012●第2章●少女と怪獣と女神様…1964年6月16日(火)昼④:再びの女神様
012●第2章●少女と怪獣と女神様…1964年6月16日(火)昼④:再びの女神様
そんな久の当惑と混迷を豪快な呵々大笑で吹き飛ばずと、ヨハネス叔父は話をまとめた。
「ということで、パイド・パイパーにはじまる大砲と戦車の名門パイパー家の姪っ子、気高き
撤退の呪文らしきものを唱えると、あとは宜しく……とばかりにヨハネス叔父様を乗せた戦車は霧に包まれた暗がりへバックして、次の瞬間には音もなくぴたりと扉が閉じていた。
叔父を見送ったヒルデガルト・フォン・パイパー…“ヒル先生”…は左手を軽く振った。その手に現れたハンディトーキーで受け答えしながらきびきびと歩く姿は、イベントのディレクターを思わせる。
広場の中央に置かれた芝生の島に建つロダンの彫刻“カレーの市民”の前で、美術館の建物から出て来た七人の女性グループを迎える。
六人は巫女だった。
残る一人は、ひと目で特別な存在であることがわかった。
若々しいが、大人の女性。このうえなく美しい顔立ち。髪は額の真ん中で分け、後頭部にまとめてふくらみを作っている。肌は大理石の白さ、彫像に血が通って、歩き出したかのような外見だ。それでも、血の通った人間……よりもずっと荘重な存在感にあふれている。
一見して人間のようで、明らかにどこか違う。
どう違うかと言うと……“
その人物は、光でできていた。少なくとも久には、そう見えた。
生成AIが立体ホログラムで造形した等身大の美女フィギュア、といった感じだ。
ヒル先生が片膝を地面について恭しくお辞儀をしたので、大切な賓客であることは確かだ。
「アフロディテ、美の女神様」と、ヒル先生はその女神の名を呼んだ。「いささかの不具合がございましたが、解決いたしました。どうぞ心安らかにお鎮まりくださいますよう。ただいまデルフォイの“地獄の門”に“接続替え”をいたします」
女神はたおやかにうなずいた。それだけで全身から、極光のように優雅な美のオーラが醸し出され、久の目を釘付けにした。容貌や肉体の美しさというよりも、姿も心も含めたあらゆる点で恵まれた、豊穣美ともいうべき種類の美しさだ。
“女神様”という尊称が本物かどうか、最初は疑問もあったが、数秒で久にも実感できた。
人間ではない、まるで、本物の神様みたいだ……。
はっと、思い出す。その御尊顔は、見間違えようもなかった。
アフロディテ、すなわちミロのヴィーナスだ。
久が、こよみたちと骨格恐竜の戦いに巻き込まれる少し前、立ち
アフロディテの衣服はギリシャ風のキトンが腰までずり落ちた、上半身が露わなスタイルで、久は目のやり場に困ったが、彼女は右手で神秘的な壺のようなものを胸に抱いていて、乳房は壺の下に巧みに隠されている。もう一方の左手にはリンゴの実を一個、捧げている。壺は左右に並んだ巫女が手を添えて、位置がずれないように補助していた。
なんとも形容しがたい不思議なゆらぎが、女神の姿を神秘のベールで包む。目鼻立ちの輪郭やディテールは見れば見るほど美しいが、ソフトフォーカスの写真のように、どこかつかみようがないのだ。この世のものではない物質というのか。しかし、似たものといえば……
久は気付いた。さきほどの魔物、骨格恐竜の躯体を包んでいた、光を発するゼリー状の筋肉が似ている。いや、そっくりだ。同じ物質みたいだ。魔物も神様も、どうやらほぼ同じ種類の物質でできているのだ。とちらも“あの世”の存在なのだから、ということだろうか、ヒル先生がなんとか言っていた、そう、“
見ると、“地獄門”が再び開いていた。
女神にかしづく巫女の一人がこちらを向いて口を開いた。一時的に女神に乗り移られて、女神のことばを“
それは、どの国の言葉でもなかったが、久の脳裏には、日本語の字幕が走るように理解できた。
『この國の火の器、たしかに預かりました。ここに火の神が宿りて還るまで、しばらくのお別れです。みなさんの友好を喜ばしく思います。再びまみえることを楽しみに。この秋のピューテック大祭……トウキョウ・ピューテック……に幸いがもたらされんことを』
“火の器”と聞いて、久は、あ、そうかと納得した。女神が胸に抱えているのは、縄文時代を象徴する土器として教科書に載っている、あの火焔型土器だ。どこから……という疑問はなかった。小学校高学年のとき、文化授業の一環として同じ上野公園の国立博物館を見学した。そこで、同じものを見たことがあったからだ。展示されているのはレプリカだったけれど。
してみると、美の女神アフロディテが日本を訪れているのは、国立博物館に保管されていた火焔型土器、それも本物を受け取り、この“国立西欧美術館”の“地獄門”を通ってギリシャのデルフォイへ持ち帰り、土器の中に火の神を収めて、再び、この秋に開催される“ピューテック大祭……トウキョウ・ピューテック”というイベントのために、この日本へ届けること……つまり、はるばると“神の火”を運んでくることが目的なのだろう。
でも、それってオリンピックの聖火のこと? と思ったが、どうやらそれとは別物のように思える。女神様が言う“トウキョウ・ピューテック”って、何のお祭りなんだろう?
女神はしずしずと歩を進めた。日本人らしき六人の巫女は、門の前まで従うと、そこで立ち止まる。
向こうはギリシャのデルフォイと呼ばれる地の
ロダン作の“地獄門”は世界各地にいくつかあって、門と門が、空間を超えてつながることができるらしい。まるで超空間交通ネットワークだ……と久は思うが、同時に、これは何かの大規模な手品みたいなもので、マジシャンが見せるイリュージョンの一種ではないかとも疑う。
だって、現実にはありえないはずの光景なのだから。
開いた門扉から覗かせている彼方の空間は霧が立ち込めていたが、そこには、古代風のキトンをなびかせたギリシャの巫女たちが片膝をついて、女神を迎えようとしているのがうっすらと見えた。
“地獄門”は数十センチの高さの、白い基台の上に建っている。次の瞬間、女神は基台の上に立ち、横顔を向けて、別れの微笑みを浮かべていた。“見返り美人”のポーズだ。
女神の周囲、この美術館の前庭に居合わせた人々はみな、女神に敬意を表して
で、自分はどうしていいのか、久には見当もつかなかった。なにやら厳粛な空気が満ちていたので、一人だけこそこそと去るのは、はばかられた。
そこで思いつく、スマホだ。見れば幸いなことに、カメラ機能となっていた。ただし静止画撮影だったが。レンズを通して観る眼前の光景が揺れていて、さきほど撮影した“骨格恐竜と、こよみ”の写真は画面の左上で小さなウインドウに収まっていた。そして赤いシャッターボタンが画面下に点滅している。…どうぞ、今がシャッターチャンスですよ!…とでも言いたげに。
いつでも撮れるスタンバイ状態だ。
二十一世紀における世界最大の宗教の信者たちが教皇に対して親しみを込めてそうするように、構えてシャッターを切る。
瞬間、久の心臓がキィン! と鳴った。女神がスマホに目線を向けて、かすかに微笑んだのだ。スマホの画面越しに、ぴたりと視線が合う。
同時に、脳に思考が流れ込んだ、映画の字幕に似た、文字情報の入力。
『少年、次は、夢で逢いましょう。知るべきことを教えてあげる』
……ということは、僕に、
戸惑う久の耳にパシャッと響いた電子シャッター音に、こよみが、ちらり、と睨みつけた。神様をスナップ撮影するなんて、大変失礼なことをしたようで、久はそそくさとスマホをポケットにしまったが……
そのとき女神が、この場の全員に向けて囁いた別れの言葉が脳に届いた。
『世に幸あれ』
ふと見るとロダンの“地獄門”は扉を閉じていて、女神の姿はなく、そこに……
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