第2章 先輩と私

第1話 先輩と私と講義

 

 先輩が隣にいる。呆けた顔で、頬杖をつきながら初老の男性の講義を聴いている。机に広げたまっさらなノートにはなにも書き込まれていない。いま教授が話している内容だって、頭に入ってはいないだろう。


 それでも構わない。私が何度でも教えてあげるから。


 先輩が何度私の名前を忘れても、授業の内容を忘れても、私が何度でも教えてあげる。それが私の、存在意義だから。


 最後に私が名乗ってから、もう数日が過ぎてしまった。先輩の記憶は――とりわけ私たちに関する記憶は長くはもたないから、もう忘れてしまっているだろう。いままでだって毎日会っているけれど、「西谷さん」、とか、「みつるちゃん」、とか、名前で呼ばれたことはなかった。全部「ああ、」とか「あのさ、」とか「ええっと、」とかだった。でも、それでもいい。


 東京第三大学はそう簡単な大学じゃない。先輩にあんなことがあって、それでいてこのレベルの大学に入れたことは奇跡だと医者の人も言っていたけれど、本当にそうだと思う。先輩の受験勉強に対する異常なまでの情熱は、先輩が事件のことや彼女のことを忘れようとした結果だと思う。そう考えると、私が先輩を追いかけてこの大学を目指したことは、先輩とは真反対の動機ということになるのかもしれない。


 私は、事件のことが頭から離れなかった。だからこそ、私は先輩を追いかけたんだ。


 ストーカーと言われればそうかもしれない。ミイラ取りがミイラになるってこういうことかもしれない。けれど、誰に何を言われようとも、私は先輩のそばにいると決めた。


 たとえ、選ばれることがなくても。


 私は、教科書をめくった。


 文学って素敵だ。現実では起こりえないようなことが、作者の妄想が、願望が、ペンやキーボードによって生み出され、書籍という形で現実になる。私たちはページをめくりながら、存在しない街や存在しない人に思いを馳せ、その風情を想像してみることができる。紙面の上で、存在しない人が生き、恋をして、喜び、悲しみ、そして死ぬ。それらは最初から存在しないはずだったのに、そこには確かに彼らの息遣いが残っている。


 そして、事実は小説より奇なりって言うから、現実はその非現実すら超えることもある。あの事件は、その筆頭だろう。あんなこと、現実で起こっていいはずがなかった。でも実際に起きてしまったんだ。大切な人の大切な人を遠くに連れ去り、多くの禍根を残した。あれは紛れもない現実だった。


 現実と非現実の差なんてほとんどないようにすら思える。現実のような非現実があり、非現実のような現実がある。


「かくして、彼女は衝撃的な最期を遂げるのです――」


 教授がそういった瞬間にチャイムが鳴り、多くの学生が席を立った。教授が引き留めるように、大声で叫ぶ。


「来週は小テストですよー! 単位に響くのでしっかり勉強するように!」


 それとほぼ同時に、先輩がはっとした表情を浮かべた。


「講義、終わっちゃいましたよ」


「あ? あ、ああ」


「私のこと、誰だったっけと思っているんでしょう? 西谷満です。西谷、満」

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