第5話 ビールがない

 24時間営業を本当に必要としている人は少ない。最近ニュースで、某大手コンビニのフランチャイズ店が24時間営業を自主的に取りやめて本社と揉めたというニュースを耳にした。深刻な人手不足で、そこの店はもう立ち行きが行かなくなっていたのだが、このままでは契約違反になるらしい。大抵の人は早朝、朝、昼、夜の4つの時間帯に利用するだろうから、その時間帯さえ開けていれば困らないのかもしれない。けれど、俺のような社会のはみ出し者からすれば――やっぱりこの時間にも、開けておいてほしい。


 聞き慣れた入店音が鳴っている間にも、頭の中のクラシックは鳴りやまなかった。いらっしゃいませー、と俺たちと同年代くらいの女性が口にして、アルバイトの彼女――誰だったっけ、忘れてしまった、は軽い足取りで2人掛けの席に荷物を置いた。俺はせっかくコンビニで買ったビールが温くなってしまうことを危惧したが、もうどうでもいい気もした。ビールをビニール袋ごとカバンにしまう。ここにいれた、ここにいれた、と心の中で復唱する。缶をそのまま入れたんだ、見失ったり忘れたりすることはきっとないだろう。


「私、深夜勤務のあとは必ずここに寄るんです。夜の静寂が、なんだか好きで」


 彼女ははにかんだ。俺は必死に名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。頭の中がごちゃごちゃになる。音楽はかつてないほどの音量で耳のそばで鳴っていた。なぜ自分がここにいるのか分からなかった。彼女は俺に何を言いたいのだろう。彼女は――。



「志島くん、いっつも放課後の掃除手伝ってるよね、どうして?」


「なんで?」


「だって、自分の班でもないのに必死に掃除して――ボランティア精神溢れまくってるの?」


「早く独りになりたいんだ。誰もいない、たった一人の教室。あれは最高だぜ。クラスメイトも、教師もいない。重たい教科書は机の中で眠ってる。西日が差して、ぼんやりと1日を振り返る。大抵の場合、ロクな1日じゃない。だけど気分がいいんだ」


「たそがれたいのね。……でも、私はそういうのダメだと思うな」


「え?」


「用事がないのに学校に残ってるのは良くないよ。今だって」


 用事ならある。君と話しに来てるんだ。


 その言葉を飲み込み、彼女の旋律に耳を傾ける。


 あれは、どれぐらい前の話だったっけ? 遠い遠い昔のような気がする。



「先輩、聞いてます?」


「え、なんだっけ」


「やっぱり聞いてない。私、一生懸命話してたんですよ。先輩聞いてくれてると思って、いい気になってたのに」


「ごめん、何の話?」


「だから、もうすぐ最初のテストがあるんですよ。小テスト。あの、『愛と死の英米文学』の講義!」


「ああ」


 そんなどうでもいいことを伝えに来たのだろうか、この子は。他人の行動原理が分からない。自分の行動原理すら、分からない。


 突然死にたくなった。また、ユウに出会うかもしれない。なぜ俺はあの女に、ユウと名付けたのだったか。


「先輩最初の講義以外、だから前回と前々回、出てなかったですよね? だからノートも取ってないし、レジュメもないでしょ? だから、もしよかったら私が見せてあげても、その、いいかなって」


「なんで?」


「え」


 彼女は言葉に詰まった。隣の席に座っていた初老の男性の新聞が、くしゃ、と音を立てた。


「なんでノートと、あとレジュメ? 見せてくれるの、わざわざ。俺に」


 レジュメって何だったっけ。


「そ、それは……迷惑、でしたか」


「迷惑?」


 話が噛み合わない。今すぐ家に帰りたいと思った。


「なんでって聞いてるんだけど」


「出過ぎた真似をしてすみません。私、新入生だから舞い上がっちゃって。ご、ごめんなさい」


「いや、見せてくれるのはありがたいよ。でもなんでかなって――」


「ほんとですか! じゃ、じゃあ明日の12時半ごろ――2限が終わった後、空いてますか? 一緒に、その、お昼――」


 店内にクラシックが流れていることに気が付いたのはその時だった。頭の中のクラシックと、店内のメロディーが重なる。


「この曲じゃない」


「え?」


「この曲は『トルコ行進曲』だ。モーツァルトの」


「な、何の話ですか?」


「この曲だよ、ほら、タタターンって」


「ああ」


 彼女は声を落とし、小声でつぶやいた。


「……先輩って、変わってますよね」


「それって、真人間じゃないってこと?」


 彼女は俺が聞き逃さなかったことに驚いた表情をして、その後、真人間? と聞き直した。


「真人間って何ですか」


「君がそう言ったんだろ」


「そんなつもりじゃないです、私はただ――」


「確かに俺は真人間じゃないかもしれない。でも、でもさ」


 リョースケの言葉を反芻する。いや、あれは本当にリョースケの言葉だったか?


「弱くても立ち上がらないとって、友達が言ってた」


「いい友達ですね」


 彼女が笑った。ビールが飲みたい、と思った。どこにしまったのか忘れてしまい、焦る。『トルコ行進曲』は終わり、別のクラシック――俺の知らないクラシックが流れても、頭の中で例の音楽が鳴り続けている。


「ビール、どこにやったっけ?」


「先輩、一番大きいポケットに入れてましたよ。ていうかそこにしか入らないと思いますけど」


「ああ」


 あった。まだ冷たさを保っている。


「ありがとう。それと、ごめん、名前なんだったっけ?」


「西谷満です。覚えていてくださいね、志島隆二先輩」


 リョースケの好みの女の子ってどんなだろうと思った。今度聞いてみよう。

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