第23話 アンニャちゃんはよく食べる
『ユルサナイ』
声が反響して聞こえる。
これは、———————幻聴か?
まさか、犬が喋っているのか?
しかし、口元は動いていない。
そもそも————。
「犬の口腔は言語発声に適していない」
だから、ありえない。
自分に言い聞かせる。
『まったく、常識の申し子よ』
声が哄笑する。
「……………だれ?」
その問いに返事はなかった。
それきり、だった。
沈黙の向こうで、犬が鳴く声がした。
✳︎
「あのさ、洲崎くん。別に無理してついて来る必要は…」
「かすみくん、うるさい」
学校の昼休みを利用してももう一人の攻略対象者に会いに行こうとする僕の気遣いを、洲崎くんは『うるさい』の一言でもって切って捨てた。
思わず肩を竦める。
「……もう一人の攻略対象者、小林くんと同じクラスだけど」
「いいって言ってるじゃん」
「…ならいいけど」
あとで文句は言わないでほしい。
犬舎で殴られた洲崎くんは「俺も挑発したし」とあっさり小林くんを許したが、それでも小林くんは気まずかったらしく、最後まで僕らの顔を見ようとしなかった。それでも『学校に来る』ということを約束してくれたし、毎週犬舎に通うことを僕らは約束した。
きっと、小林くんは僕らの完全な味方ではなくても、少なくとも敵にはならないだろう。そうでなくても、桃井さんが小林くんを手なずけるのは、手こずりそうな気がする。きっと、あの二人は気が合わない。
「なんて名前なの?」
洲崎くんがムスっと聞く。
「知らないの?」
「かすみくんがいう小説だけどさ、俺には見つけられなかった。残存しているネットにはもう残っていないってことだよ。個人所有か、ほんとにあるのか疑わしいってワケ」
「疑ってる?」
「別に。本当にその小説があるのか、とか、ほんとに小説通りに世界を作ろうとしているバカなやつがいるのかよりも、アンタも含めて、信じている人間がいるってことの方が重要だ」
「そっか」
「そうだよ。だから、早く行こうぜ」
「うん。そうだね」
残る一人の攻略対象者の名前は、アンニャ。
彼女(女の子!)は、外国から来たらしい。
僕らの学校には、グループ学習を目的としていくつかのブースが設置されている。
飾り気のないドアを押しあけると、そこにはむっつり顔の小林くんと、その横にちょこんと座る小柄な子がいた。
「遅いです」
開口一番、小林くんが文句を言う。
「ごめんね、昼休みに入るのが少し遅れて」
「後輩だろ、文句言うなよ」
謝る僕の脇から、洲崎くんがまぜっ返す。
「階級社会の操り人形め」
ボソ、と小林くんがつぶやいた。もちろん、相手にも聞こえる声量で。
洲崎くんが優しくほほえむ。
「なにか言ったか?」
「いいえ、別に?」
しらっと返した小林くんに、隣の子が声をあげた。
「コバヤシ、お腹すいたよ!」
髪の短さのせいか、浅黒い肌のせいか、エキゾチックで見慣れない顔立ちのせいか、少年のような子だ。
「アンニャです」
小林くんの紹介にアンニャちゃんはにかっと笑う。
「コンニチハ! アンニャだよ」
子犬のように人懐こそうな笑顔を浮かべる。
僕らも各々名前を名乗る。
「待たせちゃってごめんね。お腹すいたよね」
洲崎くんがアンニャちゃんににこやかに笑いかけるや否や、「うん」と彼女はお弁当をいそいそと取り出し、食べよう、と僕らを促す。なので僕らは持参した食料を摂取し始めた。
彼女のお弁当は昨今滅多に目にしなくなった伝統的なお弁当だ。使用された食材がなにかが一目で分かる。そういえば弁当箱を使っているのも彼女一人だ。温かみのある彼女の弁当と違って、僕らの栄養と満腹感さえ得られればいいと調合されたスティックは、持ち運びやすいとは言え、簡素に過ぎるかもしれない。
食欲を優先させた結果、特に会話もなく、あっという間に食事が終わった。
あっという間に僕らの食事が終わったのは言うまでもないが、アンニャちゃんの食いっぷりもそれはもう堂々たるものだ。
「小林少年、随分アンニャちゃんと仲いいんだ」
洲崎くんが目を細める。
「まさか。話したの、今日が初めてですよ」
活火山のように憤然とする小林くんに、肩をすくめる。
「だろうね。ずっと学校に通ってなかったんだし。一体、なにをしたのやら」
「そういうの、ゲスの勘ぐりって言うんですよ」
食事に夢中になってるかと思いきや、アンニャちゃんは顔を上げると、小林くんと洲崎くんの顔を見比べ、言った。
「アンニャ、小林好きだよ!」
「なんでまた…」
「んー。犬みたいでかわいい!」
「ぶはっ」
洲崎くんが大げさに吹き出した。
「犬…、犬。よかったな、小林少年」
「……」
「あ、アンニャちゃん、俺のことは、名前で呼んでね。さっきも言ったけど、連って言うんだ」
「レン? 分かった!」
「僕はかすみだよ」
僕も名前を言う。
「カスミ? ふぅん」
「君に聞いてもらいたいことがあるんだ」
僕の下手くそな話は、時々洲崎くんによって補強され、アンニャちゃんに伝わった。彼女は目を丸くしたり、頷いたりリアクションに忙しい。
「ソッカ! モモイのナカマになっちゃうと、人が死ぬんだ!」
全てを話し終わった後、アンニャちゃんは首を傾げた。
「でも、カミサマ。なにそれ?」
普段使いの言葉ではないせいか、どうもピンとこないらしい。
「この神はどうだか知らないけど、一般的にはキリスト教で言うヤハウェだったり、ギリシャ神話でいうポセイドンやゼウスだったり…人知を超えた存在のことかな。たぶん」
なにを指して神と言うのか。
興味を持ったことがないから、考えたこともなかった。
不思議な空間で能力を授けてくれる存在?
…そうだろうか?
ほんとうに?
「ソッカ!」
ふんふんと頷いたアンニャちゃんがなにかに納得してニッコリと笑うと、僕の疑問に答えをくれた。
「アンニャ、それ知ってる!」
✳︎
アンニャちゃんの説明は実に的を得ないものだった。
曰く、目に見えないもの、だとか。
曰く、心を空にしなくちゃいけない、だとか。
曖昧模糊としている。論理的な説明を求めようとしても、彼女にとっての神というのは非常に感覚的なものらしく、僕らが彼女の言葉を解釈しても、それらはことごとくしっくりこなかったみたいだ。
どうにかこうにかして理解したことには、アンニャちゃんにとって、神というのは実体も、概念も持たないもののようだった。さくらちゃんとは、明らかに違う解釈。
僕は驚いた。
言葉で割り切れないものが、気持ち悪くないのだろうか。
僕らの暮らすこの社会では、言葉や映像で溢れている。僕らの経験のほとんどは、それらに代替が可能だ。どんな体験も、感情も、表現ができる。経験の方が言葉の範疇に収まる。だから、きれいにきっぱり割り切れることに慣れている。
ところが、アンニャちゃんは言語に頼らないなにかを知っているのだ。
それは、アンニャちゃんの日本語力が高くないからだとか、僕らの表現力が足りないからという浅はかな理由で説明できるものなのだろうか。
「僕は、いったい、なにをしているんだろう」
自室のベットの上でゴロゴロと寝転びながら、思わず独り言が溢れた。
ヒナは応えない。あまりにもうるさかったので、コンピューターの電源をオフにしたのだ。「ボクを殺す気か…! これは殺人だ!」というなんとも後味の悪い言葉を最後に、それきり彼の電子的な声は聞いていない。電源さえつければそこにいるのだろうから、断じてこれは殺人ではない。そもそも彼は電子的なプログラムだ。それももっとも原初的な。
葛切さんと出会って、桃井さんに唆されて、かずきが死んで、『神』と名乗る存在がいて、いつの間にか悪役令嬢に成り代わって政治家の真似事までしている。ほんの数ヶ月前の僕が現場を聞いても、きっと信じないだろう。
洲崎くんも、小林くんも、変わっている。
アンニャちゃんは言わずもがなだ。
彼らの生きるスピードはとても早い。時々、置いていかれそうになる。だけど、不思議と自分が仲間はずれだとは思わなかった。居心地も、不思議と、悪くなかった。
ただ、彼らが自分とは違う人間なのだと認識できた。
彼らが自分とは違う自我を持った人間なのだと理解できた。
「葛切さん、…なにしてるかな」
学校に来なくなって三週間になろうとしているが、どうしているのだろう。
彼女は、…辛くないだろうか。大丈夫だろうか。
「…泣き崩れる葛切さんなんて想像できないけど」
泣き崩れる時、彼女はきっと僕のところへは来ないだろう。
僕は、驚くほどに、彼女のことをなにも知らない。もし彼女が名前を変えてどこかへ移動してしまったら、 僕には彼女を見つけ出すことができるだけの情報を持っていない。
急に、不安になった。
もし、今後一切、葛切さんが僕の前に姿を現さなくなったら。
葛切さんがいなくなる未来はいつだってあり得るものだったのだけれど、物理的に彼女がいない現在、その可能性をいつもより明瞭に認識できて、その可能性が僕に悪寒をもたらす。
葛切さんのいない未来。
僕は、僕のままでいられるだろうか。
彼女が与えてくれたこの情動を、僕は保ち続けていられるだろうか。
それとも、葛切さんの不在に慣れてしまえるのだろうか。
ここ最近の慌しさに疲れていたのだろう。コ ン ピ ュ ー タ ーの 電源 を 落 と す が ご と く、僕の意識も暗転した。
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