第10話 嗅いだことがない
「――これが再来週のテスト範囲です」
「……え?」
「なんですか、ぼーっとしちゃって。まさか、聞いていなかったなんて言わないでしょうね」
聞いていなかった。けれど、そんなこと言えるはずがない。目線を机にやると、色とりどりの蛍光ペンがザラバンシの上にたくさん引かれている。聞いたことのあるような作家もいれば、そうでないものもある。右側に作家の自画像がプリントされていて、彼はベートーベンのように俺を睨んでいた。そしてその下に、『真実の愛とは何か?』とやけに丸い文字で書いてあった。
真実の愛とは何か?
何かの宗教だ、と思った。けれど、教育は総じて何かの洗脳でもある。自覚的にしろ無自覚的にしろ、そこそこの勉強をして受験を乗り切り、呆けた頭と顔で講義を聴く子羊たちは、学者にとっては格好のエサかもしれない。
「来週の講義、一緒に受けましょうね」
彼女は目線を少し下げて言った。どうしてそんな話になっているのか、理解が追い付かない。フレンドたちを呼びたいが、誰も返事はしなかった。音楽だけが、耳のそばで鳴り続けている。
「ああ、いいよ」
彼女はにんまりと笑って、分厚い冊子を机の上に置いた。何かの専門書かと思ったが、表紙には「東京第三大学 シラバス」と書いてあった。
「先輩、どの講義取ってます? できればたくさん取りたいんですよね、同じやつ。ええっと、必修は全部でこれだけあって、選択科目が――」
俺は彼女の気迫に気圧されそうになっていた。彼女がなぜ俺に固執するのか理解できなかった。いわゆる「ぼっち」で講義を受講することはそんなにも辛いのだろうか。そうかもしれない。自分だって、それが原因で自主休講しているようなものだ。
裏を返せば、と思う。
この子がいれば、俺は社会復帰できるのだろうか?
彼女はこっちを見て、また笑った。
「どうしました、先輩? ねぇねぇ、これ取ってるでしょ、先輩、これ」
彼女が身を寄せる。甘い柑橘系の匂いがした。初めて嗅ぐ香りだった。高校以前では、誰も香水なんてつけていなかったように思う。それとも、俺の勘違いだろうか。俺が知らなかっただけで、みんな多少のおしゃれをしていたのだろうか。
あの音楽室で、彼女も――。
「なぁ」
俺は反射的に、質問を口にしていた。
「真実の愛って、なんだと思う」
彼女は少し考えるそぶりをして、こう言った。
「命の恩人に、死ぬまで尽くすこと」
「え?」
「私の名前、覚えてます? 西谷満です、志島龍二先輩」
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