第3話 自殺できない

 

 夢を見た。まばゆい光が天井から差している。それに反して、彼女の眼前は薄暗い。俺はどこかから、それを見ている。きっと、ステージの後ろからだ。


 それはピアノの発表会で、彼女はたった一人で舞台に立ち、仰々しくお辞儀をした。大きな拍手が彼女を包み、静寂が訪れて、彼女はゆっくりと大きなピアノに向かって歩みを進める。ギイ、と鈍い音がして黒い椅子がきしみ、彼女の美しく細い指が、白い鍵盤に触れる。


 俺は息をのむ。突然、演奏させてはいけないという想いに駆られる。


「やめてくれ!」


 俺はめいっぱい叫ぶけれど、誰も俺の声には気づかない。演奏は予定通り始まる。誰もが聞いたことのあるクラシックに、観客は息をのむ。曲名が分からない。あの日、音楽室で何度も聞いたはずの曲名だ。今度教えてよなんて軽口を叩くと、彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめて、「また今度ね」と言ったのだった。

 まだ幼かった俺は、その遠回しの拒絶の言葉を理解できずに、「ほんとに?」と馬鹿みたいに笑っていた。


 なにが幼かった俺だ。たった2年前の話じゃないか。



 目が覚めた。パジャマはぐっしょりと濡れていて、シーツも濡れていた。突然部屋中が異臭に包まれている気がして、リョースケが言ったように換気しようと窓を開けた。

 

音楽が鳴っていない、ということに気が付くのが一瞬遅れた。


「ねぇ」


 アズサであればいいのに、と願った。しかしその掠れた声がアズサのものではないことは、俺自身がよく知っている。


「死のうよ」


「ユウ……!」


 窓から、飛び降りるようにしてその女は入ってきた。整えられていない長髪はボサボサで、金髪と黒髪がまだらだ。目元まで髪の毛が侵食していて、表情はよく読み取れない。


「ずっと我慢してきたじゃん」


 ゆらゆらとユウが近づいてくる。後ずさりをするが、床に置いた通販の段ボールに足を取られて転んでしまう。仰向けになった俺に、ユウが覆いかぶさる。金髪が頬に当たって、痒い。


「もう限界だと思ってるんでしょう? でも死ねないんでしょう? 大丈夫、私が殺してあげるからさ。このまま首を絞めて、楽にしてあげるから。あの子のことも、頭の中の音楽のことも、アズサのこともリョースケのことも私のことも、全部消えてなくなる。全部」


「お、俺は……」


「俺は、何? あの子への未練を引きずって、卒業したはずの一人遊びを復活させて、女の子やイケメンの友人とお話して自分を保って、それで生きながらえてるのが正常だと思う? 私たちはね、子供の遊びだから許されるのであって、大人が――まあまだあんたは学生だけど、ある程度歳を重ねた人間がずっとそうだとね、病気なの、わかる? 病気」


「分かってるよ」


「じゃあなんで病院に行かないの? 自分は社会不適合者だって、負け組だって思いたくないからでしょ? その安い自尊心を守るために、自分の人生ドブに捨てて生きることも死ぬこともできずにずうっと、あの子が好きだーって言ってるの? あほくさ」


「やめてくれ」


 ユウが俺の首に手をかけた。苦しい。視界がぼやけていく。


「死は救済だよ。どうにもできない人間っているんだよ。わかる? どんなに努力しても真人間になれない、普通の生活を送れない、高すぎるハードルをくぐることすらできないゴミっていうのは存在するんだよ。そんな奴が生きてたってなんにもならないんだよ。だから早く助けてあげないといけないんだよ」


 音楽が鳴ってほしい、と願った。でも、俺が願った時、その通りになったことなど一度もない。


 その瞬間、曲名を思い出した。


「思い出したんだ、分かったんだ、あの曲は――」


 意識が遠のきかけた。強い痛みが俺を襲った。その瞬間、音楽が一瞬なり始め、すぐにまた消えた。


「あ――」


 ぼんやりした瞳で左手を見る。何をどうしたのか分からないけれど、手のひらに浅い傷ができていて、そこから血が流れていた。


「生きてる」


「大丈夫?」


 甲高い声がした。


「ねぇ、大丈夫? 大丈夫なの?」


 アズサだった。俺はアズサを抱きしめながら泣いた。重さは感じなかった。


「思い出したんだ、あの曲は――」


「ん?」


 アズサの柔らかな声を聞いた瞬間、また、曲名を忘れてしまった。


「嘘だろ、さっきまで、ほんとにさっきまで、今さっきまで分かってたのに!」


「無理に思い出さなくてもいいよ」


 アズサは言った。時計を見ると、0時だった。


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