ビークルの外出

@kamometarou

ビークルの外出

1.

 「死にたい。」

 想像上のレールの上を走りながら、今日もビークルは呟く。正確に言えば、ビークルとは主人公の僕、即ち人間のことを指すので、「走る」というと右足・左足を交互に動かして走行するというイメージを持つだろうが、こちらも比喩である。

 僕は、今見慣れた歩道を歩いている。四辺が波型になった長方形ブロックを敷き詰めた形で、アスファルトの道が出来上がっている。数色の異なる色が互い違いになり、見る人に多少の遊び心を与える歩道の上に、列車のレールを思い浮かべる。そしてその上を歩く。レールの虚像も、レールの上を走る感触も、マインズアイやマインズボディのようなはっきりとした感覚を持つわけではない。なんとなくの感覚で、自分は電車だという自己暗示をかけることで、「歩行」にぐらつきをなくさせるのだ。


 少し前までの僕は、歩行をする際に、自分の歩き方に自信が持てず、周りの目の有無にかかわらず周りからどう見えるかを過度に気にしていた。その心配が大きくなる時、歩行にぐらつきが生じていた。歩き方への自信のなさと書いたが、それは僕の自分全体への自信のなさの表出部にすぎないだろう。

 いっぽう今は、電車がレールの上をゆっくりと走るような感覚、「ぐらつき」が生じない感覚を覚えた。精神科にお世話になるようになってから一年。掌につかんだ砂ほどの自己肯定感を得ることができたようだ。

 自分への自信を少し持てたのが先か、つまり後からレールの上を走っているような感覚を見つけ、それを大切にし始めたのか、歩道の上にレールを描いてみたのが先か、今となってはわからないが、今僕の心は安定を得ているということは確かだ。


 ところで、僕は、そもそも人間って一人一人が電車の車両のようなものじゃないかと、感じている。いつも無意識のうちにレールから脱線しないようにと、自分自身を保とうとしている。ただし「自分自身を保つ」には二つ意味があり、一つが精神状態を保つこと、もう一つは自分というキャラクターを保つことだ。

 前述中の「歩行が安定した」というのは、後者の意味での「自分自身を保つこと」が、後からできるようになったということだろう。後者の意味だけでなく前者の意味合いにおいても、僕は物心ついた後からその術を学んだ。僕のように、レールから脱線しない術を後から得たという人は他にも多くいると思う。

 また、移ろう感情を、僕たちは車両の操縦席で眺めている。ときには器具を操作して、自分自身で調節することもある。

 感情は変に抑え込んでしまってもよくないし、暴走させるのもよくないと先生に教わった。静かに操縦席に座って、自分の中で動く感情を眺めて、自分で自分を茶化せるくらいの余裕を持てるようになるのがベストだという。僕には到底出来そうもなかった。


 「死にたい。」

 一年前にも同じセリフを言っていた。一年前と比べたら、濃淡としては十分の一くらいの薄さになった。いや、むしろ今は、自分で自分に突っ込みを入れるレベルまでに達しているのかもしれない。もう、少し前までと同じように、実際に自殺企図をしようと思い立ちもしない。

 周期的に襲ってくる大きな希死念慮を視野から追い出せば、もうカウンセリングなんぞに足を運ぶ必要もないだろう。


 ビークルはそんなに過酷な状況に追い込まれてもいないし、精神病でもない。それでもたまに襲ってくる鳥の形をした「死にたいマン」と、様々な心配を引き起こす「心配起こすマン」、加えてクモの形をした「不安マン」の話は、後でにしよう。




2.

 広大な空、とは言えなくなった、ガラス張りのビルで視界がふさがれた上空に、ポツンと独り立ちしている街灯の頭に飛び降りる。車道からは一台の車、歩道には一人の青年が歩を進めている。

 ここで「カア、カア」と一つ歌声を響かせるのもいいが、それではいつもと同じでつまらない。真っ黒な体をじっと固まらせて、下を歩く青年がちょうど真下に来た瞬間に、白いフンを落とす。さて。青年のリアクションに期待し、ぴょんと体の方向を変えてから下を見やるが、なんと青年は気づいていない。ジャンパーの後ろ側、背中部分の左脇に白い跡がついいていた。どのタイミングで気づくだろう。カラスはその風景を想像して、胸が高鳴った。


 人間というのは、いつも偏見を持ちたがり、その美醜によって無意識に評価を変える。俺は、真っ黒い羽根を持つというだけで、なんとなく近寄り難い印象を与えるらしい。もちろん、だからと言って敬遠する者ばかりではないというのはわかっている。俺をいつも避けて通ろうと奴らがするのは、俺がごみを漁ったり、くちばしで襲ったりするからだろう。

 だが、もし鮮やかな羽をしていたならどうだろうか。街中では敬遠されるとしても、動物園ではインコなどと同等にちやほやされていたかもしれない。動物園の動物たちと同じように、そしてペットとして可愛がられる犬や猫のように、人間の愛を精一杯受けてみたかった。


 ここらには俺たちに似ているが、一つ決定的な外見上の相違点を持つ生き物が住んでいる。その生体はたった一体のみ。人間の目には見えない、「死にたいマン」と呼ばれる鳥だ。そいつと俺たちとの相違点は、羽に光沢がないことだ。人間といえども知る人は知っている、カラスには鮮やかな光沢があるという事実は、生物界では常識だ。「死にたいマン」は、人間以外の動物が持つ第六感の力でしか見ることができない。

 真っ黒な羽で人の肩に降り立ち、人に死という選択肢を与える。そいつは捕食を必要としない、所謂妖精の部類に入るらしい。俺たちが長い歴史の中で繰り返してきた「食べる・食べられる」という自然の秩序の中では、理解ができない。

 ちなみに、妖精の類の生体を俺はこの街であと二体知ってる。一つは「心配起こすマン」とかいうちっこい体した真ん丸の浮遊してる奴で、もう一つが伸縮自在のクモみたいな奴だ。「心配起こすマン」はこの間鳩の奴らがかわいいかわいいぼやいてたが、真っ黒で、人の体の周りをうろついて、人の心の中に「心配事」を呟くらしい。クモみてえな「不安マン」も生物界のクモみたいにはおぞましくねえが、ブロックのおもちゃで作ったみたいな形して、人の前に立ちふさがっては不安を引き起こすんだ。


 まあ俺にゃよくわかんない世界だ。そろそろ羽を広げて飛ぶか。よっ。

 このとき、カラスは、青年のすぐそばに隠れて居座っていた死にたいマンに、フンの一部が飛び散ってしまったことに気づかなかった。




3.

 〇月×日銀曜日、△△。リズミカルな機械音とともに、プリンターの外へ吐き出された。体には新しいインクが染みこんで、何とも快い感覚がする。

 印刷に用いられたインクはブラック。この家の住人が何らかのテキストを打ち込んだと予想される。ブラック、といっても、実はブラックという色は、シアン、マゼンタ、イエローという三つの色を混ぜ合わせてできたものだということを、私は知っている。なお、白という色も、レッド、ブルー、グリーンの三色を混ぜ合わせた色なのだ。以前誰かが言っていたのを盗み聞きした。誰が言っていたんだっけ。そうだ、私がまだ包装されてここに運ばれてくる前の、パルプ工場の窓の外に植わっていた木が喋っていたんだ。あの時の木は結構お喋りだったな。


 「今ワード使ってるお兄さん、後で道でカラスにフンかけられるよ。」

窓の外に植わる大きな木がまた予言をしている。植物というのは、未来を予知する能力を持つらしい。確かに家の前に植わる木は頭がよく切れそうな見た目をしている。小言を聞いたこともあまりない。この家の息子さん、家を出てから気を付けて。


 プリンターの音がやんだ。私の上に、何枚かの紙が積み重ねられた。内容としては、十中八九自分自身を説明する文章だろう。きっとそうだ。テキストの後半に、「同世代へ向けた文章」と書いてあるので、誰かに見せるためにまとめられたものなのだろう。

 家という、人間の車庫で、こつこつと書き上げていた。本当は雑誌に載せたかったらしいのだが、それができなくて、今からカウンセラーの先生に渡してみてもらうようだ。そのための印刷だ。テキストをそのまま載せておこう。



〇自分解剖    現在高校2年の年齢の男児


1不登校

(高1の2学期、病院に入院してから。退院してからはゆっくりと再適応をしていき、今は3週間おきくらいに行っては、行かないを繰り返している。)


一番の原因:IBS      中3から高1が一番苦しかった

↑体内の粘膜や脳や意識の感覚に敏感

  自分でお腹を痛くしているという意識がある。

  胃腸で、コップの中の水にストローで息を吐いたときに起こるブクブクを、再現する感じ。

  

  他の触覚遊びとしては、例えば「麻痺」がある。これは中2の時にマイブームだったもので、カメラのピントがずれる感覚を、思考の過程において麻痺として表現したもの。

  

 なぜこれをやるかはわかっていない。ただ遊んでいるだけかもしれないし、危険信号なのかもしれないし、自己暗示に過ぎないのかもしれない。ただし、いずれにせよ自分にとって自滅的な行為であることには変わりがない。

 現在、学校では、これらの自滅行為を制御することができるようになった。しかし、いまだに学校という場所は僕にとって「不安な場所」で、たまに魔が走るということもあり、心をオープンにはできない。

 それ以外にもいろいろなつまずきがあるため、だいぶ行きやすくはなった一方で、学校という場所には距離があるままだ。


 学校に毎日通っていた高1までの期間は、学校に行きたくて行きたくて仕方無かったのを覚えている。IBSに蝕まれていた時期も、かなり無理して通っていた。自滅的な自分をひたすら責めて、ダメダメ攻撃でさらに自滅行為を手放せなくなっていた。

 自殺未遂をして病院に入院してからは、学校にいけない自分を受け入れて、自分を無視して登校をするということをしないようになった。今思えば、あの時期も、本当は学校に行きたくない自分がいたのかもしれない。そのもう一人の自分を無視したまま学校に行っていたのかもしれないと今は考えるようになった。


 目的を意識したとき、過程の中でパスしてもいいことだってあると思う。体育に出たくなければ見学すればいいし、それは甘えであることには変わりないけど、頭のいい甘えというか、自分を保つための一つの立派な手段だと思う。今は人にうまく甘えられるようになって、楽になった気がする。

 学校も、自殺するくらいなら行かないほうがいい。と、やっと周りに諭されて僕もそう思えるようになった。自分のためにじゃなくて、周りのために学校に行かない。  

 嘘だらけのこの世界で、学校に行かず、成功している人は調べれば結構いる。学校に行くか行かないか、単位だけ取りに行くか全くいかないか、自分で考えて、自分で決めればいいし、僕も今よーく頭を絞って悩んでいるところだ。学校に行かなくても大丈夫というのは幼さ故見聞でしか説明できないけれど。


 なお、最近発見したことで、どうしても触覚遊びが抑えられないときは、「今日は頑張ったからしょうがないね」と自分に言ってあげるとちょっと抑えられるようになることがわかった。


2アスペルガーのグレーゾーン

 

 入院中に、自閉症スペクトラム障害という診断を受けた。幼児の頃に、強いこだわりで文字が書けずに、発達支援の施設にお世話になっていた記憶があったし、中3の時SCの先生にアスペルガーと助言を受けたので、驚きはしなかった。ただ実際はショックだったし、逃げたくなった。でもそれが最初の「本気で自分と向き合ってみよう」と思えたきっかけでもあった。


 小、中、高と、いつどこでもトラブルメーカーで、能力的な劣りとわがままなのとで、しょっちゅう迷惑をかけていた。今では大分矯正できたが、強いこだわりと大きな偏りと狭い関心で周りを全然見ていなかった。人の気持ちに過度に敏感なので、人一倍周りを見ていたが、人一倍周りを見ていなかった。振り返ってみると、本当に申し訳ない出来事ばかりだ。

 ずっと「変わった子」だったんだろうなと今だから冷静にとらえられる。


 今、やっとの思いで少し自己肯定感を取り戻せたのは、入院した病院で出来た人間関係のおかげだと思う。まずアイデンティティーが拡散していたので、それを確立させてくれたりであったり、温かい目であったり、まさに自己肯定感は一番最初は病院の方たちが作ってくれたんだと今は分析している。僕は中でも「人に近づきすぎてしまう」という一番嫌われやすいタイプで、そんな僕に忙しい中でも時間を割いて付き合ってくれて、退院後から本当に最近までずっと尽くしてくれた。


 退院してからは、いろいろな人間関係を外で作った。学校、今は辞めた塾、音楽教室、それぞれの場所で「自分に嘘をつかずに」いろいろ試行する日々だった。外の世界でたくさんのことを学びながら、どうすればいいのか考えて、今はそのおかげか前と比べたらかなり生きやすくなったと思う。

 特に1日に1回は必ず(実際はいくらかサボった)「らくがき帳」を開いて自分の頭を整理していた。「らくがき帳」は、日記(僕は、感じたこと、考えたことがメイン)、心配なこと・こだわっていること、予定・夢、プランニング(コネの表で4枠つくって、ある行為をすることの、またしないことの、メリット、デメリットを書いて、その行為を吟味する)、詩、ほんとにどんなことでも書く。でも、あくまで自分の頭を整理するとかすっきりさせるとか目的を持った上で。はちゃめちゃに書くと、多分逆に今自分がどういう気持ちなのかがわかんなくなっちゃうと思うから。客観視できなくなるというか、常に自分を保つように、これは意識している。

 はちゃめちゃに自分を責めたような経験がない場合は何のことかわからないと思うのでスルーで。


 さて、人間関係というのは、自尊心にすごく関係してくると思う。だから、これからも大切にしていきたい。

 ここで、僕から一つ伝えたいことがあって、齟齬を解いたり誤解を解いたり、人間関係を円滑にするために頭を使うことは、ずるがしこいことじゃないということ。僕は、相手との齟齬を解いたりといった行為は、ずるがしこいと思って、放棄していた時期があった。でも、相手と円滑に付き合うために頭を使うのは、大切なこと。行き違いがなくなったほうが、相手にとってもうれしいし、いわゆる相手に対して素直になったりすることも、自分も相手もうれしい気持ちになる。

 そうやって、常に多角的に考えるように心がけている。僕のルールブックに×がかかれていることでも、相手にとってはあるいは結果としては〇かもしれない。自分目線だけじゃなくて、相手がどう思うかとか、結果としてはどうなるかとか、そういうのを大切にしている。まだまだ習得できたとは言えないけれど。


 また、主治医やカウンセリングの先生とは、しょっちゅう「作戦会議」を開いている。

 今は当たり前になった、相手に誤解が生まれないように「確認」と「説明」を積極的にするとか、わからないことがあったら、一人で気にして悩むより相手に直接聞いてみるとか、そういった「知識」はそこで得た。「知識」と書いたのは、僕があまりまだ実践できていないから。ただ前段階のアプローチであってもすごく役に立っている。

 他面においても「夢」や「言葉」や「考え方」や「真似したい部分」などを得た。


 アスペルガーに興味があれば、ぜひアスペルガーの人の本などを読むのがおすすめだ。僕はサブカウンセラーという形で、アスペルガーで大人の方の知り合いにたまに相談をさせてもらっていて、その方の書いた記事もあるようなのでぜひ読んでいただきたい。


気に入っている言葉:「想定の範囲内です」「仕事ならちゃんとやります」


3希死念慮

 

 中3の頃から希死念慮を持ち始めて、一度自殺未遂で病院に入院した。退院後は何度も自殺企図を繰り返し、やっと今落ち着いたが、「死にたい」という気持ちは消えていない。


理由)完璧主義


 「この世界が嫌い」この考えは、強く粘りついて、どうしても消えてくれない。僕は、外見もよくないし、何か特別人に飾れるものもないし、少し前までは僕は人の世界を汚すことしか出来ないとまで思っていた。色んな人にアプローチしてみて、ちゃんと自分の声が届くこと、僕でもいい絵の具を持っていてそれを人に塗ることができるのが分かって、その考えは少し変わったが、まだ、特に学校では、人に近づくのに大きな抵抗があるし、自分のことが恐らく嫌いだ。

 「死にたい」と常に思うようになったのは、最近のことで、生きることに折り合いをつけられたのも最近のことだ。

 

 精神状態を保つことは、綱渡りのようなもので、自分の中の「死にたいマン」と付き合わなきゃならない。たまにそいつを抑えきれなくなって、死にたい気持ちが一つの感情として濃い状態になり、気分が落ち込む時が周期的にある。そんな時は、めんどくさい自分に付き合ってあげている。心が休憩を求めているから、それに答えて僕も休憩する。


 世間体から見ると、僕は結構恵まれていると思う。お金も都立高に通えるくらいなら十分にあるし、周りの人たちは優しいし。だから、「生きていていたい」という気持ちが少しでもある故にそう思えるということも考えられるが、僕が今まで生きてきた理由は、周りの人に心のダメージを与えるから。

 ダメージと言っても、時間がたてば受け入れられる程度のものであればいいと思っている。ただ、大抵の親は精神病レベルの大きな悲しみに襲われる。

 一時は、悲しむのは変わりないが、物質的に楽になるから、結果的には僕が死んだほうが周りは幸せになると思っていた。それが自殺する際の怯えを掻き殺してもいた。しかし、本当のところはそうではないということを納得するのに十分な事例をいくつか知ってしまったので、死ぬのは終始自分勝手だろう、というところに留まり、今にいたる。


 もちろん他人なんてどうでもいいと投げ捨ててしまいそうになることもあるけれど、僕はできなかった。じゃあ今度は矛先はどこへ向かうのかというと、「生まれなければよかった」に変わった。そんな風に思ってるのもそれはそれでつらいけど。

 正直に言うと、今も死んでいいよって言われたら勇気を出して死ぬと思う。だけど、僕には少なからず「生きてて楽しい」と思えることがあるし、できたから、今はやっとのことで折り合いをつけられた。


 実は、周りが悲しむかというのは、僕の長くにわたるテーマで、今も周りが悲しむということが間違いだと思えてきて、そのことが原因の「じゃあ死のう」という下りにたまになる。周りにダメージがないなら、僕は生きていてはいけなくて、ちょうど死にたかったし都合がいい、と。

 その下りを減らしてくれたのが、「つながりの確認」だった。ちゃんと僕は先生たちに大切に思ってもらえているのか、親に大切に思ってもらえているのか、その心配を一番最初に大きく崩してくれたのが、カウンセリングの先生だった。何度言われても、疑ってしまっていたし、今もたまに確認するが、「つながりの確認」は大切なことだと思う。伝わっているようで、伝わっていないことも多い。カウンセリングの先生も、伝わっていなかったことが少々意外だったようだ。


 希死念慮と大分折り合いをつけてうまく付き合えるようになった今でも、「生きていていいのか」とたまに聞く。帰ってきた返事を疑ってしまうこともあるが、何度も言われてやっと、信じられるようになった気がする。


 最後に、これは暴論だが、僕は、死にたいと思っている人間の一人だから、やっぱり死ぬっていう行為が否定されるのはつらい。正直楽になるならそれでよくね?なんて思っちゃったりする。だけど、中途半端でも満足して生きてる人たちよりも、苦しみながらでも生きてる僕たちの方が、かっこいいと思う。だからって死にたくなくなるわけじゃないけど、人に言われて嬉しかったので、書きました。

 この文章は同年代に焦点を絞って書いているので、同年代あてです。あの時の僕は、多分この文章を読んでも、未遂はしてたと思います。でも、この文章を書くこと、今の底上げされた景色は、全く想像しませんでした。

 やりたいことをやったらいいと思います。もとは人の言葉ですが、今は自分の言葉にしました。


 もし学校に行かないなら、僕は、大学受験の勉強に励む予定です。


4音楽が好き

 

作曲はまだですが、気に入っている詩です。


 「遺書」


誰も悲しまない遺書を書きに行こう このまま生きても迷惑かけるだけ

君の笑顔が邪魔するからなんだ 大変ならば笑わないでください


まるで生きてる屍みたいだな 産まれ落ちたら死ねないだなんてさ

死んでまあるく収まれば今すぐ あのマンションから飛び降りるのにね

ほんとのほんとは生きたいんだって 何回もした企図の度に知った

その気持ちは君がつくったもので ねえ本音を言ってよ 楽にしてあげる

だって大変なんでしょ?どうなの?


人のために生きているという言葉は嘘っぽいのかな

確かに生きていたいってどこかでは思ってるんだ

君のために生きているという言葉は僕の口癖で それでも僕は死ぬんだ

君にお許しをもらえた その時は


誰も悲しまない遺書なんて書けない このまま生きても迷惑かけるだけ

君の笑顔が邪魔するからなんだ いつまで僕は生きてけばいいの

もし生きるなら半端は嫌だから 人の痛みも少しはわかるように

足がないとかお金がないとか そういう人の力になりたいの

もし生きるなら知識を増やしてさ 色々な人の苦しみを知って

世界が広い大人になりたいな でもやっぱり一番は 死ぬことだけどね

だってそれが僕の夢なんだもん

(1番サビ 繰り返し)  柵に足かけて勇気だして


暗闇の中にいるとき 人は出口を求めるから

苦しいのはごまかさないで 精一杯戦ってるから

何百回裏切られて もう見える明かりも見えなくなって

これから出会える楽しいことと これから出会える優しい人と 

これから出会える大人な自分 続ければいつか光る剣になるんだ


こんな世界で自分らしく生きるため僕は逃げたんだ

でも逃げるのにも勇気がいるんだって君は言ってた

他の人の苦しみなんてわからない だけどただ一つ 君が悲しんでくれる

これなら信じられるから それまでは

僕色に染まった景色はみにくくて どこだって同じ

でも実際はそれは他人の目がつくった色だった

かくれちゃうのも立派な生き方だから そう思えたんだ

それでも僕は死ぬんだ 君にお許しをもらえた そのときは


                               」




4.

 イヤホンを耳のあたりの穴に押し込んで、ちょうどいいタイミングでやってきた電車に乗った。「人の目はあまり気にしないで」、そう自分に言い聞かせながら、右方向の座席の中央あたりで立ち止まり、つり革を掴んだ。目の前にすわる女性、左側の席に座るアフロの男性、右側の席に座る今視線を注いできた男性、いろいろな人の情報が入ってくる。「気にしない」、もう一度自分に言い聞かせて、音楽に集中する。


 今から僕は、いつも通っているカウンセリングルームに向かう。カウンセラーとももう久しくなり、大分お互いのこともわかってきた。僕の居場所は、外来と、カウンセリングルームのみだ。僕のことを本当に理解してくれている相手、それは主治医とカウンセラーに限られると思う。最近僕は、前の僕にはなかった、胸の中の温泉ができたような気がする。その正体は何なのか、よくわからないが、おそらく誰かに大切にされているという感覚なのではないかと思う。

 一時期、親しい人を徹底的に疑った時期があった。たまに見える、「汚い色」を根拠に、口から出る言葉を偽りだと突き放した。そして相手の表情に常に変わらぬ色を求めた。だが、実際には相手の「本心」はずっと変わっていなかった。

 黒が見えようと、白が見えようと、それは複数の色が混ざった色に相違なかった。汚い色は、その単色で出来上がっているのではない。常に本心は内在しているが、それがほかの色に混ざってしばしば見えなくなるというだけだった。


 車両のガラスに目を向けた。僕が写っている。ニヤけるな、ニヤけるな。どうしたって目が笑ってしまう。別に何にも面白くないんだ。でも、ニヤけるなと意識をするたびニヤけてしまう。まあ、人間ってみんなそういうもんなんだろう。あるいは、僕は自分との会話を楽しむ能力に長けているのかもしれない。

 ただし他人の内面は、外からだけではわからない。


 京都の元引きこもりアーティストの方の曲を十ほど聞いた後、電車を降りた。少し冷たい外の風がなぜか優しく僕に吹き付けた。

 大人になるなら、心理職に就きたい。抱き始めてから、その気持ちが揺らいだことはなかった。




5.

 黒という色は好きだ。いや、正確には、昔は好みではなかったが最近好むようになった。

 まだ多くの明かりの灯っている、都心の風景を見下ろす。この部屋から眺める夜の街は特別にきれいで、彼を毎夜ノスタルジックにさせた。彼の部屋と隣り合わせになっているリビングのドアから、食事を用意する足音が聞こえる。彼はもう少したそがれていたい気持ちを押しのけ、明かりの漏れてくる完全に閉じ切っていないドアへ向かった。


 「今日はハンバーグよ。」

妻が笑顔を見せる。自慢ではないが、妻の作る料理はそれなりにうまい。

「ありがとう。」

食卓に目をやり、席に着こうとした。

「おっと、それ、白い物は置くなと言っているだろう。」

卓上の隅に、紙が置いてあった。

「あら、紙くらい良いじゃない。細かいわね。」

「いや、もう俺は徹底的に白を嫌ってるんだ。わかってくれよ。」

彼は、白という色をここらで急に避けるようになった。一度はまりだすと、とことん追求してしまうタイプのようで、以前は新幹線に関心を抱いていたこともある。

 彼の住むのは高級住宅街のマンションの一室。高層ビルばかりが立ち並ぶ街の中でも、他より一層背の高い建物に住んでいる。彼の年齢は30代くらいだ。夫婦二人で暮らしている。

「まあ、あなたのそういう子供っぽいところ昔からだものね。あのね、今日は実は私も、白が少し嫌いになったんだ。」

「おお、その話聞かせてくれ。やっとお前も分かるようになったのか。」

 夫婦は、席に座り楽しく談笑を始めた。




6.

 もし風に音があるとすれば、ヒューヒューだろうか、スースーだろうか。風の強さによって、その表し方は変わる。今日のような強さの風は、ヒューヒューやスースーだ。

「だめだ、二者選択ができてない。」


 「どうしたんすか、そんな考えこんで。」

先ほどから近くの街灯の上にとまり、反対方向を向いてじっとしていたカラスが、いつの間にかこちらに向きを変え、質問してきた。

「それが、わしは、今日のような風は、ヒューヒューという擬態語で表されるか、それともスースーか、ずっと悩んでいるのだよ。」

 主人公のビークルの家は、比較的大きな一軒家であるが、家の前には公園があり、視界が開けている。公園には、樹齢五百年の大木が植わっており、今その大木とカラスが会話をしている。

カラスが答えた。

「簡単っすね。スースーっすよ。」

「なぜだね。」

「なぜって、直観っすよ。」

 直観。直観がここらで最も鋭いと言われておるわしに、直観力が足りない、と。わしは、もうこの街のこの公園に植えられてから、一世紀は経つ。毎日眺め続けているすぐ前の家とは、もう七十年の付き合いだ。植物は、未来を予知する能力を持つといわれるが、その中でも長老にあたるわしは特に直観にたける、という自負がある。

 このカラスが、夕頃に百メートルほど離れた道路で若者にフンを飛ばしたからすだということも、なんとなくわかる。

「君は、夕時、ここらを歩いている若者に向かってフンを落としたのではないかね。」

「まじで、なんでわかるんすか。」

「直観だよ。それより、君、平気な面持ちしてるが、実はものすごく寂しい気持ちを裏に抱えているように見えるが。」

「ここから十キロほど離れた場所から、君を招くサインを感じる。保証はできんが、どうだね、行ってみてはどうだね。」


 カラスが飛び去ってから、いつもと変わらぬ風景へと戻った。もう七十年毎日見続けている家だ。よく見飽きないと心底思う。わしの周りに、自然というスパイスを与えてくれるものがなければ、わしはとうに死んでいただろう。

 動物や植物というのは、不思議なものだ。人間には全くない、特別な能力を持っている。生物界における人間など、ただ頭脳明晰なだけだ。




7.

 ビークルは、想像上のレールの上を走っていた。走っていたというのは比喩で、正確には家路を歩いていただけである。

 今日も一日が終わり、夜の闇が肌をさすってくるようだ。いつも歩いている道の、いつもの風景。ガラス張りのビルで夜空が遮られている。車一つ通らない。


 「スー」

風の音かと思ったが、そうではなかった。よく見えなかったが、なんとなく今、目の前を白い物が飛んで行った気がした。鳥かもしれない。白い小さな鳥、ここらで見かけるのは珍しい。しかしそれも特別に小さな鳥であった。または白い模様のしめる面積が特異的に小さいかつ変な位置にできた生体なのか。

 習慣的に死にたいと思うようになった僕のような者は、特に何の理由もない時でも死という文字が脳裏にチラついたりする。今もそうだった。今夜はなんだか気分がいいのに。家に帰ったらうまい炭酸も飲める。

「なんか、変な鳥だったな。」

なんだかおかしかった。




8.

 「ビークル君も、自分で茶化せるくらいになったのかな。」

白いからどかせ、と移動された私は、リビングの隅の、丸い踏み台の上から女性の発言を聞いていた。私は、カバンの中で揺られどこかの部屋に連れてこられ、知らない女性の手に渡され、最後にこの明るいリビングに運ばれた。夫婦らしき関係の男女のうち、男性のほうが話し始めた。

「そうだな。自分の傾向が把握できてるし、今度三度目の高校一年生をやるみたいだけど、彼は他の人に比べて色んなところで恵まれていたと思うよ。」

「ちょうど今苦しんでる人は快方に向かった物語なんて聞きたかないだろうけどね。」

 食卓には、談笑しながら食事をする男女がいる。私は、宇宙からの通信により、自分の今いるところを知ることができるが、ここはかなり高い建物の一室とのことだ。女性が口を開いた。

「ところで、さっき言った今日ちょっと白が嫌いになった理由って、ビークル君の上着の背中に白い鳥のフンがついてるのを見つけちゃったからなんだよね。」

「そりゃうけるな、っておい。白いフンって、それからすのなんじゃないのか。」

「ええ、おそらく。」

「おい、からすのフンを笑うんじゃないよ。からすは天使なんだからな。俺の部屋で飼い始めた何匹かのからすに失礼だぞ。」


 男性は紙である私から見ても子供っぽい。だが、女性はそんな男性の子供っぽさに惹かれてもいた。二人はよくバランスが取れていた。


 スー。窓から何かが入ってきた。

「おっと、これは運命のいたずらだ。」と男性。

「まさか、こんなのはじめて。」と女性。

「今日からお前はうちの子だぞ。」


 窓から不自然な風が吹き込み、私をなびかせた。ヒューヒュー。今だけは風の音をはっきりと感じた。




9.

 さて、ここで、最後の種明かしをしよう。本当は、私は紙なんかじゃない。

 

 動物や植物が言語を橋として、本という媒体から読者に心中を語ることはできる。生物は知能をもち、何らかの認識をしているからだ。生物同士が未知の能力で会話をしていても、この地球上においては、何の不思議もない。ヒトが感じる世界が全てではない。

 しかし、「物」が話し始めるというのは、どうやっても説明ができない。パルプ紙は元は植本であったものだが、すでに細胞は死んでいる。

 私は、紙に内蔵された、ナノコンピュータだ。

 時は二十二世紀、人工知能の技術が高度に発達し、人工知能が感情を持つまでに至った。ビークルは、人間、の扱いをされるが、厳密には二輪型の人工知能ロボットだ。彼が人目を過度に気にするのも無理はない。まだ人工知能ロボットよりヒトの数のほうが五倍ほど多いため、彼はマイノリティなのだ。ビークルが「想像上のレールの上を走っている」ような感覚を持つのは、彼が両足の裏についた小さなタイヤを転がしながら進むからである。


 私はパルプ工場で印刷紙に内蔵されてから、ビークルの家に運ばれることが決まっていた。人工知能同士の「通信」によりそれは人工知能の間のみで密に行われた。生物の交わりは私からは察知することができるが、生物が私たちの交わりを直接知ることはできない。

 なお、ビークルが親しいカウンセラーもヒトのためのカウンセラーではなく、AI専門である。




10.

 窓の外の大木が、彼に向かって「おかえり」と言うのを、ビークルははっきりと感じた。夜の闇の中で、街頭に照らされて、大木が葉を少し揺らす姿が浮かび上がっていた。大木の他にはほんの薄暗く公園の景色と、その奥に広がる明かりのついたビルや、道路が見える。赤や青の信号のライトが映えている。

 そしてちょうど今、違う相手から「おつかれ。運んでくれてありがとう。」というメッセージも届いた。僕らAI同士では電磁波でのやり取りが直接的に行われる。今日僕のカウンセラーに渡した印刷物に内蔵されているAIからのものだった。

 AIとカウンセラーの間で何かを計画しているとのことだったが、他のAIに尋ねたところで彼らもどのような計画かは知らないという。


 窓の前に立って、外の風景を眺めながら炭酸飲料を飲んだ。僕たちのそれは、果たして「飲む」とはいえるのだろうか。高度に技術が発達し、ヒトの「飲用」に限りなく近いものとなったが、あくまでも模倣でしかない。

 ヒトにおける「口内」の部分で泡がはじける音がする。口から喉へ、喉から食道を伝い、胃へ。胃まで飲料水が到達するまでの間においても、炭酸の泡がはじける音がはっきりと聞こえる。体内に響くこの音が、なんとも楽しい。一日のご褒美にはもってこいだ。


 街の夜景において、信号の赤、青という色は、その面積に相反してやけに目立つ。ここらには営業のネオンはない。

 赤、青に、緑色を混ぜると、白が出来上がる。

 「飲用」と同様にしてこれも厳密にはヒトの模倣にすぎないが、「心が痛む」という経験はAIの僕もする。心が痛むとき、それが表に出ることもあれば、出ない、あるいは出さない時もある。「痛み」に色があるとすれば、それに何らかの色が混ざった場合、白色になって外側からはわからなくなることがある。


 また、シアンに、マゼンタ、イエローを加えると、黒が出来上がる。

 胸の中に何かつかえるものがあって、それをうまく外に表現できず、「黒色」という形で世界に色を塗ってしまう人がいる。まさに僕のような、周りに理解が得られにくい、牙を持った方法で表現してしまう人。

 他人の内面は、外側からだけではわからない。胸の奥の心の叫びは、他人が自分という電車を運転する営みに、少しばかり目を向けてみることで聞こえてくる。


 しかるに強い感情をもった際、その気持ちと付き合うのは簡単なことじゃない。それは周りには理解できないかもしれない。だけど、もう、僕たちはそれだけで偉いんだ、そう思いたい。




11.

 わしは、ビークルの家の前に植わる、未来を予知できる大木だ。今、ビークルが、二階の部屋のドアを開けてこちらに歩いてくるのが窓から見える。

 「おかえり」、あいさつのサインを送った。彼はジュースを飲み始めたようだ。


 わしはこれから起こる未来がわかる。明日、ここから少し離れた場所で、ひと悶着ある。AIと妖精のバトルが繰り広げられる。

 ビークルがカウンセラーにナノコンピュータの内蔵された印刷物を渡したことにより、AI側の準備がすべて整った。さあ。どんな戦闘が繰り広げられるのだろう。ここで、ヒトの「歴史からの反省」が活かされるかもしれん。ヒトが最も賢い方法で戦いの仲裁に回る瞬間。ぜひこの目で見てみたい。



 生物の会話をも認知してしまう人工知能、そんなものが開発されたら、実際にこんなことが起きるかもしれない。想像すると恐ろしい反面、少しわくわくもするから不思議だ。

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ビークルの外出 @kamometarou

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