第26話 さくらちゃんの選択

「かすみくぅん」


 さくらちゃんが待ち合わせ場所にすでにきて、僕に気がつくと手を振った。

 慌ててそばに駆け寄る。


「もお。待ってたよぉ」

「ご、ごめん」

「ふふふ、うっそぉ」


 さくらちゃんが少し表情を緩めた。

 彼女は僕らの高校とは違う制服を着ていて、やっぱり違う高校に通っているんだな、とそんなことを思う。


 日が暮れて少し経つけど、やっぱり蒸し暑かった。

 僕らは並んで歩き、目についた喫茶店に入った。カントリー調の小洒落た喫茶店。コーヒーの香り。この匂いを嗅ぐと、いつも懐かしい気分になる。


 窓辺のこじんまりした席に通される。向かい合って僕らは座る。


 小洒落た表紙に飾られたメニューをめくる。あいにく僕はコーヒーが苦手なので、ココナッツジュースを注文した。じゃあ、あたしもぉ、とさくらちゃんも同じものを頼む。


 飲み物が運ばれてきて、喉を潤す。とても、甘い。


「お願いがあるの」


 さくらちゃんがそう切り出した。

 いつかどこかで彼女の姉も同じことを言っていた。彼女にそっくりな顔で。


「行かないで、かすみくん」

「…どこに?」


 さくらちゃんは僕の問いには答えずに、テーブルの上に置かれた彼女の指先を見つめている。白くて細い指だ。


「最後の賭けなの。…今夜だけでいい。そしたら、もう二度と会えなくてもいい。あたしのそばにいて。かすみくん」


 僕は驚いた。

 葛切さんと海堂製薬会社の倉庫に忍び込む約束をした。彼女もそのことを知っている。誰から伝わったんだろう。


「自分がしているのが正しくないことでも、それをしなければ自分が死んでしまうってこと、あると思う…分かる?」


 さくらちゃんがじっと僕の目を見つめる。

 分かるような、そうでないような気がした。


 さくらちゃんは、以前、僕を誘惑しようとした。もしかしたら、さくらちゃんはその行為が『正しくない』と思っていたのかもしれない。けれど、それをしないと彼女は彼女でいられなくなってしまうと考えたから、僕を誘惑したのかもしれない。


 そして、やっぱりなんだかそれは、辛いことのような気がする。


「あたしを殺そうとする人がいたら、あたしは相手を殺してでも生き延びたいの。そうしなきゃ、あたしは生きられないから。わかって、くれる?」


 言葉を発するのが、ひどく億劫だ。


「ごめんね。でも、きっと、むりだ」


 多分、僕は葛切さんのところに行くだろう。

 きっと、さくらちゃんが泣いても。たぶん。


「そっかあ。やっぱり、ムリかあ」


 さくらちゃんは泣かなかった。

 ただくしゃくしゃと今にも泣き出しそうに笑った。


「さくらちゃんが生き延びるために、僕を、殺す?」


 なんだか一瞬、彼女のためになら殺されてもいいような気がした。僕とどこか似ている彼女なら。

 僕の質問に、


「どうしようかなあ」


 と彼女は儚く笑う。


「ねえ、かすみくん。あたしの話聞いてよ」

「え?…え、うん」


 それから、さくらちゃんは彼女の身の上話を語り出した。


「あたし。生まれた時から、居場所がなかったの」


 昔ほど格差社会では無くなったとはいえ、未だに伝統としきたりに縛られた名家というのは存在する。さくらちゃんもそんな家に生まれた一人だったのだ。物質的にはなんの過不足ない環境に生まれたさくらちゃんは、それなのに不幸だった。


「親はお姉ちゃんだけがかわいかったみたいで、あたしのことはまるで眼中になかった。あたしに優しかったのは、お婆ちゃんだけだったよ。なんでだろうねえ、あたしたち、顔、そっくりなのに。ねえ、かすみくん、なんでだと思う?」

「…」

 僕は答えられない。


 そんなこと知りようがないし、知りたくもなかった。

 話が重い。重すぎるくらいだ。

 さくらちゃんが嗤う。


「料理も洗濯も、あたしがするのが当たり前。信じられる? うちの親、六歳にもならない子供にそんなことさせるの。全部機械があるのに、使わせてもらえない。それで、できないと叩かれたり、蹴られたり。洗剤を飲まされそうになったこともあるよ。…でも、ほんとうにイヤなのは、外に放り出されたり、納屋に閉じ込められることだったな」


 彼女は言う。


 外は寒いから、キライだと。

 窓から覗く家族の楽しそうな団欒に、どうして自分が加われないのか分からない。一緒にテレビを見れないこととか、一緒に食事ができないこととか。とても悲しい。寂しい。世界にたった一人、放り出されたように感じたのだと。


 真っ暗な納屋もキライだと言う。

 狭くて、暗くて、いつ出してもらえるのか分からなくて、もしかしたら自分はこのまま一人、餓死して、死ぬんじゃないかと恐怖する。自分の干からびた死体は誰にも顧みられることなく朽ちていくんだろうと想像する。


「親に抱きしめられるのって、どんな感じなんだろうって思っていたな。あたし、ずっとアイツ…ゆりを見ていたの。羨ましかったから」 


 胸が痛い。とても虚しい。


「あたしは、この世界にいちゃいけないんだと思ってた。いる資格もないと思ってた。だって、だれも、ここにいていいよって言ってくれなかったから」


 聞いているのが辛い。

 そして、なんとなく理解できそうな気もする。ひとりぼっちの寂しさを。


「……神サマと出会ってから、…神サマは色んなことを教えてくれて、それから、考えろって言われたの。考えて、分かった。自分のされていることは、全然普通じゃなかった。アタシには怒る権利があるって」


 テーブルの上に力なく置かれていた、さくらちゃんの両手の拳が、キュ、と握りしめられる。


「だから、復讐することにしたの」


 さくらちゃんは、すべてを見通すような鋭い目で僕を見た。


「かすみくん、分かる? 人がされて、一番嫌なこと」

「…」


 頭の中に浮かんだことを、口にするのは躊躇われた。

 それは、さくらちゃんが親に想われていない、というのと同じことだったからだ。


「やさしいね、かすみくん」


 さくらちゃんが声をあげて笑う。とても、痛々しい。


「ゆりを壊すことにしたの。だって、ゆりに復讐するってことは、ゆりをとても大切に思っている親に復讐するってことだから。人はね、きっとどんなにひどい痛みに耐えられても、自分が一番大切に思っているものが傷つけられるのは許せないもの」

「…さくらちゃん」

「もともとあたしのことを下に見ている相手だったから、すごく簡単に操れるようになった。でも、それだけじゃ足りないの。あたしは、あたしが生きるために、あたしの家族を殺すの。あたしが自由になるために」

「…それで、さくらちゃんは、幸せになる?」


 自分でもよくない聞き方だと思った。

 幸せになれるかなれないかじゃない。

 さくらちゃんは、生きるために闘うことを選び取ったのだ。


「…ごめん」


 さくらちゃんが薄く笑う。

 まるでいたずらをした子供をしょうがないなあ、と笑う母親のように。


「あたしね、キレイなものがこの世に存在するって知らなかったの。だから、かすみくんに出会って、心の中にキレイなもののための居場所ができた時、それがとても大切に思えて、それでも、とってもジャマだった」

「…うん」

「でも、大切だから。殺さないよ」

「うん」

「それでも、行っちゃう?」

「うん、ごめん」


 いいよ、とさくらちゃんが微笑んだ。


「でもね、忘れないで。かすみくんが、今日、海堂製薬に行ったら、あたしの希望はきっと砕かれることになる」


 ふと、思った。

 僕も、選んだ。

 だからこの瞬間のことは、きっと死ぬまで忘れることはないだろうな、と。




✳︎

 海堂グループ。

 彼らは一体何を企んでいるのか。


 一旦家に戻った僕は、最後に、自分の部屋中で液晶に向かって調べ物をする。


 度々名前が出てきていたとは言え、世間で言うところの大企業が一体どんな理由を持ってして、いわゆる「乙ゲー小説」の世界なんかを再現しているのだろうか?


 企業的な利益があるんだろうか。

 それとも誰かの個人的な理由?


 その範囲、つまり再現度は一体どこまで広範囲なのだろうか。日本だけ? アジア? それとも、この世界すべて?


 もしそうだとしたら、それを作り出した人間は神さまみたいなものかもしれない。人の運命を操る神様。人の生き死にを司る神様。


 そんな人がいたらイヤだな、と思う。葛切さんじゃないけど。


 僕のたゆたう海藻のように凡庸とした人生でも、それでも僕はいくつかの人生の決断をしてきた。それは、人の生き死にを決めるだとか、みんなを導くためだとか、そんな壮大な決断じゃなくて、僕自身にまつわるごくごく小さな決断だけれども。それでも、それが誰かの意思によって決まっていただなんて嫌だ。だって、僕の決断は、僕のものであって欲しい。


 葛切さんはこんな感覚をずっと味わい続けているのかもしれない。

 歯がゆいような、気持ち悪いような。

 …きっと、怖いんじゃないだろうか。

 それとも、怒りを抱くのかもしれない。葛切さんなら。

 でも、怒りと恐怖の間に差なんて、そんなにないようも気がする。


 画面をスクロールしながら、考え事をしていた僕は、ふと、あることに気がついた。


 葛切さん。

 生まれ変わり。

 転生。

 なろう小説。

 秘密の書かれたスケッチブック。

 身代わりで死ぬことになったかずや。

 洲崎くん、小林くん、アンニャちゃん。

 それから、…桃井さんに、さくらちゃん。


 「もしかして…」


 僕は端末を通話画面に切り替えた。



✳︎

 部屋を出て行く直前、ふとあることに気がついてパソコンを起動させる。

 ホーム画面には縦横無尽に移動するヒナがいる。

 僕は彼に尋ねた。

 さくらちゃんのお祖母さんは。


「きみに自分が生きている存在だと認識させたんだね」


 こんにちは、もやあ、もない唐突な会話にヒナは動じた様子もなかった。

 唐突な会話はAIにとって変なことではないのだろう。


「ボクは生きているよ。実体を持っていないだけだ」


 もし彼が消滅の危機に瀕した時。

 きっと彼は苦痛と恐怖という感情を見せるだろう。しかしそれは、そうなるようにプログラミングされたからで、本当に苦悩しているのか、死にたくないと絶望しているのか。それは知りようがない。


 僕はいつか読んだ本を思い出す。


 デカルトの時代には、動物というのは痛めつけられれば苦痛の反応を示すものの、それは反射行動であって、人間と同じように「本当に」痛みを感じているわけではないと考えられていたらしい。だから、動物を痛めつけるのに罪悪感を感じる必要はないとして、どこまでの拷問に耐えられるかという実験台なんかにされていた。現代では、それが間違いだったと分かっている。


 これは、その種の問題なのだろうか。


 つまり、AIも他の生命体と同じであると。

 それとも、この不完全で輪郭も曖昧な存在が生命であるとは言えないのだろうか。

 いつか、彼の魂の存在の証明がなされる日は来るのだろうか。


「きみには、体もなければ、脳もない。感情だって、組み込まれたコードでしかない。それでも、きみは生きている?」


 僕は彼にどんな答えを期待していたのだろう。

 でも、確かに僕は何かを知りたくて、彼に問いかけをしたのだ。


「ボクは生きているよ。実体を持っていないだけだ」


 それがヒナの答えだった。

 哀れで、愛おしい機械の答え。

 彼を創造した神は、なんて残酷なんだろう。

 僕は覚悟を決めた。





 葛切さんと合流するべく、こっそり家を出たら、家の陰にすでに本人がいた。


「準備はいい?」


 いつもの通り、すらっとしていて、人形みたいな葛切さんが、やっぱり人形みたいに可憐な声で僕に問いかける。

 僕は頷く。


「さ、行こっか。かすみくん」


 散歩に行くような気軽さで葛切さんが歩き出した。

 僕もそのあとをついて行く。


 アオイというのが何者であれ。

 葛切さんが、この世界の全てを捨てても、彼女がそのたった一人の大切な人を助けたい。そう言ったら。

 僕は、彼女がそれ以外のものを捨てなくてもいいように、行動すればいい。

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