3話 思い出

 文弥が次に目を覚ました時には、すでに八月に入っていた。

 医者の説明によると、一度集中治療室に入ってから様子を見、命の危険がなくなってから緩和ケア棟に戻されたということだった。

 頭がくらくらして視界が定まらないほど、めまいが残っていた。副作用として珍しいものではないが、ここまでひどいのは初めてだった。

 他に貧血、味覚異常など、快適に生を過ごすには障害となるものが体を巡っていた。脱毛して髪や眉がなくなり、しばらく鏡を見ていない。ただでさえ痛みのせいで陰気な顔をしている。鏡など見なくても死なない。

 文弥はかつて、一度だけ実家へ一時退院したことがある。

 見たことのない街の知らない屋根、車。入ったことのない家に、家族は住んでいた。退院時には母と父、妹の美祈が出迎えて家の中を案内した。

 スロープ付きの玄関を抜けた先には濃紺のタイルカーペットが敷かれており、リビングとダイニングには椅子付きのハイテーブルと座布団の置いてあるローテーブルがあった。

 その家で何をしたかは思い出せない。確か思い出作りとして記念写真を撮ったり、ジュースを虹色にして飲んだような気がする。思い出し難い曖昧な記憶があった。

 文弥にとって一回きりの非日常は、長く酷烈な闘病においては目立つ事ではなかった。

 それでも他の家族の思い出になったには違いない。退院した息子と、あるいは兄と『我が家で』思い出作りをしたのだと。

 ――それが親孝行になったなら。治療費のお返しになれば。家族は間違いなく自分を家族の一人だと思ってくれていただけで満足。文句はない。病院にいても忘れられていなかった。だからこれ以上望まない。

「もうしなくてもいいのに。延命なんて」

 いつか家族でなくなるのだから。


 目覚めると八月に入っていた。

 この部屋の温度は調節されているし、窓がない。季節の移り変わりなど知りようがなく、最もどうでもいい事だ。

 美祈が撮ってきた写真に相槌を打つだけで、満足できる。

 確か、今日来るらしい。

 ちょっとは兄らしい、いい顔をしなければ。

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