春への戸

ピクリン酸

 四月始めである。始まりの季節と言っても、私のような気ままな身の上としては、ことが動くには早すぎ、緊張するには遅すぎるので、暇を持て余す数日間である。積極的なひとなら、この間に興味のあるサークルでも覗いて、友達を作るのかもしれない。

 私がすることと言えば、近所の散策程度である。新しくやってきた土地に慣れるには必要なことだ。誰しもが、引っ越しをしたならば多少は周辺を散策するであろう。でも、私の散策は少々度が過ぎていることを自覚している。私にとって、散策とは趣味であり、土地に慣れるのが目的ではなく、それ自体が目的なのだ。

 今日は、昨日行った方向とは別の方向に向かってみる。

 数日の散策でわかったことだが、この土地はとにかく坂が多く、平面地図は当てにならない。地図から距離を算出しようとしたとして、少なくとも等高線が引かれたものでなければ、実際の距離を算出することは難しいであろう。直線距離では近くても、となりの丘の頂上だったりするのだ。

 その高低差のある土地にびっしりと、多くは三階建て以下の建物が群生している。クリストファー・ノーランの映画のように、建物の生えた地面がこちらに覆いかぶさってきて、迫力がある。いわば絶景であろう。

 ともかく、今日はこちら、と決めて、坂を下り始める。風が強く吹いているので、帰りの上り坂は大変かもしれない。下り終えると、少し広い通りに出た。広いと行っても、一台の車が通るには広いというだけで、対向車同士がすれ違うとなれば、それだけでいっぱいになるだろう。

 広い通りもなだらかな坂になっていて、私はそれを登る方向へ歩いていく。交差点についた。広い通りが蛇のごとく右に湾曲し、細い通りがそのカーブに左側から注いでいる。広い通りに沿って右に行く。

 今日は散策に出た時間が遅かった。六時になる前に家を出て、家の前の坂を下っているときに、六時を知らせる防災無線のチャイムを聞いた。春になり、日も長くなってきているから、太陽は見えないながらも、辺りはまだ薄っすらと色づいている。家々はあかりを灯し始め、街全体に夕焼けの暖かさがある。民家から、味噌汁の匂いが漂ってくる。嗅ぎ覚えのある匂いとは少し違う、この土地の味噌汁の匂いだ。

 思いつきで上ってみた坂だが、思いのほか長く続いている。さっきの交差点からだいぶ来たと思ったが、まだ坂の中ほどである。ここ一帯は住宅街で、民家のほかに特に目に留まるようなものもない。民家とて見ようと思えば見どころがないわけでもないが、見るのに少し気がひけるし、坂を上る労力と釣り合わない気がする。坂の上まで上るつもりだったが、やめたほうがいいかもしれない。

 引き返そうと思ったとき、今までにない匂いが鼻につく。食べ物の匂いだが、さきに嗅いだような味噌汁の匂いではない。鰹節と、それ以上に強烈な、これは煮干しの匂いだろうか。

 ラーメンだ。そう確信して、坂を見上げると、少し上ったところに、一見、民家に紛れてわかりづらいが、ラーメン屋と思しき店が、一軒あった。創作ラーメンの店といったような、少し気どった佇まいである。ちょうど、サラリーマンと思しきスーツを着た男が入店するのが見えた。

 興味がそそられれば早いもので、気付いた時には、店の前で看板を見ていた。『はる』と書かれた店名の看板(ライトが仕込んであって、仄かに光っている)と、おすすめメニューの書いた看板が店の前に置いてある。おすすめの看板には、『おすすめ はるらーめん』と、辛うじて判別できる体で書かれている。 はるらーめんが店の名を冠したラーメンなのか、春季限定ラーメンなのかはわからない。

 フォントは気に入らないながらも、このえもいわれぬ煮干しの香りには抗い難く、入店することにした。

 入り口は二枚の引き戸で、黒い木製のものだった。店の外装も黒なので、統一したのだろう。見たところ取っ手はない。手前の戸は左に、奥の戸は右にある。特徴的なのは、手前の扉に赤い矢印が貼ってあることだ。それなりの大きさで、黒地に赤なのでよく目立つ。矢印は印刷してラミネートしたものを貼った即席なもののようだ。おそらく、引き戸を引く方向を示しているのだろう。

 問題なのは、その矢印が左を指していることだ。

  左側にある戸に右向きの矢印があったなら、左から右へ戸をずらせ、という意味だろうから、なんの問題もない。しかし、左側に左向きの矢印があるのである。戸はこれ以上左にずらすことはできない。

 最も単純な解釈は、戸の位置が逆になっている、ということだ。今、右にある戸が左にあり、左にある戸が右にあれば、右にある戸に左向きの矢印があることになり、これならなんの問題もない。戸の位置をよく見ていなければ、誰かが間違えるかもしれない。ありうることである。

 戸の位置が逆になっているだけだとしたら、どちらの戸を引いても開くはずである。左の戸を引いてみる。取っ手はないから、爪や手を引っ掛けられそうな溝がないか探す。

 手の届く範囲では見つからない。戸はしっかりと閉じられていて、隙間もないから、隙間から手を入れて、てこのように開けることもできない。取っ掛かりがないながらも無理やり引いてみる。動かなかった。

 右側の戸を引いてみた。右側も同様の状態で、動かなかった。戸が固いだけかもしれないが、目一杯力を込めて引いて見てもびくともしないとしたら、戸として成立しないのではないか。

 つくづく、先に入っていくのが見えたサラリーマンがどうやって戸を開けたのか、よく見ておかなかったのが悔やまれる。なぜ、あのサラリーマンには開けられて、私には開けられないのか。何が違うのだろうか。

 別の方法を考えよう。もしかしたら、引き戸ではなく、開き戸なのかもしれない。どう見たって、開き戸には見えないが。

 戸は押しても引いても動かなかった。誰か、他の客が来るのを待って、それに乗じて入店してしまうことも考えたが、通りには人影はなく、次の客が来るまでにはかなり待たなければならないだろう。時折吹く強い風のせいで、体が冷えてきている。ここで長い時間は待てそうになかった。もはや、降参である。

 開かない戸と格闘している間にも、芳しい煮干しや鰹節の匂いがし続けていた。生殺しとはこのことで、開かない扉の木目さえ憎たらしく思えてくる。木目に沿って少し爪を立ててしまう。

 ようやく諦めがついて、引き返そうと思ったそのとき、戸の向こうからかすかに音がした。音を立てて戸が開かれた。

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