第25話 アンニャちゃんのお話
先生に頼まれた用事を片付け終わった直後、廊下を歩いていると、端末がメッセージを表示した。
さくらちゃんだ。
『今晩十九時、駅前で待ってるよ』
それだけの短いメッセージ。
『わかった』
とだけ返す。
それから先に食堂に行ってしまった洲崎くんを追いかけた、
……のだけれど。
なにがあったのだろう。
食堂はちょっとした騒ぎになっていた。
騒ぎの中心にいるのは桃井さんだ。彼女が甲高い声で誰かを責め立てている。相手は誰かと思ったら小林くんだった。彼は心底イヤそうに顔をしかめ、頬を引きつらせてなにか言い返している。桃井さんがあと三言でも発したら爆発しそうな気配だ。
「うわあ。桃井、超ヒステリックじゃん」
見下したように誰かが囁いた。
声をした方を伺うと、桃井さんを散々崇めていた同じクラスの男子だった。以前、僕に突っかかってきた生徒だ。
「更年期なんじゃないの」
「やめろよ、バッカ」
言葉とは裏腹に、注意した彼もこの騒ぎを楽しんでいるようだった。
ひそひそ声に深刻さはまるでない。観劇気分でこのハプニングを楽しんでいるんだろう。
辺りを見回して、気がついた。
食堂には少なくない人間がいるが、多くの人の顔に思いがけないイベントを楽しむような色がある。それにチリと胸の痛みを感じた気がした。
「それにしても海堂、桃井と付き合っているってほんとなのかな」
「そうなんじゃね。じゃなきゃいつまでもあんな場所にいないだろ」
この場所は、ヒートアップし続ける桃井さんに対して、批判的な人が多い。
僕ら若者世代は、あまり感情を表に出すことをよしとしない。それはそのまま未熟さの現れと取れるからだ。未熟な僕らだからこそ、それを忌避しようとする。公共の場でそういうことがあれば近しい人間が場を収める。経済的に豊かであればあるほど、そういう傾向が強いはずだ。
海堂くんは、声を上げる桃井さんを静かに見つめている。止めるつもりはないようだった。
「あの外人の子、あんな風に責められて、かわいそう」
そんな同情的な声に、この場所にアンニャちゃんもいるらしいことに気がついた。
どこにいるのかと見回してみたら、小林くんの横で困惑していたらしく、偶然目が合う。駆け寄ってきた。
「カスミ、ドウシヨウ!」
「ええっと、なにがあったの?」
「コバヤシが何か言って、ユリが怒り始めた。タブン、アンニャのセイ」
「…洲崎くんは?」
「キエタ!」
消えた、とはこれいかに。
困惑する僕をよそにアンニャちゃんは、これはいかんと判断したようですそそそそ、と元いた場所に戻ると、ぎゃあぎゃあやかましく騒ぐ桃井さんと、応戦している小林くんを一喝した。
「ウルサイ! フタリ!」
喧騒の中、アンニャちゃんの高い声がよく響く。
騒ぎの中心も例外でなく、怒鳴り声がピタリと収束した。
「なんだよ」
不機嫌そうな小林くんに、アンニャちゃんはぴしゃりと返した。
「ケンカ! よくない!」
「………」
小林くんはむっつりと黙り込んだ。
もしかして小林くんのむっつり不機嫌そうな顔、あれ不機嫌なんじゃなくて、困惑しているんだろうか。
「あのね…!」
桃井さんの怒りを削ぐには至らなかったようで、再度口を開きかける。
しかし、今度は海堂くんが止めた。
「百合。気にしなくていい。こんなやつ」
そうして桃井さんの肩を抱く。
「百合がなんでも持っているから嫉妬しているんだ。気にする必要はない」
小林くんが海堂くんを穴があきそうなほど目を見開いて凝視している。呪いを掛けているんだろうか。海堂くんはそれをすっかり無視だ。
「で、でも男の子だよ」
桃井さんは不満もあらわに唇を尖らせる。
「性別とか関係なしに、誰にでも嫉妬する人間だっているんだよ。それとも、俺が信じられない?」
「…ううん。海堂くんの言うことなら信じるよ」
そうしてしおらしくして見せたのだった。
「よかった」
海堂くんはにこ、とはにかむと、
「騒がしくして悪かった!」
海堂くんが周囲に謝罪したことで、騒ぎは一応の解決を見たようだった。
堂々とした物言いは、これで茶番は終わりだと、はっきり示している。
昼休み終了も間近、観衆もまた、面白い見世物は終わったと、散っていった。
« 隙間 »
アンニャは踊ることが好きだ。
といっても、誰かに教わっていたわけではない。
バレエもタンゴもサルサも素敵だとは感じるけれど、習ってみたいと思ったことはなかった。
だから、ただ踊りに合わせて体を揺らすだけの、言ってみれば素朴なダンスしかできない。きっと、音楽好きな家族の影響だろうと、アンニャは思っている。
アンニャより三歳年下の弟と、父に母。
小さな家族。朧気な幸せの象徴。
真っ先に思い出すのはいつだって、家での記憶だ。
田舎町の郊外にあった、大人からすれば、少し寂しい通りの家に住んでいた。
けれども、アンニャはその家が大好きだった。
向かい側には軍の演習場があって、土曜日の朝は少し騒がしくなったし、二軒隣の家で飼われている双子のようにそっくりな二頭の大型犬はアンニャを見かけるたびに、まるで挨拶するように吠えかかってきた。
家は、世界の中心で、そこからどこにでも行けるような気がしたものだ。
だから家で過ごすことも嫌いじゃなかった。
今でも細部まで思い出せる。
白いタイル貼りのキッチンは、バーベキューができるほど大きいバルコニーにつながっていた。コの字型の優に十人は座れそうなソファがあるリビングには、大昔の型のテレビが飾られていた。子供部屋に吊されたランプはかわいい花の形をしていた。全体的に白い家。
この家を出ることになった時、アンニャは悲しくて泣いたものだ。
そうして、次に住むことになるだろう人に向けて小さなメッセージを残した。
『わたしはここに住んでいた十歳のアンニャといいます。このおうち、とっても素敵な所なの。大切につかってね』
それから、窓辺のレンガの隙間に空いていた小さなくぼみに、ソレをそっと隠して家を出た。
アンニャは知らない。どうしてこんなことになったのか。
いつの間にか、アンニャは家族と引き離され、どこか知らない施設に収容されていた。アンニャと同じような年頃の子供たちが集められたその施設で、アンニャは名前を捨てられ、番号で識別されることになった。
その時まで、家を出るのも、施設に来たのも、ぜんぶぜんぶ、親を含めた大人の世界の都合で、なんで大人って子供の世界のことを考えてくれないんだろうと、すこしだけ、腹が立っていた。
それでもすぐに理解することになった。
その施設は、今までの『大人たち』とは比べようもないほど、本当のアンニャのことなどどうでもいいのだと。
子供たちは性別ごとに、三十人単位で管理され、一単位あたりで学校の教室に酷似した場所に集められ、そこで生活を送ることになった。教師のような言動をする大人がアンニャたちを監督していた。
『お前たちの受けてきた教育は間違っている。ここでは正しい教育、正しい文化を学び直さなければいけない。そのためには、まず正しい言語を使用することだ』
なにもかもが本物らしくて、なにもかもが間違っていた。
持っていたノートや洋服は全て捨て去られ、支給されたものを使うことになった。
番号ではなく、名前を呼ぼうものなら、激しい折檻を受けた。
そこは、とてもイヤな場所だった。
アンニャにはすぐに友達ができた。イェレナという同い年の女の子だった。おとなしく、控え目な笑顔を浮かべるその子も、弟がいると言い、それから仲良くなったのだ。アンニャは自分がひとりぼっちじゃなくなったような気がして、嬉しかった。
光さえも滅多に差し込まないような暗い施設だったけど、イェレナと一緒に、こっそり内緒話をする時だけはそこが暖かく感じられた。
家族や本当の学校、ちょっとだけ気になっていた男の子の話。
こっそりこっそり、話をするのだ。
見つかれば警棒で叩かれたり、どこかに連れて行かれたりしてしまうから、決まって消灯時間が過ぎてから、そっとどちらかのベッドに忍び込んでおしゃべりをする。
「ねえ、アンニャ。ここを出たら、なにをしたい?」
「ちょっと。そんな話をしているのがバレたら殺されちゃうよ」
おとなしいイェレナは、時折びっくりするような大胆さを見せる。それがアンニャは好きだった。
「いいじゃん。教えてよ」
「えー。そりゃもちろん、パパとママとニコラに会いたい。イェレナは?」
「わたしは、自由に旅行がしたい」
「旅行?」
「好きな時に起きて、好きなものを食べて、好きな場所に行くの。素敵でしょう?」
「一人で?」
「まさか。ステファンとよ」
ステファンとは、イェレナがもともと住んでいた場所で好きな男の子の名前だった。直接話しかける勇気のなかったイェレナは、遠くからそっと見つめていたのだと言う。
友達にまだなってない相手と旅行に行く、と言うイェレナに、アンニャは冗談を言っているのだと理解した。だから、ひっそり笑った後、
「はやくそうなるといいね」
と笑い合った。
それから時々、一緒に踊った。
スピーカーなんてないから、それぞれが知っている曲を口ずさむのだ。故郷の曲。懐かしいメロディー。一回だけ、他の子に見つかって、教官に告げ口されるかと肝を冷やしたことがある。けど、気がついたら、その子も一緒に踊っていた。
そうしたら輪が広がって、いつの間にかシルビアもターニャも、それどころかその場にいた生徒のほとんどが踊っていた。いつもはお互い喧嘩してばっかりのレティシアとハイザだって楽しそうに輪に加わった。
しばらくしたら大人がやってきたから、慌てて中断して、まるでなにもなかったかのように過ごした。
あの時、女の子たちの間で共有したちょっとした秘密、そのことは、今でもくすぐったい思い出として胸に残っている。
母国語ではない言語での教育に、意外とアンニャは順応した。
新しい言語が母語と似たような言語であったことに加え、言葉にはある程度規則があることに気がついたからだ。
なかなか習得仕切れないで、折檻されている他の生徒がいれば、助言もしてみたりしたけれど、あまり参考にはならなかったようだから、それはアンニャの独特な感覚だったのかもしれない。
その適応力は言語だけに留まらず、他の分野にも適応された。
「貴様はバカなのか、優れているのか分からないな」
教官がそんなことをいうぐらいには、アンニャはそれなりの成績をあげていた。ただ、情緒的には幼すぎると思われていた。それでも教官のアンニャに対する扱いは他と比べたらすこぶるいいものだった。
「アンニャはいいなあ」
成績優秀者には夜の仕事もなく、まら月に一冊、好きな本を読む権利が与えられていたから、イェレナはよくそれを羨んでいた。
ある日、イェレナの様子がおかしな日があった。
その日一日中、なにか言いたげにアンニャをじっと見つめていた。どうしたの、と聞くと、なんでもないと首を振るのだ。だからアンニャは、きっと教官に見張られていては言えない何かなのだと思った。だから、消灯時間が過ぎてから、イェレナのベッドに潜り込む。
イェレナが言った。
「いつまでもここにいる人は、目玉とか、心臓をとられちゃうんだって。ほら、今までもいなくなった子、いたでしょ」
「えっ、ウソ。ホントに?」
「うん」
真剣にイェレナが頷くから、アンニャは怖くなった。
「ねえ、アンニャ。一緒にここから逃げようよ」
アンニャの心臓がドクンと跳ねた。
「どこに行く?」
アンニャは思ったのだ。
イェレナとなら、どこにでも行ける。きっと、なんでもできる。
愚かな少女二人が、施設を抜け出したのはそれから一ヶ月後の、月のない夜のことだった。
室内の誰もが寝てしまい、静まり返った部屋を、二人は抜け出し、ダストボックスへと向かったのだ。
結果から言うと、その企ては失敗した。
それから、覚えているのは、
甲高い叫び声。
引き離された手。
真っ赤に染まった視界。
揺れる地面。
そして————、
どこにもいなくなったイェレナ。
彼女は肉片すら残らなかった。
なんにもなくなってしまって、彼女が存在したことすら証明できない。
そこから、始まった、ただただ地獄の日々。
ほんとうの、地獄。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます