第17話 さよならを、君に。
桃井さんの取り巻きの男子が、つかつかと僕の机までやってくる。
ちょうど、僕は次の授業の内容を見返しているところだった。
授業合間の休憩時間だ。
ちょうど、葛切さんは席を立っていていない。
いや、別に守ってほしいわけじゃないけど。
けど。なんだろう。
彼は、僕ににこりと笑って、ずいと顔をつき寄せた。
「かすみくん、きもいってさ」
桃井さんの声真似だ。
「え、ごめん」
僕が反射的に謝罪すると、彼はちっと舌打ちをした。
「なにこっち見てんだよ。きもいんだよ」
確かに僕は彼らの方を見ていた。というよりも、桃井さんを。気になっていたのだ。彼女が僕にUSBを渡した意味が。そして、中身の理由が。
どうやら、彼が新たな桃井さんのパシリらしい。彼は桃井さんに頼られたという喜色と、僕に対する嫌悪感をないまぜに僕を睨みつけた。
こういうパターンは初めてだな、と感動とも言えない新鮮な気持ちになる。
「だから、ごめんね」
僕の言葉は彼の神経を逆撫でしたらしい。
「生意気なんだよ」
と悪態をつく。
とはいえ、彼だってただの高校生だ。暴力なんて慣れているわけでもない。拍子抜けするくらいに迫力がなかった。旧世紀のドラマで役者が演じる暴力性の方が、よっぽどリアリティがあった。僕のリアルはこっちなのに。もちろん、彼が僕に殴りかかろうとして、僕がそれを受ければ、やっぱりそれは痛いだろう。そして、僕がそれを好むこともないだろう。
でも、僕がこの教室で、この学校で、怯えていたのは、こんなことなのか、とストンと何かが腑に落ちた。
僕にはたくさんやらなきゃいけないこと、やりたいことがあるのに、こんなことに煩わされていたなんて。
「見てんじゃねえよ」
尻すぼみの声。
思えば、結構クラスの雰囲気も変わってきたな。そう感じる。
学年の最初の頃はみんなが桃井さんを取り囲んでいた。そんな風に見えた。女子も男子も、それどころか教師でさえ彼女の周りにいたものだ。彼らは彼女に傅く信徒で、桃井さんはまるでスターのようだった。
ところが今、彼女の周りにいるのは、ごく一部の人間だ。一部の男子を除いて、彼女の周りに人はいない。きっと、葛切さんの作戦が功を奏しただけではないのだろう。男子はともかく、女子は極力近寄らないようにしているみたいだ。 ︎
クラス内の力関係が変わってきたのかもしれない。
それとも、変わったのは、僕の方だろうか。
「おい、待てよ」
少し焦った声。
無視されるのは、イヤだろうな。普段はそう思えるのに、今の僕にはどうでもよかった。
僕は、席を立ち上がって、クラスを横断する。桃井さんに近寄った。
「桃井さん」
桃井さんがおしゃべりを中断して、僕のことをちらりと横目で見た。
「なぁに、佐藤くん」
まるで僕に怯えるかのように、手を胸の前でキュッと結ぶ。
「先週のことだけど…」
「なんのこと?」
ピクリと肩が動いた。
もしかして。やっぱり。そんな言葉が頭の中をぐるぐるする。
「桃井さんの家にお邪魔した時、」
僕の言葉に、彼女の取り巻きの男子の意識が一斉に僕に向いた。僕にちょっかいをかけてきた男子が適当なこと言ってんじゃねえよ、敵意むき出しの声で唸る。
反対に桃井さんはいつものように涼やかに、そしてねっとりとそれを交わした。意思を感じさせない、奈落のようなほの暗さが彼女の喋り方にはいつもつきまとっている。
「あれ、かすみくん。うちに来てくれたんだ。留守の時だったのかな」
しれっとしている。
僕は頷いた。
「僕、桃井さんに謝らなきゃいけないと思ってたんだ」
口から思っても見なかった言葉が滑り落ちた。
その言葉に、にやあ、と桃井さんの口角が持ち上がった。気がした。
その一瞬にして覆い隠すと、桃井さんは小首を傾げた。
「かすみくんが謝らなきゃいけないことなんて、何にもないよお」
いたずら好きの妖精のようにそう嘯く。
妖精と魚類の顔の系統って案外似ているかもしれないな。
そんなことを発作的に考えついて、その考えのあまりの失礼さに慌てて首を振った。
✴︎
桃井さんは、あの後、僕を昼休みに生徒会室に呼び出したのだ。
僕はそれにのこのこと出向いたというわけだ。
「かすみくん、謝るってなんのことかなぁ」
桃井さんが、くるくるとその長い髪の毛先を弄びながら、僕に問う。
生徒会室とは名ばかりの、ただの小部屋だ。
無造作に並べられた折りたたみ椅子の一つに桃井さんは腰を下ろしていた。僕と桃井さん以外誰もいない。どうやら、彼女はこの部屋を自由に使える権利を与えられているようだった。
「それは…」
僕は迷った。
彼女にUSBのことを聞くべきか、それとも。
ほんの一瞬、迷っている隙に、桃井さんが話し始めた。
「ま、別にいいけどね」
「え?」
「あたし、優しいから許してあげるよ。あんな風に野中と組んであたしにタンカ切ったこと。それを謝りに来てくれたんでしょ」
にこりと絶句する僕に向かって笑いかける。
「…」
入り口の扉はぴっちり閉まっている。
少し、後悔した。
これでは何かあった時、自分の身の潔白を証明できない。桃井さんなら、自分の制服をビリビリに破いて、襲われかけた、とか捏造でもなんでもしてしまいそうだ。
僕が躊躇っていると、桃井さんが僕に笑いかける。
まるで許しを与える女神のように。
「許してあげるよ、かすみくん」
僕は首を横に振っていた。
考えるより先に、自分の意思が体に出ていた。
「…それは、どういう意味?」
少し警戒をにじませて桃井さんが問う。少し口調が険しくなっている。
「桃井さん、桃井さんはご両親と暮らしているんだっけ?」
「そうだけど、なんで?」
思っても見なかった質問らしい。
「ずっと、聞きたかったんだ」
僕は息を吸い込んだ。
「桃井さんが、かずやを殺したの?」
「意味わかんない」
桃井さんが明らかにムッとした。
「君は野中くんを殺そうとしていた。かずやを殺しても不思議ではないでしょ?」
「するわけないじゃない」
桃井さんは決定的な言葉を言うのを避けている。
僕が録音機でも仕込んでいるのかとでも、警戒しているのだろうか。
そんなもの、もってないのに。
「どうして?」
「だってそんなことしちゃったら話が変わっちゃうもの」
そうか。
「桃井さんは、シナリオ通りに進めたかったんだね。…野中くんが死ぬのは良かったんだ」
「…そんなことは言ってないじゃない」
やっぱり、この桃井さんが知っているのは、かずやが死なず、野中くんが死ぬ方なのだ。そして、そのバージョンしか知らない。この子は、情報にアクセスできる特別な位置にいる。けれども、下される情報の全てが正確だというわけではないらしい。彼女もやはりマリオネットなのだろうか。
「僕は、桃井さんに謝らなくちゃいけない」
「…」
「かずやを殺そうとしたのは、君だと思っていた。だから、たとえ君が謝っても、縋っても、許さない。追い詰めて、徹底的に暴いてやるって。もし、出来なかったら、刺し違えてでも殺すって」
「だ、だから、違うって言ってるでしょ」
「その行為を許してもらえるとは思ってなかったけど、前もって謝ろうと思っていたんだ」
僕は心の中でそんなことを確かに思っていた。
ああ、そうだ。
確かに、僕は彼女を殺したいほど憎んでいた。かずやを殺したから。でも、それだけじゃない。きっと、僕はずっと前から我慢ならなかったんだ。自分という人間の尊厳をこき使われて、踏みにじられることに。僕のちっぽけな自尊心は、弱者という立場でぶくぶくとそのエゴを肥大させていた。
言語化していくにつれて、意識がより明瞭に、思考がクリアになっていく。
反対に、桃井さんの顔はどこか血の気が引いていた。
「や、やめてよ。そんなこと言うの」
「ここ、いいね。他に、誰もいない」
彼女の手は、小さく震えている。
「ひ、人を呼ぶわよ」
僕が彼女に手を下そうとしたら、人が来るのとどっちが早いだろうか、そんなことを考えて、彼女の目を見つめる。僕は彼女ににっこり笑った。
「でも、本当に桃井さんは知らなかったんだね。疑って、ごめんね」
僕は仲直りのために、握手の手を差し出す。
彼女はそれべしと振り払って叫んだ。
「頭おかしいんじゃないの、あんた」
そう言って、顔を真っ赤にする。
その時、扉が開いた。
桃井さんが、僕からさらに距離を取る。
「あ、えーと…かすみ、だったっけ。なんでここにいるんだ?」
部屋に入ってきたのは海堂くんだった。彼が、僕と桃井さんの顔を不思議そうに見比べる。
桃井さんは真っ赤な顔を隠そうとうつむいていたが、すぐに気を取り直したのか、にっこりと笑った。
「なんでもないよ。荷物があったから、運ぶの、少し、手伝ってもらってたんだぁ」
海堂くんは、ただ一言、言った。
「ふうん、そう」
世間話の一環みたいな、そんな調子で。
「でも、密室で男子と二人きりっていうのは気に食わないな。百合」
それから、同じ調子でそう言って、桃井さんの肩を抱いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます