第4話 外に出られない
「ついに出てきたのか」
リョースケは鏡の前で、他人に決して披露することのない髪型をいじりながら言った。彼の後ろに立ち、死んだような眼で鏡に映らないはずのリョースケを見る。
「ひで―顔。顔洗えよ、ほら」
アズサ、リョースケ、ユウの順で現れたイマジナリーフレンドはどれも、最初は幻影のようにぼんやりしていて、姿かたちがはっきりしなかった。けれど付き合いが長くなるうち、彼女たちははっきりと世界に干渉するようになった。ものを食べなかったり、重さを感じなかったりと通常の人間とは異なる部分も多いが、少なくとも俺の生活圏では俺の友達は世間的に言う友達と同義だった。そこにいて、笑い、泣き、俺を慰め、時に俺を殺そうとした。
水が冷たい。皮膚に張り付いて取れない氷のような感覚がした。
「……落ち着いたか?」
「俺たち、友達だよな」
「おうよ」
「でも俺はお前が消えればいいと思ってる」
「知ってる」
振り返る。リョースケが笑っている。男でも惚れてしまいそうな、眩しい笑顔。
「……それって最低じゃないか?」
「どうだろうな。考え方はそれぞれあると思うし、例えばアズサなんかは違う考え方をするかもしれないけどさ、俺は、俺たちの役割ってお前が幸せになることだと思ってるんだよね。俺たちがいた方がお前にとって幸せならいたほうがいいと思うし、不幸せなら消えたほうがいい、というより自動的に消えるんじゃないか? そうなったらなったでいいと思うんだけど。ま、消える前に外の空気を吸いたいってのはあるけどさ」
少しの沈黙が流れる。リョースケはパンと手を叩き、よっしゃ、ゲームすっぞ、と言った。
「いや、やめとく」
「そう? 眠れそうか?」
「……コンビニ行くわ」
リョースケは何かを言いかけたが、何も言わずにまた笑った。もしかしたら、という期待を込めてドアを開けた瞬間、リョースケは消え、音楽が鳴り始めた。
あいつは絶対に外に出られないのだろうか。そう仕向けたのは紛れもない俺自身なのだろうか。しばらくドアを閉めずに、冷たい深夜の風が吹きこむマンションの玄関を見つめていた。5分で帰ってくるのに。たった5分だけでも、リョースケを連れ出してやりたい。夜のネオンが輝く、真人間たちの街に。
「この曲さ、この4分半に全部詰まっている気がして好きなの。人生の、全部が」
「今度の発表会、私、この4分半に命賭ける。今までで最高の4分半にしてみせる」
彼女の声を反芻する。彼女はあの4分半に命を賭けようとして、そして文字通り命を失った。
「いらっしゃいませー」
頭の中で、耳の中で、何度も音楽が鳴った。4分半が終わると、また最初から音楽が流れる。この音楽が幻聴なら、イマジナリーフレンドは幻覚だろうか。あいつらは存在しないのだろうか。それとも、俺が生み出した実存在なのだろうか。
同じ銘柄のビールを手に取る。同じ音楽が鳴っている。同じ人を思い返し、同じだけの金額を払う。
「珍しいですね」
「え?」
誰がなんと言ったのか、気が付かなかった。視線を向けると、アルバイトの女の子だった。
「こんな時間にやってくるなんて。寝酒は危ないですよ」
「ああ……」
音量が大きくなった。それは全体的な音量のことかもしれないし、単に曲が佳境に入ったからかもしれなかった。突き止めようとは思わなかった。理由なんて知りたくないし、知ったって意味がない。
アルバイトの女の子は周りをきょろきょろと見まわし、俺たち以外に誰もいないことを確認してから、恥ずかしそうに言った。
「志島先輩……ですよね。東京第三大学の」
東京第三大学。それは紛れもなく、俺が通っている大学の名前だった。
通っている? ちげーだろ、お前ほとんど講義に顔出してねえじゃねえか。
もしここにリョースケがいたなら、そう言ったはずだ。外でリョースケのことを強く想えば、ひょっこり現れるかもしれない、と思った。
「私、西谷
「え、知らない。ごめん」
彼女は目を伏せ、小声になった。
「そ、そうですよね……私、学年は1つ下なんですが、同じ講義を取っているんですよ。『愛と死の英米文学』! 先輩も取っていましたよね? 最初の講義の時、いた」
愛と死の英米文学。そのインパクトのある科目名ですら、俺の頭には残っていなかった。
「そうだったっけ?」
「そうですよ、いました、絶対いました。だってあの時――」
「ん?」
みっちゃあん、何してんの、とレジの奥から男の声がした。何度か耳にしたことがある。確か、このコンビニの店長だ。
すみませえん、と大きな声で開け放たれた扉に向かって叫んだアルバイトの――西谷さんが、また小声になり口にした。
「……私、もうあがりなんです。コーヒー、飲みに行きませんか? マックで」
音楽が鳴りやんだ。そしてまた、最初から音楽が鳴り始める。
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