第4話 ごじゅうりんじゃなくて
彼女は淀みなく前を歩いていく。その後ろ姿には、颯爽と、とか、凛として、という表現がとてもよく似合う。
俺は黙ってその後ろにつき従った。果たして、どこにつれていかれるのやら。怖いよぉ。一組前を通過して。故郷二組の教室は遥か彼方――
いやぁ、同級生からの視線はいとをかし。まず
うん、これはかなりまずいぞ。しかし、今さら引き返すという選択肢は俺にはない。彼女の握っていると思われる情報に比べれば、後で如何にもやりようはある。
そして、わかったことはもう一つ。この
周囲の喧騒には全く動じず。声をかけられたら、ちょっと会釈するだけ。なかなかの大物ですな。
やがて俺たちは北階段のところまできた。中央階段ほどではないが人通りはある。奴は折をみて、すーっと階段をかけ上っていった。
俺も慌ててついていく。彼女は踊り場の奥の方で足を止めた。そして、くるりと身を翻す。フィギアスケーターよろしく滑らかに。こういうのを所作が洗練されている、というのかもしれない。
「今日は一年生、午後からでしょう。だから、ここなら誰も来ない」
確かに、今日は始業式の他に、入学式があるんだった。そのため、午前中で在校生の多くは終わり。その後新入生がドキドキを胸に秘めて学校にやってくる。彼らの教室がある四階に向けて。
「それで話って?」
彼女は能面を被ったまま言葉を続けた。
「……あの変なこと聞くようだけど、あなたは昨日、私と会いましたか?」
俺は少しの緊張を覚えながら、慎重に話を進めていく。
「ええ」
女は静かに頷いた。
それを見て俺は内心舌打ちをする。やっぱりな。制服姿と私服姿くらいじゃ誤魔化せないか。いっそのことサングラスでもするべきだった。昨日の俺に文句をつけておく。
「それは本屋で、ですか?」
しかしそれでも一縷の望みをかけて、俺は慎重にベールを剥がしていくことに。
「本屋さんで」
「……その時私は何をしていました?」
「エッチな本を買おうとしていたわね」
彼女はしれっと言い放つ。少しも照れた様子はない。というか、顔の皮膚はピクリとも動かなかった。抑揚のない声は、蔑むわけでも呆れるわけでもなく、とにかく感情が籠ってない。
しばし訪れる静寂。一度ならず二度までもこいつと睨み合うはめに。あの時よりかは緊張はしていない。誤差だけどな、誤差。
だが、こういう美人が
ヤバいことを知られたという焦燥感で胸いっぱい。心臓の鼓動はとどまることを知らない。……とまったら、まずくない?
と、とにかく、
「頼む! そのことは黙っていて欲しいんだ!」
俺は勢いよく腰をほぼ直角に折った。
「どうして?」
「いやどうしてって、そんなのバレたら恥ずかしいからに決まってだろ!」
顔をあげると、どこかぽかんとした顔があった。
「恥ずかしい……そう。ああいう本を買うことは恥ずかしいことなのね……」
彼女は興味深そうに頷いている。……ああ、こいつ変な女だ。俺は直感した。薄々勘づいてはいたが。普通に考えたらわかると思うのに……。
正確に言えば、エロ本を購入すること自体は、恥ずかしいことではない。男として、エロを求めるのは仕方のないことだ。生物としての本能、避けては通れぬ宿命、遺伝子に刻み込まれた責務。
むしろ男子連中には誇れる話だ。武勇伝。実際に、あの時俺は我が友から称賛を浴びるはずだった。
しかし、事態はそれとは真逆の結果に。エロ本購入未遂事件。周囲に漏れれば、男子からは臆病者だと
だから――
「頼む、黙ってくれ! 何でもするから!」
頭を下げること、二度目。土下座をする心持で。
「わかったわ」
「ほんとか!?」
俺はたちまち思いっきり顔を上げた。
「ええ、口外するような内容ではないようだし」
「それ、ダジャ—―」
「違います」
ピシャリと放たれた言葉は、矢となって俺に突き刺さった。
しかし拍子抜けするほど、あっさり決着がついたな。金銭とか要求されなくてよかった。意外と話が分かる人でよかった。でも、軽はずみに「何でもする」なんて、便利ワードを使ってはいけない。ちょっと自戒しておく。
「よし。じゃあ話はそれだけだから」
「……それだけ?」
「は?」
「いえ、みんな私に話があるという時は『好きです、付き合ってください』と同じ文句をたて並べるから。わざわざ人目を避けるくらいだし、てっきりキミも」
こいつ、とんでもなく自意識過剰だ! 鼻につくを通り越して、ただただ唖然とする。どうも当人にはその節はないようだ。なんなの、この人? もしかしてロボットとかアンドロイドなの?
「……だって、俺とお前は今日初めて会ったばかりじゃないか」
「いいえ、違うわ」
彼女は小さくかぶりを振った。
「オーケー、昨日のことはカウントするな。とにかく知り合ったのは、今この瞬間だ。少なくとも俺は
「ごじゅうりん? ……あの、誰のことかしら?」
なぜか彼女は驚いたように、ぱちぱちと瞬くを繰り返している。
「お前だよ、お前! 五十鈴いすず! 他に誰がいるってんだ!」
……天然ってやつなのかもしれない。それにしては、ちょっと変なところがありすぎるか。不思議ちゃん、の方がぴったりかも? そういうキャラがいるって、周五郎が言ってた。ありがとう、我が友よ!
「あの、一人怒っているところ悪いけれど。私、
「――はい? いやいや、いすずって名前だろ? どこの世界に、五十の鈴、と書いていすず、なんて読む奴がいるんだ」
「日本。……驚いた、テストの点数はいいのに、頭悪いのね」
「なんか言ったか?」
ぼそっと言われたから後半の方はうまく聞き取れなかった。悪口なのはわかったけれど。
「いいえ、何も。五十の鈴で、いすずと読むの。疑うならスマホで変換してみて?」
「……あ、ほんとだ」
ポケットからスマホを取り出して、言われたとおりにやってみる。いすずと入力すると、変換候補に五十鈴がいた。おお素晴らしき、文明の利器! イッツワンダフルワールド!
「……じゃあ、五十に肩で、いすかたとでも読むのか、本当は?」
「いいえ、あれはごじゅうかたよ」
「じゃあ五十に嵐は?」
「いがらし」
「五十に幡は?」
「いそはた」
「じゃあ五十に音でどうだ!」
「ごじゅうおん」
「東海道?」
「……五十三次?」
ようやく彼女の頭に疑問符が灯った気がする。
しかし、なんだ、こいつ? どうして、くすりともしない。こっちが散々ボケてるというのに……。流石に凹むぞ。なんでこんなにしれっとした感じで応じてくるんだ。
「……ええと、とにかく
いたたまれなくなって、俺は身を翻した。とびきりにかっこつけながら。だが――
「
立ち去ろうとしたら学ランの裾を引っ張られた。意外と力強い。
「いや、もうめんどくさいから、これからごじゅ――」
「
少しも表情は変わっていないが、なんとなくその瞳の奥には怒りの炎が見えた。
「ぐぬぬ……わかったよ、
「ええ、よろしくね、根津君」
「……ちょっと待って、どうして俺の名を? ――はっ! まさか俺のことが――」
「座席表を見たもの。それとも、
素っ気ない言い方。好き、という言葉は見事に封殺された。冗談には思えないほど真面目腐った表情をしている。……怒ってんのかな。
「まあそれも、なんかパンツに似ていていいかもな!」
キラっと爽やかに笑いかけてみた。
「……あなたみたいな人のことを、変態というのよね」
とびきり冷ややかな視線を残すと、
なんだよ、あいつ。感情、あんじゃねえか。ぼんやりとその背中が消えるのを見送って、俺もまた教室に戻ることにした。ひとまずは難を逃れたことだし。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます