ケタオチ
宗像弘之
第一話
昭和六十年 三月 二十日、車は浪速区を通り過ぎ、西成署管内に入った。尼ケ崎平野線を横切ると、映画などで暗黒街に例えられた”大阪のカスバ” 釜ヶ崎である。
この町は、平成から令和への改元を数日後に迎えようとしている
しばらくすると、窓から西成独特のすえたような悪臭がむっと漂ってきた。
「今、どんな心境だ?」
右側に座っていた村田警部が、体を捻り日野に聞いた。からかうような口調である。
「別に……」
日野は表情を変えず、素っ気なく答えた。
「ほぉ……立派なもんだな。西成というと、みんな悲壮な顔をするんだが」
村田警部は拍子抜けしたように、日野を見て薄笑いした。
彼の魂胆は分かっていた。上司に逆らう厄介者を西成に追いやって、せいせいしているのだ。おまけに日野が滅入るのを面白がって見てやろうという了見だろう。
「まあ、一年、辛抱しろよ。そのうちまた本部に戻すから」
嘘をぬかせ。そんな甘っちょろい言葉を誰が信用するか。それに、俺はもう本部はこりごりだ。あそこは、巡査部長以下は屑同然。二度と行くところではない。
日野は無表情で窓の外の西成の町を眺めた。
今日は大阪府警の人事異動日だった。
日野宏輔は本部防犯課から巡査部長に昇進し、西成署に赴任するのである。
日野は三十三歳になっていた。十八で巡査になり、十五年かかって、やっと巡査部長になったのだ。
俺は落ちこぼれだ。本部より落ちこぼれには、西成の方が相応しい。
日野はそう思った。日野はかつて西成署に勤務した友人から聞いた言葉を思い出していた。
―― 西成っていう所は人は嫌がるが、居着くと案外いい街だぞ。見栄も体裁もいらん。来る時に泣き、去る時にまた泣く。それが西成だ、いっぺん、行ってみろよ ――
車は西成署前の旧住吉街道、通称西成銀座に入って行った。すると、町の様子が一変した。薄汚れた建物にゴミの山。小便の臭いが鼻につく。車ものろのろと動いている。
なんとなくかったるい。ワンテンポ遅れているのだ。車は相変わらずスピードを落としたままで、ゆるゆると街道を進んでゆく。運転手も心得ている。これから先は、何が起こるか分からない。当たり屋、酔っ払い、シノギと、どういう事でいちゃもんつけられるか分からない。用心するに越したことはないからだ。
道路には、顔の色は渋紙色で、目を死んだ鰯のように赤く濁らせた労働者たちが、四、五人、ぼそっと立っている。頭にハチマキをし、スリッパを履いている。道路の中央では、横関のワンカップを片手に三人が酒盛りの最中である。その傍で、ごろりと横になった地下足袋姿の男がよだれを垂らし、ゴウゴウといびきをかいて白河夜船だ。それを見て、村田警部が厭な顔をした。
村田は四十二歳。キャリアではないが、叩き上げながらミニエリートである。将来は約束されているはずだ。
こいつを西成署に送り届けて、一刻も早くこの薄汚い不気味な街から立ち去りたい。
そう思っているに違いない。
日野は、防犯課在籍の六年間を思い浮かべた。
村田は厭な奴だった。階級をかさに威張り散らし、日野をこき使った。本部では、巡査なんて吹けば飛ぶような存在だ。ただ、上から言われるままに、何の意志もなく、唯々諾々と動くだけだ。
しかし、俺は反抗的だった。おべっかでも使えばいいのに、屁理屈をこね上司に逆らい、生意気な奴と思われても仕方がない振る舞いをしていた。
好きで巡査になったわけではないからな。
そんなやせ我慢を別の俺がチクリと刺した。
「そんなら、辞めたら……」
俺は口籠り、黙ってしまう。俺には家族がいる。妻と子供を養っていかねばならない。
本部には、キャリアをはじめたたき上げでも各署のエリートたちが、綺羅星のように集まり出世競争にしのぎを削っていた。拝命の新しいエリートたちが、どんどん日野を追い越して昇進してゆく。階級社会の警察の中では、一つ階級が違えば、者も言えない。相撲の世界と一緒だ。年功序列の考えはないのだ。
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