二
「あと三十分くらいしたら忙しくなるな」
と店員は考えていた。ということは、今は忙しくないということであり、事実、店員は手持ち無沙汰だった。
店内には客は一人だけ、常連のサラリーマンである。フロア(と言ってもフロアと呼べるほど広いわけではない)には特に仕事はなく、店員はレジ前でただ立っているだけだった。奥の厨房では、店長兼調理担当が湯を切っていた。麺をザルに叩きつける音が聞こえる。
店員が考えたように、このラーメン屋の商売のピークは七時ごろからだった。住宅街にあるため、帰りがけのサラリーマンや学生が主な客層である。
店員はなんとなく、目の前にある戸を見ていた。木目の浮き出た黒い戸である。建て付けが悪く、開けるときに抵抗のある戸だった。戸の向こうから音がしたような気がした。戸は時折風に吹かれてガタガタと揺れていたが、それとははっきり区別できる音である。なにかを削るような、いや、掻くような音である。初めは気にしなかったが、一度止んでから、再び音が聞こえるようになると、店員はその音を強く意識するようになった。
店員は手に持ったお盆をレジ台に置き、戸を開けようと近づいた。音が止んだ。音が止んだからと言って、一度気になりだした店員の好奇心は止まらなかった。戸を開けた。やはり少し抵抗があった。そして、今気づいたのだが、この戸は左右が逆になっている。いつもは引く戸が手前にあるのだが、今日は奥にあった。大方、店長が暖簾を出したときに逆にしてしまったのだろう。
戸を開けると、そこには一匹の猫がいた。
灰色に黒が混じった毛で、鼻のあたりに少し白が見える。おそらく野良猫だろうが、それにしては毛並みがきれいである。
「店長、猫が来ました」
厨房の奥から、店長の声が返ってきた。
「いつものやつか?」
「いつもの猫とは違うみたいですね。初めて見る毛並みです」
「表に居座られちゃ困るから、追い返すなり裏に連れていくなりしといてくれ」
「わかりました」
店員は猫を追い立てて店を出て行こうとする。開かれた戸から、強い風が吹き込んできた。
春への戸 ピクリン酸 @picric_acid
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