第3話 学生生活、危うし
その顔を認識した時に、俺は自らの脈拍が一気に跳ね上がるのを感じた。心臓様が今にも骨を、皮膚を突き破ろうとしている。あまりのプレッシャーで腹の底が落ち着かない。あわやのところで、立ち上がり叫び出すところだった。
しかし、その女――
机の上に置いたカバンから、何かを取り出す。文庫本だった。とある書店のカバーが付いているから、タイトルは不明。というか、あれ、あの店のやつじゃね? またしても、胸が高鳴る。……悪い意味で。
荷物を床に下ろすと、そのまま読書に耽りだす
長い黒髪はよく手入れされているらしく、艶があってキラキラと輝いて見えた。毛並みは一切乱れることなく真直ぐに垂れ下がっている。
さっき確認した通り、顔もめちゃくちゃ可愛かった。黒々とした瞳、すっきりした鼻梁、きっちりと結ばれた口元。こういうのを、クールビューティというらしい。友成が言ってた。まあ人気があるのも頷ける
彼女のことを見ているのは、俺だけではなかった。ふとあたりを見回してみる。卓もそうだし、特に男子連中はほとんど。わざわざ身体を向けている奴もいるくらい……前席の男子生徒のことだが。こいつ、すっかりアホ面で見惚れてやがる。
おまけにさきほどからの室内のざわつきも、さらに激しくなった気がした。みんな、彼女のことを話しているのかも。教室の遠くの方で、女子たちが件の深窓令嬢の様子を窺いつつひそひそしてるのが見える。
とにかく、それは紛れもなく昨日俺の野望を打ち砕いた書店員だ。俺はついに確信を得ていた。その顔は記憶の中のものとぴたりと一致。まさか同い年だったとは……年上のこなれた感じのお姉さまだと思ってたのに。いやいや、そうじゃなくて、
それはマズい事態を意味する。俺がエロ本を買おうとしたことを、クラスメイトの女が知っている。もし何かの拍子で、噂が広まりでもしたら――最悪な想像に思わず身の毛がよだった。
さて、どうしたものか。何とかして黙っていてもらわなければ。いくら払えばいいのかな。相場、弁護士に訊かないと……いや、その
……そもそもにして、果たして向こうは俺のことを覚えていようか。いや、いまい(反語)。あれは俺にとっては深く記憶に刻み込まれた屈辱的な出来事だったが、こいつにとってはそうじゃない。エロ本を買おうとするのなんてごまんといるはず。いやそうじゃなくても、客なんてたくさんいるわけで。
大丈夫、絶対覚えてない。俺は友成みたいなイケメンじゃない。周五郎みたいなベビーフェイスでも、修みたいな特徴ある風貌でもない。どこにでもいる平均的高校二年生だ。そんな奴のこと、こんな美人さんがわざわざ記憶しないさ。何とか自分に言い聞かせる。
とりあえず、顔を正面に戻した。すっかり卓君は
「いやぁ、やっぱ五十鈴は美人だなぁ」
「そーですね」
「見てるだけで幸せな気分になる」
「そーですね」
「付き合いたいなぁ」
「そーですね」
「なんなんだ、うっせーぞ、浩介!」
妄言に適当に相槌を打っていたら怒鳴られた。酷い人だ。うるさいのはそっちだと思う素晴らしい反応だと思ったが。というか、よく本人を前にしてそんなこと言えるな。
まあ当人は相も変わらず読書に夢中だが。凄まじい集中力。すぐ近くで騒いでいるのに、全く気にも留めない。そのページを捲る速度は常人の三倍……かはわからないけど。俺よりは早いのは確かだ。こちとら、何ページおきに前に戻るから、ろくに進まないってのに。
……他人に無関心系女子かもしれない。だとしたら好都合だ。触らぬ神に祟りなし。とにかくこの女の視界に入らないよう、こそこそ過ごそう。竜巻に、遭遇したら、やり過ごせ。浩介、怒りの川柳。
――なんて、意味のないことを考えていたら。
はらり。
彼女の机の端に置かれていた栞が紐無しバンジーを試みた。そのまま空中をふわふわと舞い降りていく。俺は反射的に手を伸ばしてしまった。
読書家のクラスメイトは俺の手の中にある自らの栞に掴み取ろうとする。そして、その顔がばっちりこちらに向いて――
「ありが…………あら、キミ。昨日、エッ――」
「ち、ちょうどあんたに話したいことがあったんだ! ちょっと来てくれないか!」
その言葉を遮って、俺は思わず立ち上がった。そして無造作に彼女の腕を掴む。とても細い。余分な肉は少しもついていない。しかしちょっと柔らかい。そのままぐいと軽く引っ張ると、彼女はすんなりと立ち上がってくれた。
「お、おい、浩介!」
般若のような顔を友人(仮)は向けてきた。
「頼む、今は何も言わないで黙っていてくれ、卓! さあ、とにかく廊下に――」
彼女からは特に抵抗は感じなかった。そのまま彼女の腕を掴んで、俺は廊下の方に向かって歩き出す。何事か、と道中の男子連中はこちらを見ていた。そいつらにわざわざどいてもらったりしながら、最短距離で後方の扉へ。
「な、なんだあいつ、いすず様に!」
「誰なんだいったい? 身の程知らずめ!」
「えー、もしかしてあれ、告白とかだったり?」
ワーワー。キャーキャー。
教室を出る時には、クラスメイト達のボルテージは最高潮に達してましたとさ。しかし、そんなの後回しだ。もっとまずい爆弾を俺は抱えているんだから。しかも、その導火線には火がついている。
廊下に出てちょっと左手の方に進む。そして適当なところで足を止めて、とりあえず彼女の腕から手を離した。流石に学年一と目される美女といつまでもこうしているわけにはいかない。……すでにあらぬ疑いの種が教室中には撒かれていそうだけどネ!
それにしても登校してくる生徒の数が多いこと。廊下の人だかりは思いの外多く、その喧騒は激しい。まあ後もう少しで朝のホームルーム始まるしな。いよいよ、ラストスパートって感じかもしれない。
これじゃあ落ち着いて話ができない。もう少し人気のない場所を……壁にミミ・アリ、障子にメアリー、天井にメリーさんとはよく言ったものだ。とにかく誰が聞いてるか、わかったもんじゃない。
だというのに――
「それで話、というのは?」
「いや、さすがにこんなところじゃ……」
「人目を避けたいの?」
「まあ、そうだな」
すると、彼女は静かに何かを考え込み始めたようだった。長い睫毛を伏せがちにして、廊下との睨めっこを開始する。
そのままじっと動かない。時折まばたきはしてるから、生きてはいるらしい。
しかし、何をとぼけているんだか。こいつだって俺の話に察しが付くだろうに。こんな大勢人がいるところで、エロ本の話をするとかどんな羞恥プレイだっての。
「着いてきて」
やがて長い間があった後に、ようやく彼女は顔を上げた。またしても、能面のような無表情。そしてくるりと身を翻す。長い髪の毛がふわっと揺れて襲い掛かってきた。
攻守交替――今度はわけがわからぬまま、俺が彼女についていく番だった。
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