話してたじゃない。その時、ほら、え、エロ」
「エロ本のこと? 大丈夫だって、買えなかったから」
見る見るうちに姉の顔が赤くなるのを見て、俺はしまったと思った。
「そういう単語を女性の前で軽々しく口にするんじゃありません! そういえば、瑠璃ちゃんに聞きましたよ、浩介君! だいぶ恥ずかしい真似をしたそうですね。だいたい、あなたは昔から――」
そう、こうなるから姉貴は怖いのだ。地獄の説教はまだ始まったばかり。辟易した思いを感じつつ、俺は大人しく正座をした。言われる前にやる。社会人の基本である。……まだ学生だけど。
姉様のお小言に耳を傾けつつ、頭の中ではとある邪悪な考えを進めていた。バイトは禁止……しかし、五十鈴はやっている。ならばそれは――
ふふふ、弱みを持つのは俺だけではないみたいだな。あの女、澄すました顔しながらとんだ悪党ではござらんか。明日、覚えていろよ――
「ちょっと、なにニヤニヤしてるの! 本当に人の話を聞かないのね、浩介君は! もう、頭来ました。この菫、あなたの姉として今日こそ、その性根を直して見せますとも!」
……知らず知らずの内に火に油――いや、ガソリンを撒けたらしい。目の前の一見大人しそうな少女――もとい淑女はこれでもかと己が使命に燃えているのだった。
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