第7話 名前が思い出せない
今思えば彼女は、何かの病気だったのではないだろうか。もちろん、大舞台を前にすれば大抵の人が神経質になり、焦り、戸惑う。けれど彼女のそれは病的なものだった。俺が愛した――愛したなんて言うこと自体恥ずかしいが、俺にはその権利があると思う――彼女の何気ない笑みは、彼女の命の終わりを暗示するかのように日に日に消えていった。それも発表会が終わるまでの間だ、と俺は楽観的に感じていた。
彼女の発表会は永遠に終わることがない。
「俺さ、保護者席の隣で、最前列で演奏を聴いてもいいかな」
「やめて。絶対にそんなことしないで」
「いいじゃない。志島くんほど熱烈なファンもなかなかいないわよ」
彼女は俺を疎ましく感じていたのだと思う。あれは一方的な好意だったと自分でも分かっている。生き霊って死人にも届くのだろうか。
あの時死ぬべきなのはあんただったんだよ。
あの時? あの時って、いつ?
「30分遅刻です」
目の前の女の子は、腕時計に目をやってはにかんだ。遅れたことを謝らなければならない、と思ったが、何時に約束していたのか、何の用事だったのか、俺には皆目見当がつかなかった。
「あ、ごめん。何時の約束だった?」
「ひどいです、先輩。12時半に一緒にお昼食べましょう、って言ったじゃないですか。みんな席とっちゃって、満席ですよ」
確かに食堂はごった返しているように見えた。しかし食堂に来たのはこれが初めてだったので、本当のところはよく分からなかった。
彼女は手にサンドイッチを持っていた。とても柔らかそうなパン生地だった。彼女の指を見て、あの子より短い、と直感的に感じた。鍵盤って硬いのだろうか、と昔考えていたことを思い出す。硬かった気がする。鍵盤ハーモニカではなくて、本物のピアノの鍵盤に触れたことは数回しかなかったが、あの硬さはなぜか覚えている。人間の歯のような白は、素人の俺を軽くいなした。あなたなんかお呼びじゃありませんよ、と高く留まっているかのように。
けれど彼女が触れた瞬間、その固い口は柔らかにほぐれ、笑い、美しい声を出した。目にも止まらないスピードで、俺の知らないクラシックを弾いている時もあった。そんなときも彼女の細く長い指は、鍵盤の心を解きほぐし一緒に踊っていた。
「別に気にしませんけどね。こういうごみごみした場所じゃなくて、小さな講義室で静かに先輩とお話しするのもいいかなって思ってたんです。これ、サンドイッチ作ったんですけど、良かったら食べます?」
ん、と彼女はサランラップで包まれたサンドイッチを渡してきた。俺はなぜ彼女がそこまでしてくれるのか不可解だった。そして前も聞いたであろう名前を思い出せないことに焦りを感じた。
「ありがとう」
彼女は何も言わず笑い、3階の小教室に行きませんか、と言った。いいけど、と返すと、彼女は少し沈黙して、あの、と口にした。
「なに」
「同じ英米文学科なんです。学年は1つ下ですけど、たぶん、きっと、同じ科目をたくさん取ってると思うんです。だから、講義が一緒になったときは、その、」
一緒に受けませんか。
彼女は友達がいないのだろうか。いい友達を紹介してあげたくなったが、残念なことに俺は俺の中にしか友人がいなかった。
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