第18話 二度目の死

 ◇ ◇ ◇ 


 生い茂った森。新鮮な空気の中に混じる、濃い瘴気――《魔素》。

 凸凹した地を踏みしめ、アーガス王国兵が乗る馬車を馬が引く。

 揺られるたびに襲う鈍い痛み。ヒツギも含めて王国兵たちの全身から血が滲んでいる。


 ここまでたどり着くまでに、多くの魔物との戦闘があった。

 道も中ほど、もう魔の森の奥に入った。引き返すことはほぼ不可能だ。

 みんな暗い瞳をしている。この後訪れる悲惨な未来を嘆いているのだろう。


 そのとき、一際大きな地鳴りがヒツギたちを襲った。

 一瞬、地震かと疑ったが、このバベルニア大陸に地震という概念は存在しない。

 震える大地。巻き上がる土砂で曇る視界の中、ヒツギだけは冷静に敵を探す。

 上下左右に揺さぶられる馬車の中では、視覚も聴覚もないに等しい。


 気を巡らせて、敵の生命の源を知覚、索敵、探知する。

 天を裂く激しい雷鳴。否、それは雷などではなく、龍の咆哮であった。

 天だけでは飽き足らず、地すらもつんざく覇者の唸り声。

 聞く者すべてを畏縮させる圧倒的な重音。体がずっしりと重く感じる。


 ドラゴン――地球においては、伝説上の生物。

 だが、このアスガルドでは、ドラゴンは鱗に覆われた爬虫類を思わせる体に、鋭い爪と牙を携え、口から炎や毒の息を吐く、最強の怪物。大きな両翼で空を自在に飛ぶこともできる、天と地を支配する龍。体色は緑色だった。つまり属性は風。風属性の魔物。


 猛り狂う巨大なドラゴンの尾が思いっきり地面を叩いた。その衝撃だけで馬車は崩れ、ヒツギも含めてすべてのアーガス王国兵の体が浮き上がる。そして広がる龍の翼。それが空を裂いたその瞬間には、アーガス王国兵は勢いよく吹き飛ばされ辺りの木々に叩き付けられていた。運悪く尖った木の先に体を貫かれた兵士は、その数秒後には命を落とす。


 着地に成功した者だけが、ここからどうするかを考えるが、彼等の脳裏を占めるのは逃げの一択。否、むしろ完全に気持ちが折れてしまい、動けない者のほうが多い。

 肌がひりつくような緊張。

 自我を見失いそうになる濃密な死の予兆。


「おおおおおおお!」


 思わず気圧されそうになるが、ヒツギだけは裂帛の咆哮と共に強大なドラゴンへと立ち向かう。……自分から飛び込め。ここでリスクを避けては、こいつを倒せない。


「《肉体機能増幅フィジカルエンチャント》! 《加速ヘイスト》」


 ブーストした身体能力で、自分の何倍もの大きさを誇るドラゴンへと挑む。

 奥の手――《虚空暗黒領域ヴォイドフィールド》を使おうにも、物理攻撃に特化したドラゴン相手には用を為さない。ならばこそ、もう一つの魔術の最奥、極大闇魔術――


「近距離からの《暗黒凶星ダークディザスター》! こいつで吹き飛べぇえええ!」


 しかし、それも荒ぶるドラゴンの怒鳴り声でかき消された。


「なっ……! にっ……ぃ……!?」


 緑竜の固有能力――《暴風の息吹》。局所的な魔術無効化スキル。


「チッ、クソが! 使ってやるよ、屍術――《死者の呪腕》!」


 右手が紫色に光る。触れた対象の魔素を吸収する呪いの手。

 自分がアーガス王国兵を逃がす時間を作らなければならない。

 こんなことに巻き込んだ責任が、罪悪感がある。

 生き残りたければ、全身に重く絡みつく罪の鎖を引き千切るしかない。


(逃げるな、向き合え。己の罪と。ここで、すべてを……捧げる……)


 ドラゴンが居座るその周囲は、凄まじい闘気で陽炎のように揺らめいて見えた。


「朧月・肆ノ型――《泡沫の夢》」


 流れるような身のこなし。水面に浮かぶ泡のように、ぼんやりとした存在になる。

 迫る鉤爪を空中で身を捻って躱し、ドラゴンの前足を蹴りつけてさらに高く飛ぶ。

 どうやら気性が荒いドラゴンを引き当ててしまったようだ。

 絶体絶命のピンチ。脳裏に死がよぎる。だけど、それでも、自分だけは――


 想い出は甘く香る。ヒツギは今まで紅花とヒルデという、頼もしく愛おしい師匠と不器用で優しい先生に導いてもらった。だが、ここから先は、自分の力で前に進まなければ、この世界では生き残れない。冷酷な生存競争の渦で勝ち続けなくてはならないのだ。


 諦めなければなんでもできる訳じゃない。でも、諦めたらそこで終わり。後悔しか残らない。だから、今、自分にできる最大限のことを――――――


 そう考えていた矢先、ヒツギは突如として勢いよく旋回したドラゴンの風圧に晒される。遠心力が働いた鋼鉄の尾に肋骨ごと粉砕され、一番太い木の幹へ強かに叩き付けられた。


「がぁっ! ぁ、はっ……ぐ、ぼぉ……」


 口から臓器ごと吐くように血を零す。自分でも分かる程、洒落にならない出血量。

 砕けた骨が肺に突き刺さる。痛みが酷すぎて、意識を飛ばすことすら叶わない。


(ありえない。ドラゴンとは、これほどまでの強さか)


 大きく開いたドラゴンの口から、紅く輝く灼熱の光が灯る。

 明滅する視界の中で、ドラゴンが口から火を噴くのが見えた。

 真っ赤な炎の渦。焼き尽くされる森とアーガス王国兵の生き残り。

 皆が皆、痛みと苦しみに泣き叫び、悲痛な声が木霊する。

 血風が吹き荒れ、阿鼻叫喚が響き渡る。魔の森は地獄と化していた。


 しかし、その声もやがてはすべて聞こえなくなり、絶命したアーガス王国兵と、為す術もなく気を失いかけているヒツギを放置し、ドラゴンは何事もなかったかのように去って行った。それこそ、道端の雑草を踏み潰すかのように。なんの感慨もなく。


 目は掠れ、頬は擦り切れ、肩は抉れ、脇腹は削がれ、皮膚は剥がれていた。

 額が割れて、頭から派手に血が出て、眉間を掻き分け頬に伝う。ドロッとした赤黒い液体が鼻から垂れる。胸を刺すこの痛みに、降り注ぐ血の雨に、差し迫るのは焦燥感。


 黄昏に終わる景色を見て、無常の闇を永遠に刻む。瞼の裏はすでに暗い。

 もうすぐ尽きるであろう、この命に何を望む? 救いの手は差し伸べられず。


(…………ここまでか)


 憎悪と虚しさの中で、ヒツギの意識は闇に包まれた。

 どこで何を為そうが、決して自分の足跡を残すことはできない。

 そう定められた人生。

 曲げることのできない運命。

 逆らえない世界の理。


 それでも、まだ――終われない。

 難しく考える必要なんてない。


(生きていたい。この夢が叶うまで。俺は誰かに必要とされたい!)


 ならば、最期まで、王子としての使命を果たすのみ。

 命の灯火は激しく燃ゆる。

 眼精の炎はいまだ絶えず、己が怨敵を鋭い眼で射殺す。

 その瞳に宿るのは不屈の精神。

 何があっても退かないという強い意志。


「ははっ、待てよ。このクソ蜥蜴野郎!」


 諦めない。まだ何もこの世界に生きた証を残していないのだから。自分が自分であるために、高森柩として、ヒツギ・フォン・アーガスとして、この想いだけは譲れない。


「いつまでも、我が物顔で、好き勝手やってんじゃねぇえ!」


 静かな怒りを声に滲ませながら、鋭い双眸で去り行くドラゴンの後ろ姿を睨み据える。


「悪いが付き合ってもらうぞ。俺の命が尽きるまで……」


 ――見届けろ。その目に焼き付けよ。不退転の覚悟を。


 紫水晶のような瞳を泥のように濁らせながら、夢遊病者のような足取りでふらふらと彷徨う。残忍な殺意を己が内から滾らせながら、ヒツギは――――ぐにゃりと揺らぐ視界。

 心は屈していなかった。だが、体がとうに限界を迎えていたようで。

 がくりと膝が折れ、前のめりに倒れ込み、無残に死に絶えたアーガス王国兵と、燃え尽きた死の森の背景の一部となった。焼けた大地に溜まる血の海に沈む。


 抗えない結末にその身を焦がし、飲み込まれそうで、選択の果てに未来はなく。

 眼に映るものが朽ちる。死んでゆく色彩。灰色の世界の訪れ。


(……なんだ。また、この死に方か)


 誰にも必要とされず、誰にも見届けられず、陽の当たらぬ場所で独り。


(いつも見る景色だ。これが俺の終着点。変わらぬ最期。覆らない結末)


 今までのことは、このアスガルドに転生してからの幸せな日々は、すべては夢だったのだ。夢はいつか覚める。終わりが来た。ただそれだけのこと。


 夢の名残が流れゆく。

 砂のようにさらさらと。

 零れ落ちるように。


(あぁ、そうか。俺はここで烏か蛆虫にでも食われ、土に戻るのか。俺も……屍に)


 前世で何も成し遂げられなかった男は、この世界でも何者にもなれなかった。

 ヒツギ・フォン・アーガスという、人間の王族としての物語はここで幕を閉じる。

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