第18話 宇宙一の醜女
「今度は俺が彼女と二人きりになりたいんだ、いいだろ? ああ、でも。俺らにはそのうち話し合うことがあるはずだ。例えば、最近やたらと俺に接触してくるやつについて、とかな」
海堂くんが桃井さんを抱き寄せながら、僕を横目に、そんなことを言う。
ニュアンスを含ませた物言い。
僕は彼の顔を正面から見つめた。
整った、けれどどこか野性味を感じさせる面立ち。
遠目には細長いだけの身体は、よくよく見たら筋肉質で、均整がとれている。そのくせ腰なんか、とても細い。そもそも骨格からして僕とはまるで違う。
王子というなら洲崎くんの方がよっぽど王子然とした顔立ちなのに、彼の持つ要素の一つ一つを統合すると、その王子をも軽く飛び越える独特な高貴さを醸し出す。野生的でも、粗野な感じがしないのだ。
これは、ドキュメンタリー映画なんかで野生動物を見たときの感覚が、一番近いのかもしれない。
なるほど、女子から人気の筈だ。
一体どんな遺伝子を持ったらこうなれるのだろう。
そして、どこか人工的な、人形のような葛切さんとは対極だ。もっとも、葛切さんが人形なのは見た目だけだけど。
「葛切」
「えっ」
彼に見ほれていたら、その名前が出てきたことにドキリとした。
「お前みたいなのでも葛切みたいなのが好きなんだな」
頬がカッと熱くなった。
「どういう意味?」
まさか僕と恋バナでもしたいのだろうか。まさか。
「そのまんまだよ」
海堂くんが肩を竦める。
僕みたいなやつが、葛切さんを好きになる資格なんてないとでも言いたいのだろうか。でも、そんなこと、とっくに僕は知っているし、いまさら他人に言われるまでもない。
「…そんなことが気になるんだ?」
海堂くんの瞳の色彩が一瞬、より濃く変化した。
彼の口の端が持ち上がる。
「じゃあ聞くけど。おまえは葛切の見た目が今と全然違くても好きになったか?」
僕は質問の内容に困惑した。
なんていやらしい質問だろう。
もし彼女が宇宙で一番の醜女だったとして。僕は最初に出会ったあの時、あるいはトイレでの邂逅の時、彼女に対して同じ対応をしただろうか。
答えはきっと、否だ。
僕は僕自身に自信がなかった。醜い顔がどんなものになるのか分からないが、つまりは生理的嫌悪感を感じさせる顔ということだろう。「他者から」醜いものとみなされるものがたとえ善意からでも自分に近づいたら、僕はきっと激しく拒んだことだろう。まるで自分の価値を下げられたように感じて。
でも、あの時の僕と、葛切さんと短いながら一緒に過ごした今の僕では、葛切さんの価値が違う。
一週間前だったら嫌悪したかもしれない。
昨日なら無理だったかもしれない。
でも、今なら。
例え彼女の顔が崩れ落ちても、僕のこの気持ちは変わらない。
これから先、経験を共有していきたいと思うのは葛切さんだろう。他の誰でもいいわけじゃない。
僕は僕と一緒に経験を共有した葛切さんが好きなのだ。
僕は頷いた。
「…もちろんだよ」
「随分正直なんだな」
「嘘はつかないようにすることに決めたんだ」
「あっそ」
海堂くんはにやりと笑った。
「それなら、もう百合に近づく必要はないよな。出口ならそこだぜ?」
そうして、扉を指差す。
出て行け、そういうことらしい。
「言われなくても邪魔はしないよ」
そうしてまるで追い出されるような形で僕は保健室から出た。
✳︎
保健室を出てすぐに、頭が冷えた。
そして先程の質問に答えたことを後悔した。
まだ桃井さんに聞きたいことがあったのに、僕の気持ちが完全に葛切さんの側にあると知られては、彼女の性格ではもう答えてくれないに違いない。彼女の知っていることが僕の求めていることは限らないし、その情報がどの程度正しいのかも分からない。だからこそ繋がっていた方がよかったかもしれないのに。
しっかりと閉じられた扉の向こう側からは桃井さんの黄色い声が聞こえる。どっと疲れた。頭が痛くなりそうだ。
彼女の声を聞いて、もう一つできることを思い出した。
頭が痛くなったついでに、僕はもう一つの用事を済ませてしまおう。
桃井さんが生徒会室にいることが確実に分かっている今の状態はある意味好機なのかもしれなかった。生徒会室を出た足でそのまま僕は、桃井さんの実家に向かう。
果たして、彼女はそこにいた。
スリムなジーンズ。
おへそが出そうなほど短いシャツ。
彼女は門前でホウキを手に、掃き掃除をしていた。
僕はびっくりしてしまった。
似ていると思ったとはいえ、あまりにももう一人の方に似すぎている。
そういえば、どうして彼女は学校に行っていないんだ?
おそるおそる彼女に呼びかける。
「…桃井さん、だよね」
「あれ、かすみくんだぁ。なあにぃ、今日も会いに来てくれたのぉ?」
彼女はふわっとした笑みで僕に振り向いた。
その笑みで僕は確信を得た。
「こんにちは。先週会った方の、桃井さん。おばあさんは元気?」
僕の挨拶に、彼女はなんだバレちゃったか、とおどけたそぶりをする。
「そうだよ、今学校にいる方はあたしの双子の姉さん」
変だな、と思っていたのだ。
先週に会った桃井さんと、たった今対峙した桃井さんは、見た目はまったく同じようで、どこかが違った。さっき会った桃井さんは、僕のよく知る桃井さんだったけど、先週会った桃井さんは「僕が知っている桃井さん」らしくなかった。もちろん僕は彼女のことをほとんど知らない。ほんの少しの仕草、表情、話し方、そうしたごくわずかで、けれど歴然とした差異が、僕に違和感をもたらしたのだった。
これらの違和感に対して、僕は一つの結論を導いた。
おそらく桃井さんは二人いるのだと。
よく似た姉妹か、それとも双子かはわからない。
でも、そう思ったし、僕の思考力ではそれ以外に思いつかない。
どうやらそれは当たったらしい。
きっと、「こっちの桃井さん」はより情報に通じているそんな気がする。
苦笑する桃井さんに僕も笑い返した。
「ばればれだよ」
「おかしいなあ、どの辺が?」
「お姉さんの方だって、そこまで語尾を伸ばしていない」
桃井さんは肩を竦める。
「自信、あったんだけどなあ。今までバレた事なかったのにぃ。それに、大体こんな喋り方でしょ?」
「聞きたいことがあるんだ」
僕の言葉に桃井さんがその大きな目をすう、と細めた。
「なあに、かすみくん」
「教えて欲しいんだ」
声に力が篭る。
「君の…、いや、君たちの望みはなに?」
桃井さんはくすくすと笑い声をあげた。
「それはかすみくんでも教えられないなあ」
「…そっか」
「でも、一つ教えてあげる」
桃井さんは、そこで言葉を切った。
「神さまはみんなを見てる。逆らわない方がいいよ」
背筋に寒気が走る。
当の本人が呑気そうに小首を傾げているのが、ますます薄ら寒い。
「もしかして、その神は君の味方なの?」
僕の質問におかしそうに笑う。
「いやだなあ、かすみくんったら。神さまは神さまだよ。誰の味方でもない」
「…」
「でも、強いて言うなら、今は桃井百合の味方なのかなあ」
桃井百合。やっぱり彼女の姉の味方なのだろうか。
その割に葛切さんには桃井さんの妨害をしろと言ったり、行動が矛盾している。
続けて、僕は今日で二回目となる質問をする。
「…。かずやを殺したのは君?」
「だったら、どうするの? 殺し返しちゃう? かすみくんになら、いいかもなあ」
歌うように、誘うように彼女が囁く。
この子は、いつも、人魚が歌で船を沈めてしまうような、人を惑わすような問いかけをする。彼女の姉はそういう手段はきっと、とらないだろう。どうして、この二人はこんな風に違うんだろうか。
彼女はまるで。
誰かに罰を与えられるのを望んでいるかのようだ。
…僕は、彼女に復讐するだろうか。
僕がかずやを殺した人間が本当に憎いんだろうか。
わからない。
その行為が憎いのは確かではあるけど、
「どうするんだろう」
さくらちゃんは僕の返答に笑った。
「そればっかり。死ぬのを知ってたのに、なにもしなかったのは確かだよ」
僕は彼女を嫌いになりきれない。
それは、彼女が僕にUSBを渡したように、僕を助けようとしているように見えるからか。
…僕は、自分に好意を持っているかもしれない人間を、自分自身の意思と殺意をもって殺してしまえるのか?
「罪深いね」
それは、どんな罪になるんだろう。
「その通りだね」
そもそもそれは罪なんだろうか。
彼女は同意し、笑う。
くすくす笑いを上品に手で隠しながら。
僕は彼女を許すべきなんだろうか。
それとも。
ため息をつく。自分の内側に散り積もっているすべての感情を吐き出すような、できるだけ大きなため息を。
それから、ずっと気になっていたことを聞いた。
「名前は、なんていうの?」
「百合だよ」
それは、彼女の姉の方の名前だ。
からかっているのか、そう思うには、あまりに自然に名乗る。
「君の、名前は?」
彼女は大きな目を一回、瞬いた。
「あたしの?」
「う、うん」
「…さくらだよ」
なんでそんなことを聞くんだろう、そう言いたげな、不思議そうな声だった。
「さくらちゃん、君の知っていることを教えてもらえないかな。どうしても、必要なんだ。それに、どうして僕にUSBを渡したのかも」
僕の頼みにさくらちゃんは嫌そうに首を横に振った。そしてあっさり却下される。
「いやだよー。だってかすみくんに教えたら葛切にも教えちゃうでしょ? それこそ拷問でもされない限り、イ・ヤ!」
「ええ…」
そんなスキル僕はもってないし、そもそも暴力なんて極力避けたい。そして罷り間違っても、ついうっかり、で死なれてしまっては困る。
大体、海堂くんといい、この子といい、なんでこんなに知れ渡ってるんだ。僕のパーソナルなデータなのに。
そもそも学校で桃井さんの妹の話を聞いたことがない。彼女は僕らと違う高校に通っているんだろうに、どうしてここまで僕らの内情に詳しそうなんだ?
「ちゃんと知ってるんだから。…それに、まだ時期が早すぎるもの」
さくらちゃんが不満そうに、顔を赤らめる僕を凝視している。
埒があかないので、もう一つ気になっていたことを聞くことにした。
「話をかえるけど、その、…君は、もしかしたら助けを必要としている?」
「どういうこと?」
「いや、だって。その…学校は?」
ああ、とさくらちゃんは肩を竦めた。
「いつも学校に行っていないわけじゃないよ。今日は落ち葉が積もってるから。掃除しろって」
「だれにそんなことを言われたの?」
「誰でもいいでしょ」
そう言って鼻を鳴らす。どう見ても、彼女の機嫌は先ほどよりも悪い。
「いや、その…そっか。そうだね、ごめん」
「助けなんていらないよ。誰の助けもいらないの」
もう今日はもう帰ってくれる、一転して冷たく、さくらちゃんがそう言った。
その瞳は明確に僕を拒絶している。
僕は踏み込み過ぎたのだ。
「分かった、でもできるだけ、近いうちに。話を聞かせて欲しいんだ」
「わかったから」
ぶっきらぼうな返事。
「それから」
「なにー。まだなにかあるの?」
「もし、…余計なお世話だとは思うんだけど、もし、万が一にでも助けが必要な時はいつでも連絡して」
葛切さんが僕を助けてくれたように、僕もだれかの力になれるかもしれない。
ポケットから端末を取り出し、彼女の端末とアクセスをとる。
さくらちゃんは端末に許可をし、受信をするその間、ずっと無言だった。
彼女に背を向けて歩き出した時、彼女が僕に呼びかけた。
「ねえ、かすみくん。あたしのものになって」
「え?」
振り返ると、さくらちゃんが真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「この前の話なら…」
慌てて手を振り断ろうとするが、彼女に遮られてしまった。
「違うの。あたしの味方になって。あたしは、ちゃんとかすみくんのこと、好きだよ」
それは、唐突な告白だった。
「なにいって…、僕らまだ知り合って一週間も経ってないけど…」
分かってる、とさくらちゃんは俯いた。
一週間前に僕を押し倒した時とは打って変わって、声が震えていて弱々しい。
「それでも。それでも、あたしがかすみくんを好きになるのに充分だったの。かすみくんならって思った。あたしの味方になって。あたしもかすみくんの味方になる。絶対にかすみくんを裏切ったりしない。
あたしは葛切とは違う」
「葛切さんとは違うって…」
それはそうだろう。
別人なんだから。
「あたしはかすみくんが困ってたらちゃんと気づくよ」
「いやだなあ、まるで葛切さんが気がついていないみたいじゃない」
僕は苦笑してしまった。
さくらちゃんはそんな僕に重ねていう。
「だってそうでしょ。葛切はかすみくんが犯人を殺してもいいって思い詰めてるほど悩んでるの、葛切は気がついていないんじゃないの。あたしはそんなこと絶対にしない! 世界のぜんぶが敵になっても、かすみくんの味方でいる。かすみくんだけを見ているから」
小さな声でつぶやく。
「だから、あたしにしてよ」
弱々しく僕の制服の端を掴む。
僕は自分の胸が痛くなるのを感じた。
この子は僕を見てくれるという。
僕だけの味方になってくれるという。
現実を生きる上ではそれが不可能だと分かっていても、そう言ってくれることが嬉しかった。
この言葉は、
僕にとってまさしく麻薬で、
最高のアルコールで、
極上の蜜だ。
僕がもっとも欲する言葉そのものだ。
それをこうした場面で使ってしまうさくらちゃんは、もしかしたら僕と似た部分があるのかもしれない。僕らはお互いをよく知らない。それなのにこんな言葉が出てくるということは、彼女もまたそれを求めているからなんだと思う。
彼女もきっと、生きることが苦しいのだろう。
それでも手を伸ばしてしまうことを諦めきれないのだ。
知り合ってたった一週間の人間を相手にするほど、彼女は苦しい。
そして僕は。僕のような人間なら、生物なら、惹かれて当然の言葉に、いつのまにか首を横に振ってしまうほど、僕は生物として狂っていたらしい。
「ごめんね。でも、それはできない」
ゆっくりと彼女の手を引き離す。
さくらちゃんは悲しそうに、僕に尋ねた。
「どうして」
僕は自分でも嬉しいんだか泣きたいんだか、よく分からない笑みを浮かべる。
「さあ、どうしてだろう。強いて言うならきっと、彼女と出会ったからじゃないかな」
さくらちゃんは呆れたように笑った。
「そう。じゃあ、もういいよ」
そうして僕から距離をとる。
「連絡先も消す」
「いや、それはなにかあった時のために…」
「…わかった」
少し黙り込んだのち、さくらちゃんが僕に尋ねた。
「ねえ、先に出会ってたら、あたしのこと好きになってくれた?」
それの答えは決まりきっている。
「たぶん、さくらちゃんはその場合、僕に微塵も興味がなかったと思うよ」
間違いなくそうだろう。
今の僕の行動力は葛切さんの影響以外のなにものでもないのだから。
さくらちゃんの感想はなかなか辛辣だった。
「あーあ。もう。かすみくんって、ときどき引っ叩きたくなるよね」
それから、にししと笑い声を上げた。
今までで一番楽しそうな笑い声だった。
「かすみくん?」
聞こえるはずのない声が聞こえた。
屋敷に続く私道からではなく、公道の方からだ。
僕はなんとも嫌な予感がして、振り返ることができなかった。
「おーい。かっすみくんてばあ」
それなのに、声の主は容赦なく僕に続けて呼びかけた。
なんでここにいるんだろう。
「かすみくん。誰ソレ」
さくらちゃんがタレ目がちの目を心なしか釣り上げて僕に問いかける。
僕は観念して後ろを振り返る。
「紹介するよ。彼女が葛切かの。葛切さんだ」
そう、葛切さんが僕の指し示した手のひらの先で、にまにまと薄ら笑いを浮かべながら僕とさくらちゃんを見比べていた。
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