「あと三十分くらいしたら忙しくなるな」

と店員は考えていた。ということは、今は忙しくないということであり、事実、店員は手持ち無沙汰だった。

 店内には客は一人だけ、常連のサラリーマンである。フロア(と言ってもフロアと呼べるほど広いわけではない)には特に仕事はなく、店員はレジ前でただ立っているだけだった。奥の厨房では、店長兼調理担当が湯を切っていた。麺をザルに叩きつける音が聞こえる。

 店員が考えたように、このラーメン屋の商売のピークは七時ごろからだった。住宅街にあるため、帰りがけのサラリーマンや学生が主な客層である。

 店員はなんとなく、目の前にある戸を見ていた。木目の浮き出た黒い戸である。建て付けが悪く、開けるときに抵抗のある戸だった。戸の向こうから音がしたような気がした。戸は時折風に吹かれてガタガタと揺れていたが、それとははっきり区別できる音である。なにかを削るような、いや、掻くような音である。初めは気にしなかったが、一度止んでから、再び音が聞こえるようになると、店員はその音を強く意識するようになった。

 店員は手に持ったお盆をレジ台に置き、戸を開けようと近づいた。音が止んだ。音が止んだからと言って、一度気になりだした店員の好奇心は止まらなかった。戸を開けた。やはり少し抵抗があった。そして、今気づいたのだが、この戸は左右が逆になっている。いつもは引く戸が手前にあるのだが、今日は奥にあった。大方、店長が暖簾を出したときに逆にしてしまったのだろう。

 戸を開けると、そこには一匹の猫がいた。

 灰色に黒が混じった毛で、鼻のあたりに少し白が見える。おそらく野良猫だろうが、それにしては毛並みがきれいである。

「店長、猫が来ました」

厨房の奥から、店長の声が返ってきた。

「いつものやつか?」

「いつもの猫とは違うみたいですね。初めて見る毛並みです」

「表に居座られちゃ困るから、追い返すなり裏に連れていくなりしといてくれ」

「わかりました」

店員は猫を追い立てて店を出て行こうとする。開かれた戸から、強い風が吹き込んできた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春への戸 ピクリン酸 @picric_acid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ