第22話 犬
「へえ、ほんとに来たんだ」
「約束したからね」
ジーンズにシャツという簡単な服装の僕らを出迎えたのは、同じような格好をした小林くんだ。
「ここに来るまで暑かった」
虚空を見つめる洲崎くんをよそに、小林くんが平屋の凡庸な建物に僕らを招き入れた。
つん、と普段の生活ではおおよそ嗅ぐことのない匂いがその犬舎には漂っていた。
僕ら、新参者の気配に、犬が一匹鳴き声を上げ、つられて他の犬も遠吠えを上げ始めた。檻の向こう側では、狂ったようにぐるぐると同じ場所を回り続ける犬もいれば、なにかを見定めるように僕らをじっと見つめる犬もいる。
立ち並ぶ黒光りする檻。
その中に押し込められた犬。
率直に言って、ぞっとする光景だった。
これは、いい行いのはずなのに。なぜか、おぞましい。
「今、ここには二十匹ほどいる。虐待を受けたり、飼い主に捨てられた犬たちです」
学校に通わない小林くんは、代わりに『自らが所有』するこの街外れの犬舎にやってきて、捨てられた犬の保護を行なっているのだそうだ。しかし、犬の数に比べて圧倒的に人間の数が足りない。そこで、突然やってきた僕らをここに連れてくることを思い立ったのだという。
「実は、最初はボランティアの人たちに来てもらって、保護にあたっていたんだけど、あまり意見が合わないからやめてもらいました」
「何かあったの?」
「飼育の指針が違ったんです。犬はただかわいがればいいってもんじゃない。健康に悪い食べものはできるだけ避けるべきだし、里親に譲渡するなら、噛まないように躾もしなくちゃいけない。ここに来ていたボランティアは主におばさん連中だったんですけど、世間話するついでに世話をするという調子で、おれは我慢ならなかった」
「…………」
なんとも、それは。
「ふうん、だから全員追い出しちゃったんだ。わがままな王様だな」
「なっ、…うるさい」
「言い過ぎだよ、洲崎くん」
「でも、そうじゃん?」
「……ふん。とにかく、あんたらにはここの清掃と犬の散歩を手伝ってもらいますから」
僕らは急に頭に触れてはいけないだとか、尻尾を掴んではいけないだとか、事細かく取り扱いについての注意を受け、犬たちの世話に取り掛かった。
まずはゲージの清掃と、ブラッシングをしてくれということで、毛の絡まったブラシと掃除用具を渡される。
ゲージを開け、茶と白のまだらの中型犬を小林くんが呼び寄せ、僕に手渡した。
僕はこわごわ犬の頭を撫でる。
頭に触れる瞬間、フルリと震えただけで、他になんの反応も示さない犬は喜んでいるのか、そうでないのか分からない。
「飽きて捨てられた犬ですよ」
そんなことを小林くんが言う。
元は若い女性の持ち物で、たいそう可愛がっていたのだという。
しかし、彼女が結婚することになり、やがて子供が生まれ、『子供に危害を加えるといけない』という理由で保健所に捨てられてしまったのだそうだ。
「『いい飼い主に見つけてもらってね』と泣いて手放されたんだそうですよ。……白々しい」
「……それは、なんとも身勝手だね」
犬のように、人に隷属する動物は飼い主を選べないのに。
「この子は飼い主の『唯一』じゃなかったんだ。かわいそうに。子供っていう次の対象ができたから、犬はもう、いらないんだ」
なにがおかしいのか、洲崎くんがくすくすと笑う。
「どうする、かすみくん?」
「なにが?」
「いや?」
そうして、肩を竦める。
一通り犬を見たあたりで、僕はある事に気がついていた。
どの犬もなんというか、…………見栄えが悪い。
おそらく、僕自身、見かけたことのある犬というのが、街で見かける血統書付きの犬ぐらいだから、そう感じるのだろう。そういう犬は、遺伝的に改良され、さらにはブラッシングされ、栄養さえもバランスよく与えられているのだろうから、そういう犬と比べるべくもないのかもしれない。
無骨で、どこか不恰好で、ときおり片耳が欠けている個体なんかもいる。
それだけじゃなく、どこかおどおどしていて、尻尾は哀れに丸まり、目は悲しそうに垂れ下がっている。全体的に、自信がない。まるで、この世に希望なんてない、という風に。
それでも、なぜか、彼らが愛らしいという気持ちがじんわりと湧き上がる。
人間以外の動物がこうして存在しているのが、まるで奇跡のように感じられた。
「感情移入でもしてんの、かすみくん」
洲崎くんは、隣のゲージにいた灰交じりの黒犬にブラッシングをかけようとしている。顔を引きつらせながら、軽口を叩いてきた。
「感情移入?」
「人間の都合で生死を握られる、主人を持たないかわいそうな生き物。まるで今の俺たち」
「………とりあえず、頼まれた仕事をしたらどうかな」
この人は、さっきからどうしてこう人を煽るようなことを言うんだろう。
嘆息する。
「さっきから、まるで手が動いていないみたいだけど」
「だって生き物に触れるなんて生まれて初めてだし。よくそんな簡単に触れんね」
「そうだね。温かくて、気持ちがいい」
毛皮から生き物特有の暖かさが伝わってくる。
空調が効いているとはいえ、犬舎小屋は多少じっとりしている。だから高い温度が心地いという訳ではなく、さわる体温が生きているものの証だというのが気持ちいいのかもしれなかった。
「ひょわあっ」
洲崎くんが妙な声を上げる。
世話をしていた犬に舐められて驚いたらしい。
「ひえっ、手なんかなめるなよ」
「………なんか、洲崎くんって、なんかもっと、昼寝する猫みたいなイメージだった」
僕の言葉に、洲崎くんが悲鳴交じりに返答する。
「犬と猫って仲悪いの知らないの?!」
全部アンタのせいだ、とむくれる。
「犬なんて今時、田舎に行かないといないだろ。俺は都会生まれ、都会育ちなワケ」
「そっか。僕もだ」
「なんだよ、もう。本当ならこういう事を体験しなくていい人生だったのに。恨んでいるんだからな」
「恨まれるようなこと、したっけ?」
「……………わかんない」
「僕は、結構、たのしい」
「ふん」
洲崎くんは小林くんの真似をして鼻を鳴らし、それからおっかなびっくり世話を続けた。
「意外だな」
小林くんが事務所と呼ぶが、パイプ椅子、粗末な机、それから山積みになったダンボール箱が置かれたむしろ物置のような手狭なスペースで、小林くんは、おもむろに足を組む。そして、
「佐藤先輩が動物に懐かれるなんて」
とその素朴な顔を意外そうに歪めてみせた。
「そう、みたいだね」
「洲崎先輩が動物ニガテなのはうすうす勘付いてましたけど」
「ちがうって。あいつらが俺から遠ざかろうとしてた。見てなかったワケ?」
「そりゃあんだけ怯えてたら、犬だって怯えますよ」
バカですかと鼻白んで見せる小林くん。
うるさい不登校児、と洲崎くんが険悪に返した。
「ともかく先輩たちには、週に一回、これからここを手伝ってもらうって事でいいですか?」
どうやら小林くんは僕らを先輩と呼ぶことにしたらしかった。
「もちろん。そういう約束だからね」
僕らは……、いや僕は頷く。
「小林少年はさ、どうして急に俺らに敬語使い出したワケ?」
洲崎くんが尋ねる。
もっともな疑問だった。どうして急に言葉遣いを変えたのだろう。
「便利だと気付いたからですよ」
冷え冷えとした瞳で、小林くんが僕らを見遣る。
「敬語って、他の人と距離を置くのにぴったりなんです」
「へ…それって僕らと距離を置きたいって事?」
意外な返答に頬を張られたような気持ちになるが、小林くんはおかまいなしだ。
「そうじゃないですけど。洲崎先輩と佐藤先輩だって別にトクベツ仲良い訳でもないでしょ」
うっ。見抜かれてる。
「だから、たぶん、敬語くらいの距離感がおれにはちょうどいいと思いまして」
「そ、そっか」
「別におれに敬語使ってくれても構いませんよ」
「いや、…それは」
小林くんが、唇の片端をあげて、冷ややかに笑う。
「それは、おれが歳下だからですか?」
「いや、…どうせなら仲良くなりたいなって」
僕の返事に肩をすくめる。
「…小林少年の学校嫌いと敬語って関係あるんでしょ」
洲崎くんの指摘に、小林くんが眉をしかめる。そして、
「今まで学校という場所を非常に非論理的な場所だと思っていました」
訥々と語り出した。
「おれは、学校がキライだ」
「ふうん?」
「先輩・後輩というただ年齢だけで振りかざされる秩序。そのほかの無意味な習慣。こんなもん体の良いコントロール法じゃないですか。まるでそうであるのが当然というツラをして、秩序を染み込ませる。そこに疑問なんて挟ませない。その実、それは効率を重視しているわけではなく、大人の体面のためだ」
なぜか洲崎くんを睨みつける。
「第一、方法が前時代的なんですよ。魔女狩りや北朝鮮のように、はみ出し者がいないかお互いを監視させて、体制側の都合がいいように民衆をコントロールするなんて、昔の村社会の縮図のような事をやっているのが、学校でしょ。今の時代にもなって、そんな事やってんですよ。コントロールする側は気持ちいいでしょうが、される側は脳死してるんじゃない限り、気持ち悪い」
「小林くんは……イヤだったんだね」
小林くんが決然と頷く。
「そうです。おれはバカじゃない。怒鳴る教師っているでしょ。怒鳴らなくても、教師の言いたいことは俺には理解できるんだ。でも、教師は、怒鳴ることの恐怖でもっておれを縛ろうとする。それはおれに理解を求めているからじゃなくて、ただおれを支配するためだ。自分の下に置くためだ」
「へえ、なるほど? でも、それは学校が悪いんじゃなくて、小林少年が学校に向いてないんじゃないの?」
洲崎くんが痛烈にあげつらって嗤った。
「もっと言えば、人間社会に向いていない。そして、自分が恵まれた立場にいるからこそそういう考え方をできるんだってことも、気づいていない」
ニヤニヤと悪意のこもった言い方に、小林くんがカッと頬を赤らめる。
「学校は、勉強をする場所だ。些末なことにこだわってアンタは喚いているけど、将来を見据えて今いる場所に縋っている学生だっている。アンタは親の権力の上に胡坐をかいて、なにもかもが気に食わないと喚く子供と一緒じゃないか。今しか見てないんだ」
「なにが言いたい」
「ここだって親の金で用意したものだろ。なんだっけ。ああ、政治家だったよね、アンタの親。アンタが望んでんのは、自分だけの王国を作り上げて、自分だけに都合のいい空間を作り出すことだろ」
「は? そんなんじゃ…」
「犬はアンタから逃げないもんな?」
いや、逃げようがないのか、とニヤニヤ笑う。
小林くんは無言で立ち上がり、拳を振りかざした。
ごん。
洲崎くんの体が弾かれて、壁にぶつかり鈍い音がする。そして、そのままひっくり返った。
ダンボール箱の中身の紙が辺りに散らばる。
「いってえ」
洲崎くんが打たれた頬に手をあて、首をふる。
「……」
小林くんは無言で洲崎くんを睨みつけていたが、やがて耐えきれなくなったように部屋から出て行った。乱暴にアルミ製の安っぽい扉が閉められる。
「………言い過ぎだよ」
「……分かってるよ」
洲崎くんはダンボールから溢れ出したブラシやら遊び道具やらに埋もれながら、むくれた。そして、里親募集の紙製のチラシをまじまじと眺めて、ぼやいたのだった。
「はあ、めんどくさい」
✳︎
僕には、小林くんの言うことが理解できる。
学校は息苦しい。
意に沿わないなにかに従うことは簡単でも、従わないよりも辛い。
でも、仕組みに収まる方法を学ぶのは、人間が人間社会で生きていく上で、必要なことなんじゃないだろうか。きっと、基礎を知らなければ、応用もできないように。
僕は小型犬の檻の前で、しょぼくれてしゃがみこむ小林少年の隣に腰を下ろした。小麦色の毛皮の、大きなアーモンドの目の小犬がキャンキャンとヒステリックに吠えている。
「…オマエたちなんか、キライだ」
「そっか…」
「ふん」
とりあえず思い浮かんだことを聞いてみた。
「あのさ…、さっきの話だけど」
「…なんです?」
「僕もね、はみ出してる方なんだ」
「………」
「でも、秩序がなければ、あるのはただの混沌じゃないかな」
きっと、何度も何度も頭の中でそうした問いを続けてきたのだろう。
すぐさま小林くんは返事をよこす。しょぼくれながら。
「それの何が悪いんです?」
「わからない。でも、誰にも何にも縛られない世界は、ここにいる犬みたいな存在をたくさん生み出してしまうかもしれない。僕は、そう思う」
「………」
小林くんは不満そうに顔をしかめた。
そして長い、長い溜息をついた。
「洲崎先輩に謝ってきます」
「うん、それがいいよ」
素直な小林くんに、僕は笑って頷いた。
立ち去った小林くんの後を追うのも妙なので、僕は檻の中で神経質にくるくると回る小麦の小犬を眺める。
そっと檻の中に手を差し出してみる。
噛まれるかも、と一瞬思ったけれど、引き抜くことはしなかった。
犬は落ち着かなげに吠えたてた後、檻の隅に怯えるようにして蹲ってしまった。
「ごめんね」
かわいそうなことをしてしまったと声をかける。
僕の声にちらりと視線を上げかけるが、それもすぐに伏せられてしまう。目線を合わせたくない、という風に。
そして、言った。
『ユルサナイ』
と。
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