第3話 果てる命

 瞳が燐光を捉える。

 吸い込まれる、死の刃。


(こんな……ところで……――――――ッ!)


 左目が瞼ごと斬り潰され、視界が真っ赤に染まり、手甲と足甲が砕け散った。

 師匠、紅花の形見である紫色の紐が千切れ、長い黒髪が血飛沫と共に揺れる。


(……紅花……俺は……)


 倒れそうになった背中を、よく知る『女の手』に支えられ、前に押された気がした。赤い血に染まる白い道着。それでも柩は諦めない。この命が果てる最期の瞬間まで。

 秘門歩法、《活歩かつほ》。

 《震脚》を踏んだ後、地面を滑走するように移動。

 中国拳法の特殊歩法で、景久との間合いを一瞬で埋める。


「負けられない! 絶招・《浸透双掌波》!!」


 絶招、つまりは奥義。中国武術における発勁の一つ《浸透勁》と《双掌打》の合わせ技。下半身の筋力と推進力を背中の筋肉で増幅させ、至近距離から両手のひらを景久の体に密着させた刹那、強く前に踏み込み、体を捻る勢いを加えた《勁》を与える。

 体の外部と内部を同時に破壊する、真の意味で必殺の掌打。

 それをまともに受け、景久は勢いよく吹っ飛び、床に倒れ込みながら激しく喀血した。


「違うんだよ、もう昔とは。上泉、景久ぁあああ!」


 心臓が痛くて死にそうなのに、鼓動が止まらない。


(泥臭くてもいい。勝って自由になったら、俺は紅花の故郷に行く。そして――)

「オオオオオオオオオオ!」


 割れた額から血を流し、鬼気迫る表情をした景久が、白目を剥いて吼え睨んでくる。


「無駄だ、高森柩。それ以上足掻いても苦しみが続くだけだと、なぜ理解できないッ!」


 恐るべきことに、口から赤黒い血を大量に垂らしながらも、景久が立ち上がってくる。


「なぜ、私が勝ちにこだわるのか。それは、私がこの世に生まれたからだ。私のこれまでの人生において、負けとは死を意味している。ただの一度も、負けてはならないのだ!」


 鬼神の如き表情で、ただ勝利だけを見据えて、こちらに向かう足を止めない。


「勝利だけが……私のすべて……っ!」


 常勝無敗の上泉景久の体と心が敗北を拒絶する。

 負けることを受け入れない。

 対するこちらは、残された右目だけを見開き、震える両足で立っているのがやっとだ。


「すでに視界もままならないだろう。己が敗北を受け入れろ――高森柩ィイイイ!」


 振り下ろされる景久の太刀。

 それも、もうまともに見えない。それでも、


「《聴勁ちょうけい》」


 文字通り、柩は景久の《勁》を聴く。

 別に勁力とは音が鳴るものではないが、目に見えるものでもない。

 防刃グローブで景久の太刀に触れた瞬間、彼の動作を感じ取る。

 憔悴し、限界まで力が抜けたからこそ至れた《静の極致》。

 景久の気配を肌で感じ取り、その動きに対して無意識に予備動作なしで反応する。


「気に食わぬ! 窮地だというのに、その目に灯る火が気に食わぬ。ここで果てろ!」


 無数に振るわれる死の刃。そのことごとくを、防刃グローブを使いパーリングした。


「クソ! 轟け、第七秘剣! 《万雷神刀ばんらいしんとう》」


 迸る一瞬の輝き。

 遅れてやってくる、体の芯を揺さぶるような轟音と衝撃。

 柩は目を使わずに、音だけで景久の攻撃を予測し、最小限の《化勁》で受け流す。


凰式フアンしき――《てん》!」


 景久が驚きに目を見開き、殺気を膨らませながら吼えたのが分かった。


紅花ホンファ……俺は……」


 いつか恩返しがしたかった。

 だけど、もう……遅かったんだね。


「ならば、無駄に足掻くその足を斬り落としてやろう! 《紫電一閃》ッ!」


 パン! という銃声のような発砲音が鳴ったかと思うと――次の瞬間、ザン! という風切り音が遅れて聞こえ、この世で最も鋭い斬撃に骨ごと両足が断ち切られる。


「あ、あ、が……ぐ……あっ、足、足がっ! が……ッッ!」


 翼をもがれた鳥のように、無様にずるずると床に這いつくばる。

 綺麗に削がれた切断面から、大量の鮮血が溢れた。

 上泉景久の足が、自分の目の前にあった。


(もう腕しか動かない。それでも、まだ……俺は、紅花の……弟子だから……)


 紅花を失った悲しさをバネに、ここまで強くなった。すべては弱い己に勝つために。


「ま、まだだ……! まだ、終わっては……いな、い」


 柩は景久の足を破壊せんとばかりに握り潰す。


「諦めろ。もう手遅れだ、お前は助からん」


 両足のなくなった柩の胴体を景久が蹴り上げ、宙に舞う柩の腹部を深く斬り裂いた。


「終天……第九秘剣! 《死山血河》」


 激痛などという表現すら生温い。

 神経を溶かされるような荒れ狂う幾千もの蹂躙。

 鈍色に輝く血塗れの切っ先が、柩の腹を貫く。


「残念だが、高森柩――お前の物語は、ここで終わりだ」


 口内に血の味が広がる。

 唇から漏れる赤い雫。

 堪えきれずに吐くように喀血。

 目が霞む。口からだけでなく、目や鼻からも赤黒い血が垂れてきた。

 体感的には止まった時間の中で、両者の視線が交差する。

 剣士は愉悦に満ちた笑みで、拳士は今にも光を失いそうな暗い目で。

 そして凍結された時は動き出す。片方は確実に死に向かって。


 何もかも、蹂躙されていく。鉄臭い。全身から血の匂いがする。何度嗅いでも鼻につく嫌な匂いだ。柩の体は容赦なく躊躇いなく斬り刻まれて、襤褸布のように血の海に伏している。数多の裂傷で覆われた赤黒い両腕はもう動かない。内臓も破裂しているだろう。

 もはや悲鳴も掠れた柩は、痛みに声を上げることもなく、苦しみに悶えるしかない。


「お前は心のどこかで死にたがっていた。生を諦めていた。武人として、その実力に私とお前に差はなかった。もしもあったとすれば、それは命に対する執念の差。それがこの結果だ。見ろ。この通り、実のところ……私もボロボロなんだ。もう動けない」


 互いの実力が拮抗していれば、最後に試されるのは心。

 残った右目で景久を見ると……なるほど、健闘の証がそこにあった。


「ははっ、あと一歩で、史上最強の剣士に勝っていたのか……」


 紅花が死んでから、心のどこかで自分は死に場所を求めていた。


(……ここだ。俺は今日、ここで死ぬ)


 今まで絶望に満ちたこの世界で一人孤独に生きてきた。

 柩には大切な人がもういない。たったの一人も。

 自分以外の人間が死んでも別になんとも思わないし、心が動かない。

 でもそれは、この世界にとっても同じことで、柩が死んだところで誰も悲しまないし、誰も涙を流さないだろう。この世界にとって柩は路傍の石だ。もしかしたら、それ以下かもしれない。改めて思い知らされる、自分がいかにちっぽけで無価値な存在なのかを。


 意識が薄れ、ついには千切れた膝から崩れ落ち、自らの血の池に沈む。

 人が歩けば足跡が残る。

 それが命を持たぬ亡霊のものでなければ。

 ふと、師である紅花の言葉を思い出した。


『柩、お前が死んだところで、世界は何も変わらない。だが、お前が生きることで変わるものもある。私はお前に会って変わったよ。柩、お前を……好きになった』


 果たして、自分はこの世界に足跡を残せたのだろうか。


「かっ、がはっ……ごぉ……」


 大量出血による心肺の停止。

 意図せずして体がぴくぴくと痙攣する。

 死には慣れていた。今までもいろんな死を見てきたし、死体に触った回数は覚えていない。死は日常に溢れている。死ぬことなんて怖くない。

 そう思っていたけど、いざそのときになってみると、やっぱり怖いものだな。

 だって、自分という存在が永遠に消えてしまうのだろう。死んだら無になる。何もないということすら知覚することができない無だ。

 その魂は無窮の闇を彷徨い、やがて土へと還るだろう。

 死闘を演じた共演者――己が血と柩の返り血に塗れた剣鬼、上泉景久を見やる。


「上泉、景久……先にあの世で、お前が来るのを……楽しみに、待っているぞ」


 体も心も、魂すらも腐っていく。

 寒い。冷たい。凍えそうだ。

 今はただ、凰紅花という一人の女に会いたい。

 もう一度だけ、声を聞きたい。

 刻々と近づく死の足音。

 静かに迫る終焉の刻。

 ここが死闘の果て。

 心臓が止まる。鼓動が聞こえない。

 光が消えていく。静かだ。

 さっきまで、品のない客の歓声で喧しかったのに。もう何も、聞こえない。光も音もない世界。


(俺にだって、感情がないわけじゃない。胸に抱くのは……悔しさ、憎しみ、怒り、恨み……いや、虚しさか。結局、俺の願いは何一つ果たされなかった)


 この人生に、意味はあったのだろうか?


【あなたは、この世界が好き?】


 聞いたことのない、女の声がした。

 誰だか知らないが、それに答えることはできる。

 誰かに見下されるのは嫌だ。

 自分を憐れむ視線が憎い。

 屑で溢れかえった醜い世界。


(俺は、この世界が嫌いだ。そして同じくらい、自分のことも……嫌いだ)


【なら、こっちの世界においで】


 血塗れの体から力が抜け、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚がなくなっていく。

 何も見えない。何も聞こえない。隣接する死。

 手足の感覚もない。口いっぱいに広がる血の鉄の味も匂いも分からない。

 何もかもが失われていく。


 (俺が生きる理由は、もう……ない)


 心の奥底で渇望していた、永き眠りに今――――――

 …………あの世ってあるのかな?


(もし、生まれ変われるのなら、次は家族に必要とされたい。誰かに愛されたい。幸せになりたいな。そして、もし二度目の生があるのなら、俺はもう一度、紅花の弟子になり、あの人に厳しく鍛えられ、あの人に優しく頭を撫でてほしい)


 さようなら、無慈悲で残酷なこの世界。


(俺が弱いから、俺は死んだ。ただそれだけ。所詮はその程度の人間だったということ)


 だから、次はもっと強く――――――…………………………

 高森柩の魂は、この世から失せた。




『よく頑張ったね、柩。偉いぞ。誇らしい。だから、今は少しだけ……休もうか』


 最期に、もうこの世にいないはずの、紅花の愛おしい声を聞いた気がした。


『紅花、ごめん。迷惑ばっかりかけて……本当に、ごめんなぁ……』

『ばーか、そこは「ありがとう」だろう。このバカ弟子が』


(いつか、また会えたなら、紅花……そのときは、俺の家族になってくれ……)


 高森柩を変えたのは、世界への憎しみではなく、たった一人の女性からの寵愛だった。


(貴女の温もりが、言葉が、笑顔が、俺の世界のすべてだった。色のない世界も貴女を想えば黄金色に輝いた。俺にとっての太陽。いつの日か、また……)


 何度生まれ変わっても、きっと凰紅花に『恋』をするだろう。


「……ぁ……紅花……貴女に会えて……本当に、良かっ……」


 小刻みに震える唇が愛を伝える。

 ここではないどこかに想いを届けたがっていた。

 例え肉体が滅んでも、想いは消えない。

 記憶が消えてしまっても、繋がりは途切れない。


 ◇ ◇ ◇


 事切れた亡骸は血の涙を流し、その顔に儚げな薄い笑みを浮かべている。

 白熱した試合展開に興奮する卑しい観客。レフェリーが高森柩の死亡を確認した直後、彼を中心に赤黒い不思議な光が発生し、複雑な極大の魔術円が広がった。


「ついに! ついに再び、このときが来たかッ!」


 全身血塗れの上泉景久が髪を掻き上げ、血走った目で歓喜の声を上げる。

 赤黒い花弁が濁った血のように舞い散り、渦のような暴風に揺れていく。

 その光は轟音を立てて収束し、やがて何事もなかったかのように消えた。


 世界の理――《輪廻転生の輪》から外れる。


 その場にいた者の視界が晴れた後には、高森柩の死体はそこになかった。


 ◇ ◇ ◇


 自由を求め、敗北者となった男は、戦いの果てにさらなる闘争の地へ誘われる。

 この日、すべてを賭して戦った、空っぽな男の人生に幕が下りた。

 だが、カーテンコールにはまだ早い。


 人生の終わりは、運命の始まり――――


 凍て付いた男の心を溶かす熱を持った、激動の第二幕が始まろうとしていた。

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