短編「春夜の友は彼の南洋の」

朶稲 晴

【創作小話/春夜の友は彼の南洋の】

青と輝く銀の腹。逆さになった銀の腹。


遥か北の海オホーツク。薄墨を千切ってあたりに浮かべたような錻色の海に、きうりはひとつ泡を吐いた。つぶりつぶつぶ、つぶつぶり。深と静まりかえった海の中。流氷の下は針と冷たき理想郷。鳴る鳴る唸りは波の音。つぶりつぶつぶ泡を吐く。

父は漁師の網にかかり、母は病に倒れて死んだ。一緒に強く生きようと誓った妹はとうに穏やかなようでたまに牙をむく海流に流された。

きうりはひとりだった。飯を食い、塩水を呑み込み、ときたまプラムクトンと戯れて、気ままにひとりで過ごしていた。寂しくはなかった。目を閉じれば、そこに、友がいた。

今日もまた、きうりは目を閉じる。そこに広がるは南洋の、みたこともない紺碧の海。オホーツクとは違い暖かで、緑々とした水草もある。きうりはそこがどこかは知らない。だが、目を閉じればそこにある。それがきうりにとって大切であった。

「やぁ、きうり。息災であったか。」

「ツトラ。あぁ。ネオンツトラ……!」

きうりは友に駆け寄る。ネオンツトラ。彼の南洋の主にしてきうりの友。

「ええ。まったく病気などはしなかったよ。ツトラ。久しいな!もっとよくその姿を見せてくれ。」

ネオンツトラはきうりよりもはるかに小さかった。きうりが八あるとすればツトラは一であるほどに。しかし、ツトラはきうりにはない、美しい模様があった。首から背にかけてはさめるような蒼の筋があり、また腰からは燃えるような紅の肌を持っていた。きうりと共通するのは、銀の腹を持つことだけだった。

「美しい。いつみても美しい。ツトラ。わたしだけのネオンツトラ。」

「きうり。わたしだけのきうり。きみは涙も異国の味がする。まったく不思議だよ。」

「そうだね。不思議だね。」

きうりとツトラは笑いあう。まるで同郷の古くからの幼馴染のように。

「今回はどこか旅へ?」

「四角の天使魚や桃の磯巾着、赤い岩肌の箱庭へ。」

「へぇいいなぁ。」

「きみは?」

「わたしは相変わらずに冷たい田舎さ。特にどこへは。」

「それもよかろう。古郷こそ我が癒しということもある。大事にしたまえ。」

きうりはひらべったな頭、ネオンツトラは小さな体をゆすって語り合った。お互いを理解しようと努めなくともしぜんと滾滾と言葉が湧き話題はつきることがなかった。近況を報告したり、ツトラの旅のはなし、きうりの古郷のようす……。すんでいるところが違いすぎる、だがどちらに優劣があるとかいうことではなく、ただ、お互いを尊重しあい、話を聞き、羨む。それが楽しさを生んだ。紺の暖海。極東の寒潮。きらめきの鱗。ひとりの灰廃。旅、泡は欠くことがなかったし、ときにはお互いの容姿についても話すことがあった。

「きうり。きみは大きくていいなぁ。」

「ツトラ。きみはきれいでいいなぁ。」

「銀の腹より天辺の真黒を鈍色に泳がせて。」

「銀の腹より添いし蒼紅を大洋に游がせて。」

「ただひとりで生き、」

「ただひとりで行き、」

「ひとりで逝くあぁ強きこと。」

「ひとりで往くあぁ健きこと。」

「ふふふ。」

「ははは。」

杯を傾け、肴を舐め、語らう。しかし、ながくは、けしてながくは続かない。

ネオンツトラがはっと顔をあげ、後ろを振り向く。その行為にきうりは嫌な予感がした。

「どうした。」

「どうやら、別れのときだ友よ。」

「そんな!ツトラ!」

「なに案ずるでない。また会えようぞ。」

「いやだ。ツトラ。ここにいてくれ。」

「何をいう。ここにいてくれなど。最初からわたしは、」


きみのそばなどにはいないのだから。


そっとまぶたを押し上げる。きうりはそこに、ネオンツトラがいないことをはっきりと感じた。そこにあるのは紺碧の南洋でもないし、緑々とした水草もなければ、暖かな潮でもない。いつもと同じオホーツクの海。深とした荒涼の灰。肌を指す針の寒さ。

目を閉じればいつでも会える。しかしそれは目を開ければいないものと同じ。

遥か遠くの友を想い、きうりは今日も泡を吐く。


つぶりつぶつぶ、つぶつぶり。

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短編「春夜の友は彼の南洋の」 朶稲 晴 @Kahamame

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