022●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜④:夢の月旅行

022●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜④:夢の月旅行





「あのう……」“自分だけ無視され感”が続いて憤懣が臨界寸前の久は怒鳴った。

「僕は本当に未来から来たんです! 本当のことを喋ったんだから、食べてもいいですね!」

 全員が一瞬沈黙し、久を向いた。笑わないと約束したのに散々笑い物にした気まずさを薄めようとばかりに、丹賀が気前よく宣言した。

「いいぞ、食え食え。寿司も取ってやる。みんな、好きなものを頼んでよろしい。せっかく珍しい未来人にお越しいただいたのだ。盛大な懇親会といこう」

 会社の経費で飲み食いする口実にされた気がしないでもないが、とにかく無料タダで食事にありつけるのだから文句はない。割箸を指に挟んで合掌し、いただきますと唱えるや否や、まずは豚汁を一気飲みする久。

 驚いたことに、全く冷めていなかった。かつ丼も同じく、ちょうど舌当たりの良い温かさだ。これも魔法の力らしい。

 部屋の片隅に戸棚付きのサイドテーブルがあり、真幌場女史は細く開いていた戸棚を開けた。

 そこに受話器を外した黒電話があった。彼女は華麗な身のこなしで電話機のコードを伸ばし、本体ごとテーブルの上に乗せると、ダイヤルのゼロを回して外線モードに変え、たちまち各種飲食店へ電話をかけ始めた。

 ジーコジーコと鳴るダイヤル式電話機の珍らしさに注目して、久は気付いた。あの受話器は外してあった。原始的な方法で、この部屋を盗聴していたわけだ。

 社長の丹賀と秘書の真幌場は、建物内の別な電話機から久たちの会話を聞いていて、タイミングをはかって入室したことになる。久について何かが判明して、自分自身で確認したいと思ったのか、より深く、直接に探りたい関心事があるのか、それとも……。

 きっとこの尋問は、形を変えて続く。タダ飯は案外、高くつくかもしれない。

 そんな久の心配をよそに、部屋の面々はそれぞれ店屋物の希望を告げ、座が和む。

 丹賀の指定は“麻布田之九あざぶたのきゅう”の近江牛すき焼き弁当。万城と漆田は“珍来軒”の餃子と“万福亭”のラーメン、“かど屋”の焼売……と、中華にこだわる。こよみは“叶屋かのうや”のおでんと焼き鳥。なんだかオヤジな好みだな……と久が思う間もなく、真幌場女史は“赤坂とんとん亭”のロースとんかつセットを自分用に発注、さらに久と他の全員のために築地の“松寿司”に特上盛りを頼もうとして、並の特大盛りに訂正した。質より量の選択らしいが、殿様然とした丹賀に仕える助さん格さん風の万城や漆田に、特上と並の違いなどわかるまい……という顧客分析の結果だろう。

 そしてすかさず“甘味の店みつばち四谷店”に人数分の牡丹餅ぼたもちとあんみつを追加する。余れば自分が引き受けると見え、かなりの甘党であること間違いない。

 上司にストップをかける隙を与えず、一気呵成に大量の発注を終えると、ほっと一息ついて、真幌場は眼鏡越しに久を見つめた。意味ありげに。

「ねえ、きみ、キュウ君」

「はい」ほぼ食べ終えた丼から目を上げる。

「君が二十一世紀の未来人なら、月旅行は? 行ったことあるでしょ?」

「はあ?」

 唐突に何を訊くのかおばさん、いえ、お姉さん……と、呆気にとられる久。「まさか、月旅行なんて、夢のまた夢ですよ」

「うそお、二十一世紀には誰だって月くらい行けるようになるはずよ。せめて宇宙ステーションなら、いつでも行けるでしょ。どうだった?」

 未来の宇宙開発に関する展望は、この時代、よほど楽天的らしい。しかも、必ずそうなるはずだと信じるほど、輪をかけて能天気な人が多いようだ。久は淡々と現実を伝える。

「国際宇宙ステーションはあるけれど、高度四百キロだったかな、わりと低い軌道で、普段はアメリカとかニッポンの宇宙飛行士が五、六人いる程度ですよ。何年か前は船長がロシアの人だったっけ。でも、最近はロシアが世界中と仲が悪くなって、ステーションに来なくなりましたね。それと、物凄いお金を払って、たまに大金持ちの人がステーションに滞在することがあります。ステーションとの行き来は、今はアメリカの民間ロケットを使っていますけど、日本のロケットは貨物専用で、まだ人は乗せていません」

「そうか、普通の人の宇宙旅行って、ダメなのか……残念です。無念です」と肩を落とす真幌場。「定年になったらしばらく月へ行こうと思って、貯金してるのに」

「定年は五十五歳だぞ」と、思わず驚愕して丹賀が口走ってしまった裏には、おいおい、五十五まで居座るつもりなのか、いや前言訂正、勤め上げるつもりなのか……といったニュアンスも含まれていたようだが、万城と漆田は別な言葉に仰天していた。首を揃えて久に訊く。

「今、ロシアって言ったな。ロシアがあるのか? ソ連はどうした」

「それん?」

「ソビエト社会主義共和国連邦、略してソ連だ」

 言われてみれば、そんな国が昔あったことは久も授業で聞いて知っているが、どのような経緯でいつロシアになったかは、よく覚えていない。そこまできちんと教わる前に中三の三学期が終わったのである。

 それに、教わっていたとしても、ソビエトとやらの社会主義が消滅した原因と、代わって民族主義のしがらみが噴出したバルカン諸国の内戦とその顛末まで理路整然と語れるはずがない。何しろ自分が生まれる前の話なのだ。ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争のどちらが先だったっけ? 湾岸戦争って、アフガニスタンの戦争のことだっけ? ツインタワーのビルに旅客機が突っ込んだテロは、アイエスってのと関係あったっけ、それともイスラエルとパレスチナの問題? 思えばここ半世紀の世界史はウクライナ戦争に至るまで、ドロドロのカオスだ。説明するなら戦国時代の方がよほど楽な感じがする。

 解説が面倒になった久は簡潔に述べた。

「とにかく、今はロシアですよ」

「そんな馬鹿な。日露戦争の昔じゃあるまいし」と頭を抱える万城と漆田。「ソ連は赤い国家の最大の盟主だぞ。それが来世紀にはなくなっていて、帝政ロシアに逆戻りしてるってのか? ラスプーチンの時代に」と問い詰める万城。

「そういえば、そんな感じの名前の人がカレンダーになってたかな?……」と久。

「それが事実なら……」と万城。「プロレタリアSFに未来はあるのだろうか? 万能潜水艦ピオネール号の航海は、カモフ博士の無茶苦茶な金星探検は、電離層ロケット“あらし号”の運命はどうなるのか」と、超マニアックな共産圏SFの作品を例示する。

「世界同時革命を唱える学生運動の連中、それじゃ、ただのオチャラケで終わりじゃないか……」と、天を仰ぐ漆田。ロシアはともかくソビエトの印象は、この人たちにとって、それほど悪くないらしい。

 久も一緒に天を仰いだ。

 この人たち、やっぱり、まともじゃない……

「そっか」と、真幌場は再び久をじいっと見据えて指さし、「あなーた、ホントは未来人ではないのでせう。キュウ君、あなたーの正体はきっと、宇宙人なのでーす」

 “でせう”に加えて語尾を不自然に吊り上げる喋り方、宇宙人な物言いは、むしろ貴女の方でせう。と返答したいのをぐっとこらえて、久は断言する。

「僕は地球人です」

「地球を侵略する宇宙人は、決まってそう言うのよ。悪の侵略者ミステロリン! あなた、地球人の少年の身体を乗っ取るために、巨大落花生に乗ってこの星に降りてきたのね、今、化けの皮を剥いで差し上げます」

「な、何が証拠で!」真幌場に突然、髪の毛や耳を引っ張られて悲鳴を上げる久。これは絶対、月旅行の夢を潰されたことに対する腹いせだ。

「まあまあ、真幌場くん。いちおうそれは暴力になるから、ここで宇宙戦争はまずいよ」

 丹賀の一言で、真幌場はたちどころに冷静さを取り戻し、詫びた。

「失礼しました。つい興奮して……」と、久に向いて「ごめんなさいね。すごくショックだったの。だって月旅行が……」

「お気持ちは察します、ご愁傷様です、お気の毒です、何かお力になれるといいのですが」と、土曜日の昼に炊事や洗濯が終わってから見ているTVの再々放送サスペンス劇場で、夫を殺された美しい未亡人を篭絡ろうらくして冤罪をかませる悪徳刑事のセリフを覚えていたので使ってみる久。どうもこの真幌場という女性秘書、仕事は有能なんだろうけど、思い込みの激しい性格らしい。

「ねえ、それじゃエアカーは? 自動車は空飛んでいるんでしょ!」

 未練たらしく、薔薇色の未来図にすがりつく真幌場女史。

 きっとこのひとの頭の中は、美しいお花畑で一杯なんだろうなあ……と、かえってうらやましく思いながら久は答える。

「飛んでませんね。飛べるはずないですよ、第一、電柱や電線がいっぱいで邪魔でしょう、普通の道路には降りられません」

「えっ?」と万城。「二十一世紀はまだ電柱と電線で電気送ってるのか?」

「日本全国、だいたいそうですよ」

「それじゃ、チューブトレインは?」

 久は少し頭を捻って、「地下鉄のことですか?」

「いや、減圧した透明チューブの中をすっ飛んでいく、地上の超高速列車のことだ。大松崎茂だいまつざきしげる先生の手になる未来予測のイラストレーションを見たことないか。二十一世紀の電車はみんなそうなるんだ。速いし、景色も楽しめるし」

「あ、そういえばリニア中央新幹線は着工してますよ。超伝導で、磁界の反発力で車体を浮かせて走る方式で、時速四百キロは出せるとか」

「おおおっ!」万城と漆田は喚声を上げた。特に漆田は感極まって「二十一世紀はそうこなくちゃ。俺たちの東海道新幹線の二倍のスピードだ! 科学の勝利ですよ!」

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