第6話 楽譜が読めない

 

 白い空間の中にいる。何の音もしない。なんのにおいもしない。目の前に大きな鉄格子の扉が見える以外は、何もない。


 いや、じっと耳を澄ますと、音楽が聞こえる。クラシックだ。どこかで聞いた気がする。何度も聞いたはずだ。でもその音楽の曲名を思い出すことはできない。


 勝手に鉄格子が開く。重い音を立てて、俺を彼女のところへ連れて行く。開け放たれた空間には、1台の大きなピアノがあった。彼女はそこに腰かけながら、俺を睨んでいる。


「どうして私の邪魔をするの」


「邪魔って?」


「今大事な練習中なの。誰にも聴かれたくない」


 彼女が鍵盤を叩いた。透き通る音が、無空間に鳴り響く。その瞬間に俺はすべて、すべてを思い出す。


「先生の家に行っちゃダメだ! 俺と一緒に帰ろう、家に帰るんだ!」


「言ったでしょ。大事な練習中なんだから。本番も近いのに、先生に最終チェックをしてもらわないでどうするの?」


「そんなもの必要ない! 君はもう充分――完璧じゃないか。これほど綺麗な旋律を、俺は聴いたことがない。もう充分なんだ、大丈夫なんだよ」


「あなたに何が分かるの?」


 彼女が力任せに鍵盤を叩いた。不協和音が耳を刺す。


「誰よりもうまく弾かなきゃいけないの。私は今度の4分半にすべてを賭ける。私のすべてを。世界で一番輝いてみせる」


 違う。彼女が輝いているのは、ピアノを弾く4分間だけじゃない。俺と他愛もない話をしている時、俺にぶしつけな視線をぶつける時、教室で頬杖をついている時、そんな何気ない瞬間に、彼女は輝いている。たった4分半のために永遠の時間を失うなんて、そんなこと間違っている。


 間違っているんだ。


「そんなこと言うんだったらさ、志島くんが私の先生をやってよ。ほら、この音。何か分かる?」


 例の音楽の最初の音。俺は分からなかった。


「ふ、ほらね。だって志島くん――」


 楽譜が読めないもの。



「おはよ」


 目を覚ますと、そこにアズサがいた。


「ああ、アズサ……」


 アズサの腕に寄り掛かる。温度も重さもないはずなのに、温かくて安心する。


「甘えん坊さんだなぁ。でもそろそろ時間じゃないの?」


「時間?」


「昨日、約束してたじゃない。今日のお昼、後輩の女の子と食事するんでしょ?」


 そういえば、そんな約束を取り付けた気もする。寝起きだからか、頭がぼんやりしてうまく働かない。


「何時からだったっけ?」


「さあ……私も忘れちゃった」


 何時からだっただろう。でもまぁ。お昼って言うくらいだから13時ぐらいに行けばいいだろう。あれ、なんで後輩の女の子と飯を食うことになってんだ?


「そうと決まれば、さっそく準備して出掛けなきゃね。ボサボサの髪もちゃんとセットしてさ」


「リョースケを呼んでくれないか。あいつああいうの得意そう」


 何言ってるの、とアズサは言った。


「私が他の人を呼べないのは龍二くんが一番よく分かっているでしょう。私たちはもちろん龍二くんの助けになれたらいいって思ってるけど、でも自分でタイミングをコントロールできないからさ」


「そうだったっけ」


 俺はぼんやりした頭で、リョースケを念じた。だがリョースケは現れることなく、目の前には相変わらず可愛らしい笑みを浮かべたアズサが佇んでいた。


「外に連れて行ってやらないから、機嫌が悪いのかも」


「それってなんだか、犬みたい」


 アズサはそう言って笑うと、消えた。音楽が鳴り始める。何か夢を見ていた気がするけれど、忘れてしまった。

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